第15話 「覚満淵に咲き乱れる高山植物と、恋人たちのヤドリギ」

覚満淵(かくまんぶち)は、大沼のすぐ上部に位置する湿原だ。

標高1,360m。周囲、1kmほどの小さな湿原だ。

「小尾瀬」とよばれるほどの、高山植物の宝庫でもある。


 大沼の東に位置し、外輪山の駒ケ岳と小地蔵岳にはさまれている。

「覚満」は平安時代、比叡山延暦寺に籍を置いた高僧の名前だ。

覚満がここで法会を行ったということに由来をして、覚満淵と命名された。


 高山植物と湿地を保護するため、周囲を一周する形で木道が整備されている。

30分ほどで気軽に、高地湿原のハイキングを楽しむことができる。

増えすぎた鹿の食害から高山植物を守るため、入口は金網で覆われている。

入場者たちは小さなゲートから、ブナの林を抜けて木道の遊歩道へ進んでいく。



 「鹿の食害から守るため、ゲートを設置しましたと入り口に書いてありました。

 人の手によって保護管理されているはずの湿原なのに、動物と人が

 共生できないなんて、なんだか変な話ですねぇ」



 「地球温暖化による悪影響さ。

 積雪が減少したことや、オオカミや狩猟者などの天敵が減少したため、

 結果的に、鹿の頭数を増やすことになった。

 適正なバランスを超えて増えすぎてしまったことが、自然破壊につながった。

 いまのような深刻な、食害を生み出したのさ。

 鹿たちは、有害な草や葉は一切食べない。

 そのために高山植物や若木の幹などが、集中的に鹿の食害被害に

 遭うことになる」



 「原因はやっぱり、人間による環境破壊のせいなのか。

 地球の温暖化って、やっぱり深刻な問題よねぇ。

 へぇぇ・・・・こんなところにも、具体例が転がっているのね」



 ゲートをくぐると、熊笹が密生する斜面へ出る。

ミズナラとダケカンバの林を抜けていくと、山の景色の中に不釣り合いといえる、

高さ3mのコンクリートの堰堤が目の前に現れる。

堰堤は、覚満淵の環境を守るためのものだ。

長い年月にわたり蓄積されてきた、貴重な高原湿地の環境を守るため

あえて設置された、構造物だ。

堰堤の階段を登りきると、いきなり視界が開ける。

冷たい水を満々と湛えた覚満淵の広い水面が、とつぜん目の前に現れる。


 「わぁ~。

 いきなりコバルトに輝く水面が、目の前に登場したわ・・・・

 へぇぁ。ここが高山植物の宝庫で、キスのホットポイントがある噂の覚満淵か。

 想像していたより、はるかにスケールが大きいわ!」



 「ここは、小さな尾瀬と飛ばれているくらいだからね。、

 ミズバショウを始め、たくさんの高山植物が群生している場所だ。

 環境を保護するために池に面した水辺には、木道が整備されている」


 「それにして高いわねぇ。

 この木道は、水面からは2m以上も高い位置にあります・・・

 こんな高いところまで、水面が上がってくるわけ?」



 「雪が一斉に溶けはじめると、水面が一気に上昇する。

 もちろん、この木道の高さまでは達しないさ。

 それでも、たくさん雪がふったときは、ギリギリまで上がって来る時がある。

 覚満淵に流れ込んでくる川は、一本もない。

 周囲の外輪山に降った雪と、山肌に降った雨が溜まったものだ。

 木道のこの高さには、もうひとつ別の理由がある。

 人が水辺に侵入するのを防ぐためだ。

 水辺に降りて、高山植物を荒らさないように、そんな配慮も含まれている」



 木道は湖面に沿って、ぐるりと進む。

湖面に沿って、湿原の最奥部に向かって進んでいく。

尾瀬にある木道とは、かなり趣が異なる。

覚満淵に設置されている木道は、横幅が2mから3m近くもある。

丈夫な木材で構築された長い橋と言ったほうが、わかり易い。


 湖面の中心部に、湿地の植物に覆われた浮島がいくつも見える。

ここが雪解け水で満水にかわるのは、5月の初旬。

