第7話SING,SING,SING

リペアーから君は確かに帰って来たが君が僕を手に取るまで更に1ヶ月を要した。

君が僕を持ち上げる手は弱々しく、実際にレッスンや練習に参加を始めたのは8月になってからだった。


6月にリペアーに行ったのだから本格的に練習を始めるまで2ヶ月程かかった勘定になる。

僕等はリペアーから帰ってくれば直ぐに演奏できるのだが、人はそうはいかないらしい。

何だか不思議な気がする。


帰ってきた持主は以前と同様に地道な練習に戻った。

音域を伸ばす練習、リップスラー、どの音でも均一の響きを保つ練習、リズムを均一に刻む練習と少しづつ種類が増えていく。

自然、練習時間も60分から90分と長くなってゆく。

まあ、本当にいつになったらスタートラインに立てるのか、やれやれな感じだ。

それでも持主は嬉々として以前と同様飽きる事無く続けているのだから少し嬉しいかもしれない。


そんな持主にビッグ・バンドのソロが回ってきた。


9月にビッグ・バンドの演奏会を行うというものだ。どうやら演奏のできるライブハウスを貸し切りにした昼食混みの演奏会らしい。

3,000円のチケットを参加者20名で約70枚以上売り捌くというものらしい。一人2名以上に売れば参加費以外の追加金無しに演奏が出来る仕組みだ。

演奏会に演奏する曲を何度か練習するうちに1st.トランペットと2nd.トランペットを分割担当する二人が最終曲を吹くのに体力温存のため5曲目のソロを代わって欲しいと言い出したのだ。

持主は狼狽えたが断われるものでも無い。Tpパートの現状として3名しかいないのだから。何せソロ部分の最高音は5線の中のDなのだから。


それからというもの明けても暮れても持主はソロ部分の練習に専心するようになった。

だが、ビッグ・バンドの曲を一人で練習するのも限界がある。

結局、多くの楽器と合奏するのだから最終的には全ての楽器と合わせて練習するしかない。

楽器初心者(何年初心者かはその人次第)の持主にとって月2回、あと残り4回はかなりハードルが高いと言えるだろう。

たった16小節の短いフレーズだが初めての事なのだ。


こんな時、自分が自分として役に立つのは、やや軽めと言う事だけだ。軽めだから長時間持っていても疲れないとか、他の重めな楽器より少し長く吹き続けられるとか、そんな事だけだ。


ソロ交代後の初めての合奏練習が始まった。1曲目、2曲目、3曲目、4曲目、問題の5曲目Pennsylvania 6-5000。

ソロとして合わせるが出だしがずれて合わない。

2回繰り返すが合うものではない。最後は先生がカウント出ししてようやく合った。

持主はぞっとしているだろう。

練習後片付けが始まると同じトランペットの仲間がそばに来た。

そして、Pennsylvania 6-5000のソロの前の手拍子部分はソロの準備時間として使い、手拍子しなくても構わないと思うと言ってくれたのだ。

これで持主の気は軽くなっただろう。自分も少しほっとした。何せ持主の焦りや不安をもろに被るのだから。

持主の不安や焦り、緊張は楽器に伝わる振動を減らし発音しにくくしてしまうのだ。

発音の遅れは旋律の遅れとなり、楽曲との不調和を生む。


あ〜また心配事が増える…。

もう、持主は何だって中々上手くならないのか、自分に心配ばかりかけるのか、まったく馬鹿な持主を持つと心配事ばかりで嫌になる…。

あ〜あ、まったくもう。何て持主なのだ。楽器にこんな心配ばかりさせるなんて。

心労ばかりで早く壊れてしまうかもしれない。

溜息、溜息、溜息…


吹けなくても、それでも持主は練習する。

最も吹けるようになるには練習するしかないのだが…しかし悲しいかな、練習したからといって吹けるようになる訳でもない。

吹けるようになるには、その曲を吹けるようになるだけの技術と能力を備えているかによる。

多分、落ち着いて練習し、落ち着いて吹けば吹けるかもしれない。持主はちょうど吹けるようになるかならないかのぎりぎりの線だろう。

後は時間との戦いだ。

それと…持主にはハンディキャップが少しある。

体調を崩した時に肺に水が溜まり、その後遺症で肺が痛む事があるのだ。

肺に空気をためた瞬間に痛んだりするのだ。


そんな練習の日々が過ぎ、迎えた3回目の合同練習というかビッグ・バンドの練習。

もう既に1曲1曲確認の段階だ。

ドラムか先生のカウントで曲がはじまり主に通しで吹いていく。午前、11:00頃から夕方16:00頃までの作業となる。テンポや効果のつけ方、このビッグ・バンドのレベルと思われる所まで先生が引き上げていく。

