第17話 「みどりの黒髪と、髪はカラスの濡れ羽色」


覚悟を決めた康平が、もう一度、鍋の火加減を注意深く確認する。

頬をふくらませ、カウンターへ片肘つき、不満そうな目線を見せて

鋭く康平を見つめている貞園の前へ戻っていく。



 「変わってしまったのは、髪の色だ。

 日本には、女性の美しい黒髪をたたえる表現がたくさんある。

 ”髪はカラスの濡れ羽色”とか、”みどりの黒髪”という言い方をする。

 日本女性の黒髪を褒めたたえた素敵な言葉だ。

 しかし残念なことに、現代日本からそんな素敵な輝きを持った黒髪の

 日本女性は、ほぼ完全に消滅してしまった。

 君と初めて出会ったとき。長く美しかった黒髪は、実に衝撃だった。

 若い女の子達ばかりではなく、ご年配の女性たちもおしゃれ染めと称して、

 黒髪を茶髪や赤色に染め始めて、ずいぶん久しくなる。

 君がやってきた10年前には、もう、黒髪の日本女性はひとりもいなかった。

 台湾から来た18歳の黒髪の留学生は、実に新鮮だった・・・・

 日本女性が忘れてしまった黒髪の守り手のように、見えたほどだ

 君の黒髪が、気がついたら、流行りの茶色に変わっていた。

 いつのまにか君も、日本の文化に順応したようだね。」



 「なんだぁ。私の髪の色がかわったことか・・・・

 まったく想定外で、実はホッとした。

 そうかぁ。、生き方や信念まで変えてしまったねぇ、などと言われたら

 どうしょうかと、ドキドキしていたのよ。

 肩に力を入れすぎて損をしちゃいました。うふふっ。

 そういえばいつごろからだろう、私が、髪を染め始めたのは・・・・」


 

