第19話 「まだあげ初めし黒髪と、ひたいへのキス」

 「あっ、」貞園が突然に小さな声をあげる。

はるか過去の康平とのキスの場面を、突然、思い出した。

(うっかりしていました・・・・そうだ。たった一度、私たちもキスをしたんだ)



 「なんだ、藪から棒に。

 なにを赤くなってんだお前。もう呑み過ぎちまったのか、もしかして?」



 「酔ってなんかいません、私は。

 突然だけど、たったいま、あなたとのキスシーンを思い出したのよ。

 あれは、真冬の赤城の山頂だったと思います。。

 雪を見たことがない私のために、あなたの運転する車で赤城へ行ったことがあるわよねぇ。

 凍てついた大沼の湖畔で、ヤドリギをいくつも見つけて大騒ぎをしたわ。。

 きっといい事が沢山あるって有頂天になって喜んでいる私へ、あの時、

 康平が額へキスしてくれたのよ。

 でもさぁ。いまでも不思議なんだけど、なんで唇を避けて額なのよ」



 「ああ・・・有ったなぁ、そんなことが。

 寒い日だったなぁ。ポケットに両手を突っ込んで散歩したねぇ。

 ミズナラの林で、いくつもヤドリギを発見したことはよく覚えている。

 あの頃の君はまだ額へ、可愛い前髪を垂らしていた。

 それをかきあげて、お祝いだよと額にキスしたことなら確かに記憶にある。

 あのときの感触は、今でもしっかり鮮明に覚えている」



 「あの時、あなたが教えてくれた詩も、とても素敵だった。

 覚えている、あの時の詩を、今でも?」



 

