第5話 On the Sunny Side of the Street
さてさて、それなりに時は流れて…
持主は地道に地道に練習を重ね何とか音を繋げられるようになった。
16部音符やテンポの速い曲、混みいったリズムはまだまだだがそれっぽくなってきた。
音域も広がりF♯からGまでの2oct.出るようにもなった。
汗と血と涙(?)の賜だ。
日々弛まず一人と一楽器、二人三脚で黙々とやってきた。
もう、練習中心の日々だ。
その間、自分の住み場所も変わった。
持主の会社のロッカーから持主の友人の紹介で音楽教室と貸しスタジオをやっている所に預けられるようになったのだ。
ほぼ毎日、持主には会えるので、そんなに淋しくは無い。本当は持ち帰って欲しいのだが…
だからと言って大切にされて無い訳ではない気がする。
出会ったTpの中には、どうよ、という感じのやつもいる。購入されてから一度も手入れして貰ったことの無い奴、ピストンヴァルブに殆どオイルを注して貰った事の無い奴。
皆、本来の寿命より短い一生を送ることとなるだろう。そいつとたまに会うと殆んど老楽器風で何ともやるせない。押入れの奥深くしまわれ二度と吹かれなくなるよりましかもしれないが…
持主は吹き終わると直ぐにスワブをかけて各部位にオイルやグリスを塗ってくれる。
少しくすぐったいけれど本体も隅々まで丁寧にクロス拭きをしてくれいつでも眩く輝いている。
消耗品交換にリペアに持ち込んでもリペアさんが良く手入れされていて大変コンディションが良いと口を揃えて言ってくれる。
ふふん。ちょっと誇らしい。
いつでもタキシードかモーニングを着用している気分だ。
さて、音域が広がった持主に 先生が新しい提案をしてきた。ビッグ・バンドか吹奏楽に参加しては、というものだ。
未だに楽譜が良く読めない持主に習うより慣れろ、というところだろう。
それと耐久力を養うためらしい。
個人で練習していると音が出なくなりそうだと休みと休憩を入れる。これでは限界ぎりぎりの練習にならないため長時間吹き続ける練習にはなりにくい。このため長時間を仲間と一緒に吹き続けるバンドでの練習に参加してはどうかという事らしい。
持主は迷いに迷っていたが「先生が教えているビッグ・バンドに参加する事にした」と自分に呟いてきた。
心配だが仕方あるまい。一人では練習出来ない事もあるのだし。あまり過保護でも持主の上達を妨げてしまう。
楽器なので何か阻止出来る訳でも無し。
ある日の夜、持主の練習後、音楽教室に預けられずそのまま自宅に持ち帰りとなった。
何度か持主の自宅に宿泊しているが寂びしい感じだ。
持主は一人住まいなので夏は帰ると超暑いし冬は超寒い。夜なので部屋は暗いし…
ちょっと涙が零れそうな、気の迷いが一瞬だけあった。さ、だって、持ち主には沢山の楽譜達と自分が居る訳だから、、、そう淋しいとは言えないと思う気がする…だってさ、自分がいる訳だから、ね?
その日、持ち主は22:00頃には布団に入ってしまった。結構な年齢だそうで寝不足だと音が出ないらしい。
おやすみの子守唄にかかっているのはCDはクリフォード・ブラウンのクリフォード・ブラウン ウィズ ストリングスだ。
自由自在なアドリブと繊細なメロディーラインは楽譜に無い新しい音楽を紡ぎだしている。
バラードの数々が収録されているCDだ。
美しい旋律が君に良い夢を運んでくれますように。
僕はケースの中でそっと呟いた。
翌朝、持ち主は少しそわそわ緊張して起きてきた。
初めて大勢の人としかも様々な楽器達と合奏するのだから無理もない。
家を出てからも何やら落ち着きがなく、駅までも心持ち早足だ。
自分も持ち主の背中で揺れる。
ゆらゆらゆらゆら、ことことこと。
自分のケースに一緒に入っているオイルが隣でちゃぷちゃぷと音を立てている。
休日の午前の時間。いつもなら通勤者が沢山歩いている道も人通りがまばらだ。というよりほとんど誰もいない。
その道を弾むようなとぼとぼしているような、入り交じった足取りで駅に向かっている。
着いた駅も閑として平日と趣きがちがう。
急ぎ足で階段を降り、ホームに降り立つ。
練習の荷物は結構な重量になる。
楽譜、メトロノーム付きチューナー、スタンド、マウスピース、飲み物、リップ、チビタオル、歯磨き一式、そして自分。
鞄はぱんぱんなデブになるし両手も塞がってしまう。これで雨でも降ろうものなら傘もだ。
全部の荷物を傘の中に入れるのは不可能だから何かが濡れる事となる。ま、つまり持主が濡れる事となるわけだ。因みに自分は雨に濡れた事は無い。
ホームに滑り込んできた地下鉄に乗ると地下鉄もがらがらだ。
持主は二つ続きの空いている席を見つけると座った。持主の横にケースごと自分を座らせる。片手をケースに掛けたままだ。
普段は持主の膝の上だ。だが今日は殆ど乗降客がいないので一人一席なのだ。
