Ethical Error

不定

変身能

001―疎まれ者の研究室

「変身能力ねえ」

 白衣を纏った男は、薄く生やした顎鬚に手をやりながら、強化ガラスの向こうを見て呟いた。

「これ、マジなん?」

「この書類に偽りがあるか、ないしはあなたに対する嫌がらせか、そのどちらかでもなければ、そうですね、マジなのでは」

 男の質問に答えたのは、カルテのような書類を持った、眼鏡の女――同じく白衣を着ている。

 両者共に目は合わせていない。その視線はあくまで、向こう側の対象に据えられている。

「しかし変身っつっても、ねえ。変身だよ?」

「意味がわかりません」

「いやいや……なんていうかなぁ、伝わらないかなぁ、このおかしさ」

「きちんと言語で伝えてください」

「またまた、つれないことを言うじゃん。お前はいっつもそーやって頭ごなしにぼくに言うけど、人間ってのはこう、心で通える部分ってのが、大事だと、ぼくなんか道徳心のある者は思うけど、ねえ」

「道徳心? あなたが? ジョークのセンスさえないですね」

「ジョーク? んなことないさ、ぼくはいつだって道徳的だよ。人道的で仁義に溢れている。道徳の徒と言っても過言じゃあない。今までぼくが道徳に反することをしたことがあったかい? ぼくは小学校で道徳の授業を受けたっきり真っ当な人間として生きてきたんだ。真っ当な人間以外として生きてきた記憶がない。もちろん道徳の成績はいつもAだったよ」

「は、この前まで小魚の心臓を肥大化させてポンプに運用する実験をしていた奴が、何をぬかすんです。それに道徳には成績はつきませんよ、嘘っぱちが」

「糖と酸素で動くんだぞ、使うしかないだろ?」

「素直に発電してください」

「それに、あれを『小魚』などと一括りにするんじゃないよ。ゼブラフィッシュな。自動修復できるポンプがありゃあ、圧倒的に人の手が入りづらい場所でも――」

 男は初めて女に向き直り、弁解をするように両手を広げて迫ってみたものの、女は依然として前をを向いたままだった。

「……しかしだね、あの男が――あんな、ツケゲの地下でダンボールハウス・ウィズ・ブルーシートを決め込んでいそうな男が、そんな素晴らしくも恐ろしい能力を備えているとは、到底思えないな」

 『ツケゲ』とは、地名である――そう言う男が横目で見るガラスの向こうは、無機質な金属の壁に覆われた空間だった。ガラス窓のすぐ横に、同じく金属製のドアがある。三重のロックがかかっていて、それ自体もかなり重厚な作りだ。まるで暴れるを、強引に閉じ込めるような造りで――

 その部屋の真ん中に、一人男性が座っている。白衣の男が言うように、とても某国の憲法に約束された生活を送っているとは思えない風貌だった。

「あれも変身、らしいです」

「へー、なんのためにあんな臭そうな格好を」

「さあ」

 一方、部屋の中の男は、ガラスの向こうの白衣の男女を見ているわけでもなく、格好に似合わない(むしろ似合う?)神妙な顔つきで鎮座していた。

「本部からの書類見せて」

 男は女から受け取ったものの内容に目を通す。

「概略。発見段階ではホームレスのような格好をしていて、能力について指摘したところ、指摘した調査員と瓜二つの、服装を含めた全ての外見、声、仕草を『コピー』した、と」

 男はため息を吐いた。ただしため息とは、必ずしも憂いを伴うものではない。

「しかも、その調査員は身長百九十センチ、体重九十キログラムだったのに対して、ホームレス姿の彼は大体百六十センチの細め体型でした。つま」

「つまり、少なくとも見かけ上、質量保存の法則は無視されている、と」

 男は女の言下に追突した。

 突如。

 ひっ――と。

 聞きようによっては怯えているような、生理的な反射による呼吸音が、強化ガラスの外側で響く。最初女はそれが何の音なのか、検討がつかなかった。ただ、右耳に残響する凄惨たる不快感だけを認知した。勢い、右に目線を遣る。

 男の口角が釣り上がっていた。白い歯がギラつく。犬歯が、長い。

 それは――後から思えば言うまでもなく『笑い』だった。多分何度も聞いたことがあるはずだが、その度に忘れている、彼の耳障りな笑い。

 忘却と言えば、嫌な記憶は比較的忘れやすいと言う。

 抑圧される。

 しかしながら、人間の記憶は完全に消滅することはない。深いところに寝かしつけられて起き出すことが難しくなった『忘れられた記憶』は、文字通りただ寝かしつけられただけで、あるいは何かの拍子に揺さぶられて目覚めることもある。刺激をきっかけにして復元される。

(それにしては、些か単純過ぎる気がするけれど。単に、『不快な音』って)

 そうメタ的に思いつつも、女は自然と右の男を睨みつけてしまっていたのだ。

 なぜかはわからない。

 理由はないのかもしれない。

 黒板を引っ掻く音、発泡スチロールを擦り合わせる音、虫の羽音、子供の金切り声――恐らくは本能的に広く嫌われる音とは、あまり共通点がないが……

 若干身体を屈ませるようにしていた女だが、それも感覚として長い時間だっただけで、実質的な反応時間は一瞬だった。一瞬すぎて、深く考える気すら起きなかった。

 そして再び視線前にを戻した女は、男のそれとは違い、正真正銘の憂いを帯びたため息を吐くのだった。他方、一呼吸だけ笑った男はそれから微動だにしていない。

 ややあって、

「興味深いねえ」

「……そうですか」

「ただ、これじゃあちょっとよくわからないな。わからないって言うか、あれ。なにをして良いのかがちょっと検討がつかない。なにをして良くてなにをしてはいけないのか、わからん」

 腰に両手をあてがい思案顔を浮かべる。

「なにが危険なのか――彼? は、どういう存在なのか、先駆して調べる必要があるはずだ。犠牲を払ってでも。うぅん、やっぱり嫌がらせなんじゃないか、これ。ただたんにそれらしい書類をつけてどうでもいい浮浪者を連れてきたんじゃねーのか。その可能性は否めない、ぼくの嫌われ者さ加減から言って、否めない。うん。淡まれている。でも、せっかくくれた人材ならば、最大限使うのも手っちゃあ、手だしな。そうだな」

 ブツブツと独りごちていた男は、しかし一人で納得したようで、

「仕方ない。ちょっと試し、してみようか」

 と言っておもむろにマイクを取り出した。

「……あ、ちょっと待ってください」

 が、はっとしたように女が制した。さっきまでの力みはすぐに忘れてしまったようだ。ため息と一緒に流してしまったのかもしれない。

「ん?」

 もしくは、自分の不備に気づいてしまったから、決まりが悪かっただけか。

「ごめんなさい。付録、ありました。本部職員や博士が臨時に面談したときの、議録」

「それ、早く言えよ。ったく、お前はやっぱり体育会系かもね。抜けてる」

「体育会系を敵視しすぎじゃないですか。そもそも私、違いますし。偏見ですし、二つの意味で」

 男の言い草はやはり嫌われ者のそれであり、敵を増やすことにかけては天才的であることが十中八九正解みたいなものだったが、その言葉はやや含みを帯びていた。

 例えば、ひねくれた親が出来の悪い子供をなじったときのような。

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