 「群馬大学の教養学部に編入した時は、黒髪だった。

 河川敷のゴルフ場で、キャディのアルバイトを始めた頃のことだと思う。

 たぶん20歳か、21歳の時だ。

 そこで、運命の出会いが、君にあったんだろう。

 例のほら、”君の名は”という、有名なエピソードが」



 「嫌みな奴ですね、康平は。

 なんでそんな昔の出会いを、いまだに覚えているの。

 『君の名は』というのは、昔に流行った日本の有名なメロドラマでしょう。

 私が言われたのは『見たところあなたは日本人ではないですね、お名前は』と

 と、ある男性から尋ねられただけです。

 『名前は、貞園です』と答えたら、『日本庭園の、ていえんか』と聞きなおすから

 いいえ、『貞淑を重んじる方の「ていえん」です』と答えたの。

 そしたらその男性が、

 『君はハキハキしていて面白いから、今度から専属キャディにしょう』

 と言ってくれました。その男性が」



 「そうか。それが君の、19番ホールの始まりになった訳だな?」



 「康平くん。

 事実に、誤解と悪意による歪曲が含まれています。

 確かに専属のキャディになりましたが、当の男性とは一線を守った上で

 交際することになりました。

 在学中は、「足長おじさん」として、支援してもらいました。

 でもね、康平くん。

 パパも学業が大切だからといって、支援してくれたけど在学中はただの一度も、

 肉体関係はありません。すこぶる清い関係が続きました。

 念の為、あえて一言を申し添えます。」



 「そうだろうね。パパは市内でも有名人だ。

 家電産業直属の設備メーカーの社長さんがやることだ。

 事実は小説よりも奇なりと言う。

 魅力的な君の身体を前にして、卒業まで純潔を守ったというのはさすがに凄い。

 一流人のやることは違うねぇ~。ふぅ~ん。なるほど・・・・」



 「そうよ。だから私たちには、たくさんチャンスがあったの。

 あなたがもう一度、あのスクーターを飛ばして、赤城山にたくさんあるはずの

 ヤドリギの下でキスさえしてくれれば、私たちの人生は変わったの。

 でも、それはもう、はるかな昔の話になりました。

 今となっては遅すぎますねぇ」



 「えっ、・・・・ということは、髪を茶色に染めたのは早く気がついてくれという

 俺へのメッセージだったのか・・・・もしかしたら?」



 「他に、何か思い当たることでもあるのですか、あなたに。

 ・・・・うふふ、もうこのあたりでやめましょう、康平。

 本当のことばかり喋べりすぎてしまうと、自分が惨めになります。

 それよりも、なんで日本語では女性の美しい髪のことをみどりの黒髪とか、

 カラスの濡れ羽色などという、わかりにくい表現をつかうの?

 黒とみどりでは、色がまったく異なると思うけど・・・・」



 「カラスの濡れ羽は別名を、濡烏(ぬれがらす)と言う。

 色彩は、物体から跳ね返ってくる光の波長によって成り立っている。

 対象が光を全て透過してしまう場合、透明になる。

 全てを吸収する場合は黒く見える。

 全て反射してしまう場合は、逆に白く見える。

 同じ色の塗料を塗っても、表面に細かい凹凸が多くなると光が乱反射する。

 そうすると、白っぽい感じに見えるそうだ。

 布が水を含むと、表面の毛羽が水を含んで寝てしまう。

 一時的に表面が滑らかになることで、色合いが濃く見える。

 それを、濡れ色効果と言うそうだ」



 「濡烏」は、この「濡れ色効果」により、本来は黒一色のはずの烏の羽が

黒味を増して輝きをみせる。

水分の効果により、さらに艶が増した色合いのことを指す。

このとき光による干渉が起こり、黒い羽毛の上に青や緑、紫などの

干渉色が浮かびあがる。

シャボン玉や油膜など、色が付いているように見えるのは、この光の干渉により、

波長が変化して、さまざまな発色を引き起こす。



 わかりやすい干渉色は、コンパクトディスクの輝きや、シャボン玉がある。

コンパクトディスクやシャボン球に、色彩はついていない。

微細な凹凸の構造により、光がさまざまに干渉するため、色が変化する。

見る角度により、色彩が変化することも干渉色の特徴になる。



 「モンゴロイド(黄色人種)に属する女性の髪は、黒っぽい色をしている。

 まっすぐな髪質が特徴だという。

 黒髪が水や髪油などを含むと、烏の羽を髣髴とさせるような干渉色を浮かべる。

 この場合、干渉色が浮かぶのは、健康な黒髪に限られているそうだ。

 ただの黒色ではなく、美しい干渉色が浮かんだ状態のことを、

 昔から日本では「濡烏」と言い、賞賛の言葉にしてきた。

 健康な髪に現れる”天使のリング”も、同じ構造を持っている。

 日本女性の黒髪は、長いあいだにわたって受け継がれてきた健康美の賛美だ。

 ”ミドリの黒髪”のみどりも、色彩を意味している言葉ではない。

 新芽や、若い枝ということだ。

 ミドリには、新しく生まれた、みずみずしいものという意味がある。

 新生児のことを『みどりご』と呼ぶ。

 だから美しくて艶やかな黒髪のことを、『みどりの黒髪』と呼ぶ」



 「赤い髪や茶髪ばかりが目立つ今のご時勢では、女性本来の美しさを

 大切にする大和撫子は、もういないという事か。

 なんだぁ・・・私が、髪を染めてしまったことが、結果的に康平と溝を深める

 事態になってしまったのか。

 そこまでは私も、気がつかなかったなぁ。

 黒ならOKでも、赤は信号と同じでアウトか。知らなかったなぁ~。

 ううん・・・残念」



 (そうだよねぇ。康平は今、長い黒髪の女性にときめいているんだもの。

 たったひとり、私には、心当たりがあるもの・・・・)



 なるほど、とほほ杖を突きながら貞園が、いまさらのようにカウンターで

納得している。

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