地下鉄の揺れと添えられた君の手…
午前中の明るい陽の中、時間が無限にある気がしてくる。
言い忘れたが地下鉄でも一部地上を走っていたりするのだ。
そんな夢心地の中、駅名を告げるアナウンスが流れ自分は持主に持ち上げられた。
やっぱり少し急ぎ足で持主は歩いて行く。
10分ぐらい歩いただろうか、貸しスタジオの文字のあるビルにたどり着いた。
持主は階段を下り出した。スタジオは地下らしい。
扉を開けると猫の額程の待合室があり自販機が一台でん、と置かれている。
入って右手は扉があり、左手は通路らしきものがある。多分、右手に大きなスタジオ、左手の通路沿いに何部屋かあるのだろ。
待合室の小さな二人がけソファーに先生が座っていた。右手の扉を持主に示している。
持主は小さく頷くと自分をしっかりと持ち直し扉を開けた。
中扉があり、そこを開けた途端、様々な楽器の音が、わっと襲ってきた。
艶やかな音色にビブラートがかかったバリサク(バリトンサックス)、テナーサックス、アルトサックス、のサックス族、柔らかで響く低音のトロンボーン、全体の進行を決めるドラム、伴奏を受け持ち音のピースの繋ぎ役のピアノ、キーボード、ギター、リズムをドラムとともに刻むベース、そして同族のトランペット。ざっと25人ぐらいだろか。結構な人数だ。
あらかじめ先生がトランペット達に説明してあったらしく二人が立ち上がると持主に話しかけてきた。
音域なんかを聞かれている。それはそうだ。音域で任せられるパートが決まってくるからだ。
一般的に今の持主の音域からいくと3番か4番だろう。
リードトランペットはやはり五線の外のEやFが出ないと苦しいだろう。ビッグ・バンドなのだからラテンスタンダードをやればEぐらいいくらでも出てくるだろう。
なので持主のパートは3番か4番ということになる。
だが、3番・4番だからと言って安心は出来ない。まず無いが1番より高い音を吹いたり、1番と同じ旋律をそのまま吹いたりすることがあるからだ。
そんなパートを吹いたり込み入ったリズムが吹けるのだろうか。持主を心配するあまり自分の方が心拍数があがっているのに違いない。
そもそもビッグ・バンドの譜面が読めるのだろうか。持主は合唱出身なのでパート譜にあまり馴染みが無いのだ…
そんな自分の心配をよそに楽譜が回されてきた。
やっぱり持主の知らない曲だし16分音符が並んで譜面が込み入っている。
持主が目をぱちくりさせているのが分かる。
え〜、読めて無いよね、読めて無いよね。目がぱちくりどころか泳いでいる。
そんな自分の心配と持主の戸惑いを他所に先生が練習する曲名を告げた。
先生が椅子と譜面台を持ってきて持主の隣に座る。
「頭からやりましょう」と先生が声をかけ、カウントを始める。
持主も自分を構え、取り敢えず音を出す準備をする。
演奏が始まる。
…、…、…、。
持主が吹けたのは最初の1小節だけ…、譜面上であっと言う間に迷子になっている。
隣では先生が力強くリードトランペットをトランペットのリーダーと一緒に吹いてくれている。
このリードトランペットの音を元に演奏されている場所を探すのだ。皆が同じリズムを吹くか何度違いかで同じ演奏をしているところを聴きながら譜面を見て必死に探す。
あった、ここだ、次の小節からまた吹き始める。
また分からなくなる。また探す。また吹く。
また分からなくなる、また探す。また吹く。
あ〜、心配した通りだ…。
だけど持主は必死に譜面を見つめてる。
気を散らす事無く一心不乱だ。
吹こうが吹くまいが音を追って譜面を追って追って追っている。
ちょっと眉間に皺を寄せて…
嵐のような120分。
殆ど休憩も無く譜面とにらめっこの時間が過ぎていった。気を抜く事無く集中した持主は沢山のがっかりと酷い疲労で消耗し切った感じだ。
自分を拭いてケースに収める手にも力が無い。
拭く以外の手入れは家に帰ってからだろう。此処には自分のパーツを置く場所も無い。
疲れてしまったんだね。初めてだからしょうがないよ。そのうち慣れから。気にする事は無いよ。
僕の声は音にならない。
人に息を吹き込まれて初めて音を発する事が出来るのだから。
でも、君が本当に出来る限り練習しているのは知っているから。いつか、きっといつか実を結ぶから。
だって音を出す事が出来るのだから。
その日、家に帰った持主は自分の手入れを終えるとまだ日も高いのに風呂に入るとそのままベットに滑り込んで寝てしまった。
カーテンんごしに明るい陽のに光りがちらちらとみえる。ほんのり明るい部屋の中で君は眠り続ける。
明日も僕はいるよ、君の側に。
君と僕の音楽の旅は始まったばかり。
ね、一緒に、君と僕と君と…
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