第2話 CHEGA DE SAUDADE -D.Goykovich-
はぁ〜…
はぁ〜…
溜め息ばかり。
だから、違うんだよね。いつになったら分かるんだか…
持主は考えたあげく、自分を勤め先のロッカーに保管する事にしたらしい。毎日、練習したいらしいが満員の通勤列車に自分と一緒に乗るのは至難の技と判断したらしい。
まあ、毎日練習というのは持主はサラリーマンとかいう物らしいので少し、ほんのちょっとだけ感心。
持主の年齢からでは吹けるようになるのだって奇跡かもしれない。
自分を鳴らせるようになる前に持主が壊れてしまうのが先かもしれない。
やっぱり不運なのかも。会社のロッカーの中で微睡みながらつらつらと考える。
当初、持ち主はお昼休みに自分を持ち出すと隣のビルにある教室で部屋を借り、せっせっと練習し出した。
が、本当に初心者…CDEFG…しか音が出ない…
因みに音階は日本ではドレミファ〜(イタリア語から)だが英語ではCDEFGA…となる。ドイツ語だとA(ラ)がHになる。
日本の音楽用語はイタリア語、ドイツ語、英語がちゃんぽんで何とも不思議な感じになっている。
どのジャンルかで使用する言語が違うのでややこしい。
持ち主のついている先生はJazzらしいので英語が主流になる。
なので、レッスン中はCとかGとかEとかの言葉が飛びかっている。それとトランペットは移調楽器だからピアノのC(ド)はD(レ)になる。ピアノのB♭がトランペットのC(ド)にあたる。
先生と持ち主の実際の会話は「ピアノのCお願いします」や「トランペットのFください」といった感じになる。
先生は何も言わないが持ち主の音程はかなりあってない。ど真ん中のトランペットのピッチ(周波数)は440㎐※1だが少しずれたところで鳴らしている。面白いのはピアノの音を聴くとピッチが正しくなる事だ。
ふ〜ん、という感じ。ま、ピッチを聴く耳はある訳だ。
くる日もくる日もスケール、CからCの1オクターブとGでのロングトーンの練習。これを飽きもせず黙々とやっていく。B辺りになると怪しくなり上のCは出たり出なかったりだ。
地味地味な基礎の基礎、初めの一歩の手前だ。
飽くことなく、謹厳実直、毎日毎日30分、きっかり練習している。と言うのは30分以上音がでないから。
笑えるが楽器の身としては、とほほ、な感じだ。
ふて寝をしてしまいたくなる。
運命を呪うし、持主に一瞬でも温かい気持ちを持ったなんて信じられない。撤回してやる。
あ〜熱いライトやオーディエンスの万雷の拍手、いったい何処へ行ったのか。
溜息が零れ落ちるのを止められない。
こんなはずではと思うのだが、楽器には買い手を選べないし、運命わ左右する選択肢を選ぶことも出来ない。なすがまま、まな板のうえの楽器だ。
買われる時にもそう思い心を決めたはずなのだが後から後から湧いてくる''何故''という問いを止める事は出来ない。優等生のように持主の心に寄り添い心底から応援するなんて出来ない。自分本位に嘆くばかりだ。自分で何とも出来ないからこそ、くよくよと思い悩むのだ。うろうろ、考える事は堂々巡りだ。
と、今日の練習が終わり、持主が自分を片付け始めた。管を外して丁寧にスワブを通してくれる。
スワブは管楽器のお手入れ道具で柔らかなプラスチックの棒(紐)の後に布が付いている物だ。
演奏後にこれを管に通して溜まった唾やオイルを拭い取る。この手入れを怠ると管にオイルと埃が固まった物が付着し管を狭くする。また、溜まった唾は管の腐食を早目、寿命を縮める。そういった事が重なり、ある日、音が出なくなるのだ。管内に付着したゴミ達と錆。どうしようも無い。
後は楽器の職人達がいるリペアに持ち込み管内を薬品によって掃除して貰うしかない。要するに軽く溶かされるのだ。そうなると同じ楽器で同じものだが同じでないかもしれない。
持主は各管に専用のグリスやオイルを塗り外した管を元に戻していく。そうして最後にクローズで拭くと素手で触って脂がつかないよう、クローズ越しに持ってケースに自分をしまう。
一仕事の後に体を洗ってさっぱりだ。
金管楽器はこの手入れの他に食器のように専用洗剤を使って水洗いも定期的にする。スワブで清掃出来ない部分のお手入れだ。この時は本当にばらばらに分解される。ネジやバネまでばらばらだ。
手入れされていてもやはり汚れやゴミは溜まる。
その他、消耗品の交換もしなければならない。
持主のお手入れに関しては文句の付けようが無い。大事にして貰っていると感じるし、好感が持てるところだ。
まあ、下手くそな音出しに付き合って、もう眠い…
…z…Z…z…z…Z…z…Z…z…Z…z…z…Z…Z…Z…z…z
こんな毎日の繰り返しが続いたある日、出た!
音が出た‼︎
1オクターブ上の音が出た‼︎
持主は目をぱちくりさせている。驚いて自分を見つめにっこり笑うと優しい声で
「Kちゃん」
と囁いた。
あー、何と…。
やっぱり、一緒にやっていこう…
君と僕と君と。
※1 G音(ピアノのA:ラ49番目の音)のHzは国際基準で定められているのは440Hz。しかし実際に演奏される周波数はクラッシックでは442Hzが多い。
その他、カラヤン時代のウィーンフィルは446Hz、現在は443Hz、アメリカやイギリスでは440Hzと時代や国、オーケストラ等によって異なっている。
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