第6話 Prelude No.15 in D flat major, Op.28-15 - F.Chopin-

それは4月上旬の蒸し暑い日だった。


その日も持主はやって来て一通りの練習を行い自分を丁寧に掃除すると楽器ケースにしまった。

持ち上げるとそのまま預けずに外へ出た。

明日、ビッグ・バンドの練習か先生のレッスンがあるのだろう。

当日取りに来るのは大変なので前日に自分を自宅に持ち帰るのだ。


蒸し暑いせいだろうか。それとも疲れているのだろうか。持主の足取りがいつもより重い気がする。

駅の改札を通り抜けホームへの階段をゆっくりゆっくり登って行く。

まあ、自分も金属なので軽い楽器の方だから重いという事はないが、決して軽いということもない。


ホームに着くと電車は到着しておらず待たなければならないようだ。

それにしてもベルに水滴が付くかと思うほどの湿度だ。



持主が自分をケース毎ホームに置いた。

これは今までに無かった事だ。

椅子や机の上に置かれた事はあるが地面というか床や下に置かれたのは初めてだ。

驚いた。

もう、大事にされていない⁉︎

自分に飽きが、若しくはトランペットに飽きがきたのか?あまりに吹けないから?

いったい、いったい…身が震えた気がした。

もう押入れにしまわれてしまうのか。


電車がホームに滑り込んでくると持主は大義そうに自分を持ち上げると乗り込んだ。

空いている席に座ると持主は自分を縦置きにベルを下にして抱え込んだ。

電車の中もさして涼しく無い。乗客達は汗びっしょりだろう。

暑さに湯だった持主の微かな鼓動が伝わってくる。

電車は自分と持主を乗せて数駅を進んだ。

多くの人々が乗降してゆく。こんなにも沢山人は溢れているのに持主の見知った顔はいない。

当然と言えば当然だが不思議と言えば不思議だ。人は溢れているのだ。

不意に持主が自分を持ち上げ、席を立ち下車した。

まだ降りる駅でも無いのに…。

そしてそのまま駅の椅子に座り込んだ。自分が入っているケースをしっかり握りしめたまま。

何分たっただろうか。持主入って立ち上がると覚束ない足取りで数歩歩くとその場に倒れこんでしまった。


⁉︎


行き摩りの女性が何やら持主に話しかけるが持主は答える気力が無い。別の人が駅員を連れてやって来た。こんな時、人の世も捨てたものでは無いと思える。駅員が持主に話しかけ、今度は持主も何とか答えている。


良かった…多分、息を止めていた自分は、その息を吐きだした、と思う。


持主はそのまま駅員室に運ばれ小一時間休むと駅員に礼を言い家路に着いた。


その時はそのまま済んだ。

しかし、それを境に持主は体調を崩したのか練習する時間が大幅に減った。従って自分と過す時間もどんどん少なくなっていった。

そして4月の終わり頃、持主は家を出たまま戻らなくなった。閑とした誰もいない部屋で無駄な時間だけが過ぎてゆく。

押入れにしまわれた訳では無いが置き去りだ。

捨てられてしまったのだろうか。飽きられてしまったのだろうか。それにしても部屋には帰ってきそうなものだが…


2週間以上たったある日、部屋の扉の音がし誰かがやって来た。

「Kちゃん」

持主だ‼︎

たが、その弱々しそうな声といったら…

どうやら持主は身体が壊れたらしい。不在にした2週間は病院というリペアーにいたらしい。

更に壊れた箇所を治すためにリペアーが必要で入院と手術やらをするらしい。

持主は元気になって帰ってきたら、また一緒の日々を過ごそうと言う。

その日、久々に持主と一緒の部屋で過ごした。


翌朝、持主はまとめた荷物を手に部屋を後にした。


自分の寿命は20年ぐらい。持主の方がずっとずっと長生きだと信じて疑わ無かった。自分が先に壊れるものだと思っていた。

持主が壊れたまま治らなかったら、どうなるのだろう。捨てられてしまうのか?

治らなかったらもう二度会えないのか?

部屋に取り残され不安が膨らんでゆく。

君との時間をもっと大切にすれば良かった。

演奏は下手くそだったが自分を大切にしてくれる君だった。

同じ事を繰り返し考え持主との日々を思い出し、発音できない思いと考えは渦を巻いて空を登っていくかのようだ。

一人でいる時間は永遠のようだ。

果てしない真っ白な世界を一人で歩いて行くかのようだ。


そしてそして、その日は突然やって来た。


閑とした部屋に音が響きわたった。

玄関の扉の音だ。


重たげで不安定な足音が響いてきた。

人達の話し声もする。


‼︎

ああ、あった、君の声があった。

ずいぶん弱々しいが確かに君の声だ。

音の無い空気が僕の中を通り抜けていく。

ああ、君が帰ってきた来たのだ。


足音が近づいて来る。

ケースの蓋が開けられた。

君の指が僕を優しく撫でた。

僕は何も考えられず、無音の音でお帰りなさいと呟いた。

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