 「藤村だろう。

 彼の処女出版、『若菜集』に収録されている作品のひとつで、初恋という詩だ。

 まだあげ初めし前髪の、林檎のもとに見えしとき

 前にさしたる花櫛の、花ある君と思ひけり。

 やさしく白き手をのべて、林檎をわれにあたへしは

 薄紅うすくれなゐの秋の実みに、人こひ初めしはじめなり。


 『まだあげそめし前髪』は、『髪をあげてまだ日がたたない少女の前髪』

 という意味になる。

 髪をあげるのは、現代のように髪をアップに結うという意味ではない。

 「初恋」が書かれた明治時代は、少女が12、3歳になると成熟を迎えたとみなされる。

 大人になった印に、それまでの振り分け髪(今で言うオカッパ)から、

 前髪を上げて、額を見せる髪型に変化する。

 肉体的にも子供ではない、もう成人の女性であるというアピールだ。

 『前にさしたる花櫛』の「花櫛」は、花のデザインをほどこした髪飾りのことだ。

 結い上げた匂うばかりの前髪にさした花飾りの櫛が、少年の目にはまるで

 花が咲いたように輝いて見えたことだろう。

 補足をすると『やさしく白き手をのべて』という部分が、実に色っぽい。、

 着物の袖からすべり出た、少女の白い腕にある新鮮な輝きが見事に表現をされている一節だ。

 『白い手』は、女性の肌の白さを表現しているだけではない。

 思春期を迎えた娘の、淡いエロチシズムが薫っている・・・・

 良い詩だと思う。あの頃の貞園のイメージに、ぴったりの詩だったと思う」



 「あなたの目から見て、当時の私は、チャーミングに見えていたワケでしょう・・・・

 それならば、なぜ唇ではなく、最初で最後のキスが額だったのよ」



 「君がとても純粋に見えすぎたせいかな・・・・

 触れたら壊れそうな気配があった。それに俺たちは知り合ってからまだ日も浅い。

 日本の男性は、繊細で深淵なんだ。

 奥手の日本人は、西洋人のような愛情表現はできないんだよ」



 「無理やり壊してでも手に入れる訳にいかず、だからといって放っておくのも

 もったいなくて、ギリギリの選択肢が、額へのキスというわけか・・・・

 18歳の私が、子供すぎたということなのかしら。

 それとも康平が、格好をつけすぎたせいかしら・・・・

 でも、結局のところ、あの日のキスには、何故か消化不良が残っているわ。

 こんなことならあの時、私の方から康平の唇へ、キスしておけば良かった。

 ふふふ。今となっては、完璧にあとの祭りですねぇ・・・・」



 「おっ。経験を重ねると人は成長すると言うが、なかなか君も分かってきたようだ。

 1愛人暮らしを10年も続けると、物分りの良い女に成長するんだな」



 「康平。叩くわよ、本気で。

 10年は私たちが知り合ってからの年数です。

 愛人暮らしはまだ、5年と3ヶ月。

 あなたと知り合い、赤城山へタンデムした日から、ちょうど今年で10年目。

 額へキスしてくれた、雪の赤城山頂のあの日から数えても、9年半。

 私は、大学へ編入したばかりでした。

 それからの4年間は、純情無垢な学生でいたのよ、わたしは。

 パパだって大学へ通っていた4年間は、私に、指一本触れませんでした」



 「ということは・・・

 君が大学へ通っていた4年のあいだは、いつでも恋人になれるチャンスが

 俺たちに有ったという事か」



 「その通りです。

 やは肌のあつき血潮にふれも見で、さびしからずや道を説く君。

 わかるなぁ晶子さんの、あの気持ちがわたしには・・・・」



 「博識だ、貞園は。

 それは与謝野晶子の、すぐれた代表作ひとつだ。

 その作品を収録したみだれ髪には、ほかにも

 その子二十(はたち)櫛(くし)に流るる黒髪の、おごりの春の美しきかな

 という、秀麗な短歌がある。

 与謝野晶子という人は、乱れ髪(明治34年刊行)以降、5万首をこえる作品を残した。、

 情熱の歌人と呼ばれ、旅順口包囲軍の中に在る弟のことを詠んだ、

 君死にたもうことなかれは、有名だ。

 『源氏物語』を、現代語で訳したことでも良く知られている。

 1900年(明治33年)、浜寺公園の旅館で行なわれた歌会で与謝野鉄幹と会う。

 やがて2人は、不倫の関係に落ちる。

 鉄幹が創立した新詩社の機関誌『明星』へ、短歌を発表するようになる。

 翌年には家を出て、東京へ移り住む。

 女性の官能をおおらかに謳いあげた処女歌集、『みだれ髪』を刊行して、

 浪漫派の歌人としてのスタイルを確立する。

 のちに鉄幹と正式に結婚し、子供を12人も出産している。

 「歌はまことの心を歌うもの」という主張は、当時の人々をおおいに魅了した。

 だが、気のせいじゃないぞ。俺は君に、道を説いた覚えは一度も無い。

 額にキスしたおぼえは、あるけどな」



 「キスにも、いろいろ種類があります。

 キスする場所によって、それぞれにまた別の意味が存在するのよ。

 手の上なら、尊敬を意味するし、額なら友情のキス。

 頬の上なら厚意のキスだし、唇の上なら、恋人同士の愛情のキスになる。

 瞼の上なら憧憬のキスを意味しているし、掌の上なら懇願のキス。

 欲望のキスなら、腕の付け根あたりにするといい、という定説もあるわ。

 結婚式での「キス」は、「誓いの言葉を封印する」という意味があるのよ。

 お互いの唇と唇で、誓いの言葉を「封印」するの。

 間違っても、舌なんか入れちゃいけないんだよ、康平くん。うふふっ」



 「な・・・・何の話だ。と、突然に!」



 うろたえている康平を尻目に、貞園がクスリと小鼻を鳴らす。



(いいのよ、どうせもう・・・・どうせあれは、ただの私の勘違いだもの。

あなたが、私の額へキスなんかするものだから、あの日から私の勘違いが始まった。

あなたは覚えていないでしょうが、18歳の私には、鮮烈な出来事のひとつだったの。

それが10年たっても、いまだに消えることなく、私の中でくすぶり続けているのよ。

でもさ。本当はあのときのわたしは、あなたが好きでしたなんて、口が裂けても、

言えるわけがないでしょう・・・・)



 「何か言ったか?」と、康平が顔をあげる。

「ううん、別に」と貞園がカウンターで、小さくなったグラスの氷を、

カラリと指先で小さく鳴らす。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る