満ちていく水面に同調して、春から秋まで覚満淵にはたくさんの花が咲く。

赤城山を代表するオレンジ色のレンゲツツジ。

大粒の花をつけるアカヤシオなどのヤマツツジの仲間たちが、

外輪山の山肌と、湿原の水辺を彩る。

浮島には、高原の尾瀬で有名になったミズバショウやノハナショウブ、

ヤナギランといった高山植物が、春の訪れとともに咲き誇る。


 春の花たちが消えたあとには、夏を象徴する花として、

黄色い花のニッコウキスゲや、紫色でリンドウに似た花を咲かせる

ヤマホタルブクロが、可憐な花を開花する。

清廉な水が常に流れる岸辺では、ミズゴケやツルコケモモが、色鮮やかな

緑の絨毯を敷き詰める。


 木道には、木陰を利用したベンチがあちこちにある。

そのひとつにさしかかったところで、康平が立ち止まる。

熊笹の斜面ごしに立つ大木へ、指を向ける。

斜面に覆われた斜面に一本だけ、大空に向かってそそり立つ大木が見える。



 四方へ広がる枝が、まるで巨大な千手観音のようだ。

すべての枝が大空に向かって、舞い上げるように伸びていく。

濃い緑のコケが、幹にこびりついている。

濃い緑の葉が、稜線の風にあおられて、さわさわと揺れていく。

覚満淵の水辺に立つ、ミズナラの古木だ。


 ミズナラは、ブナ科に属する落葉の広葉樹。

温帯の山岳部を中心に、落葉広葉樹林帯などを構成する代表的な樹木のひとつ。

別名を、「オオナラ」と呼ばれている。

平坦地に分布する、コナラやクヌギよりも寒冷な気候を好み、鹿児島県の

高隈山を南限に、北海道から、樺太・南千島まで広い範囲で生育している。

保水能力が高いブナとともに、水源の森には欠かすことができない

大切な樹木の一つだ。



 ブナに比べ、やや明るい場所を好む。

樹高は、高いものでは35m以上に達するという。

葉は、つやのない緑色。

コナラの葉よりも、はっきりとした鋸状の輪郭を持っている。

5月から6月にかけて5 cmほどの花を咲かせ、秋には大量のドングリが熟す。



 「ほら見えるだろう。はるかな枝の先・・・・あそこに、ヤドリギが」



 貞園が、澄み切った青空を見上げていく。

古木の枝の先に、もうひとつの別の緑のかたまりが見える。

稜線からの風を受けて、同じように気持ちよく、さわさわとそよいでいる。

だがあきらかにミズナラの葉と異なる、やわらかい緑の枝のかたまりだ。

周りにひろがったミズナラの枝が、強い風からヤドリギを守っているように

さえ見える。


 「へぇぇ・・・・あの小さな緑のかたまりが、幸運をもたらしてくれるという、

 恋人たちのヤドリギなの?」


 夏の日差しを受けてキラキラと輝く若い葉を、貞園がまぶしそうに見上げる。

見上げている貞園の瞳が、いつの間にか潤んできた。



 「ミズナラの古木が、ヤドリギを優しい気持ちで守っている・・・

 そんな雰囲気が漂っていますねぇ。

 支えあって生きて行こうという、命の集まりです。

 こんなふうにいたわりあいながら、身体を寄って生きていく生き方も

 地球上には、あるんだわ・・・・

 まるで年老いたおばあちゃんが、孫をいたわっているような雰囲気です。

 スケールの大きな優しさを、私は初めて目撃した。

 嬉しすぎて・・・・このまま感動で、泣いてしまいそうです、私ったら」



 (そうか。この古木は、おばあちゃんの優しさか・・・・

 言われてみればそんな気がする。

 この子は、どうにも正体不明の不思議な雰囲気を持っているけど、どこかに

 優しくて素敵な感性を持っている子だなぁ。)



 なるほど。この木は、母親じゃなくておばあちゃんか・・・・

康平が、貞園の肩へそっと手を置く。

驚いた顔を見せた貞園が、つぎの瞬間、フフフと笑って康平の肩へ

やわらかく自分の頭をかたむける。

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