1曲目、2曲目、3曲目、4曲目、問題の5曲目、持主は手拍子をしない。食い入るように譜面を見つめている。ソロの2小節前、自分を構えた。カウントが出来ている証拠だ。

1、2、3、4、ブレスで息をためる。次の小節、1、2、3、4、で息を吹き込む。他の楽器とフレーズが合う。バック演奏の上に旋律が載る。

あ〜、やった‼︎初めてのジャストイン。

個人レッスンを受けている持主には合奏という練習をする機会がほとんど無い。この辺りがハンディになっている事もある。

持主を覗き見ると唇の端があがり満足そうだ。

とにかく良かった。ただ、本番は別ものなので心配は残るがまずまずだ。


一週間はあっという間に過ぎる。

順番に全部の曲を浚っていく。1部8曲、2部アンコールも入れて8曲、計16曲もの曲を演奏するのだ。

これを順番に浚っていくのだ。初見不得意な持主にとっては本当に大変なのだ。

これ等の曲は元からのメンバーは演奏慣れしているが途中から入った持主にとっては初めての曲。初心者の域を出ない持主にとっては大変な事だろう。

浚って浚って浚って…いかんせん時間が足りない。

本番では吹ける所を吹くしかないだろう。


そしてリハーサル。

この日は本番と同様、頭から曲を順番に確認していく。1曲、通す毎に注意すべき点が先生からあげられ数回そのフレーズを練習し、次の曲にいく。

朝の10:00〜16:00までの前回と同様の長丁場だ。

区切りの良い所で10〜15分、昼食30分。かなりハードな練習だ。

持主もそれなりに頑張っている。まあ、全曲吹けるという訳にはいかないが…

この類いの練習になると体力勝負だ。

14:00ぐらいまではまあまあ何とかついていってあたが…15:00ぐらいになってくると持主はぼやっとしてきた。体力切れだ。もう、譜面が追えてない。

吹き過ぎで音もでていない。息がすかーってベルから出て行くだけ。

こうしてリハーサルは終わった。後は本番だけだ。


持主は家に帰るとぐったりとそのまま寝てしまった。


君、頑張ったよね。僕は知っている。


本番当日。

ランチタイムからの開始。

客は演奏者の友達や家族だが3,000円のチケットを買ってきてくれている。

音楽のシーンはうちわの世界だ。

よっぽど名前が売れていない限り、お金を払ってまで聴きに来てくれる人などいない。

それぞれがそれぞれの伝を辿り、聴いても良いな、という人々を探してくる。

そうして探した人達は一度聴いて、まあ悪くは無いと思ってくれれば次も誘えばお金を払って聴きに来てくれる。皆、音楽が好きなのだ。


心わくわくだが、持主は少し緊張気味だ。

大丈夫、僕がいるよ。


演奏が始まった。

このバンドのまあまあの線が出ている。但しソロ部分は別。上手くこなす奴、緊張して全然吹けない奴、様々だ。もちろん、出来の方もばらばらだ。

曲はそうやって進んで行く。

2曲目、3曲目、…そして5曲目がやってきた。

他の曲と比べるとテンポや緩やかな方だ。

曲が始まり手拍子部分になると、人数が足りなかったため、奏者に入っている隣りの席の先生が要領悪くもそもそやっている持主のマイクの位置を調整してくれた。そして、もっとマイクに近づくよう、先生かわ持主を促すが既に緊張している持主は中々マイクに近づかけない。

あ〜、手拍子が終わる、本番でほぼ全員が緊張しているため、いつもよりテンポが早い。

ドラム、走るな、喇叭の神様、お願い…

ちっ、何で自分がこんな事を…


入りはぴったりだった。でも、いつもより早いテンポに君は少し後乗りな感じになってしまって…

目立つほどではないが演奏が少し微妙な感じになってしまった。

君はほっとして席に座ったが、やっぱりがっかりしてますいる。

曲は進んでゆくので涙ぐむ事は出来ない。

二重奏部分の下を演奏する曲もあったが、がっかりした君の音には力がほんの少しだけだ欠けてしまった。

最後のアンコール曲は目立たないソロもあったのだが、すっかり疲れてしまった君は殆ど音が出なかった。


こうして本番はさあっと風のように過ぎていった。

君はとぼとぼと家路に着いた。

暗くなって来た道を点灯し始めた街灯が白々とぼんやり照らし出す。

君と僕と君の背中を。



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