第3話
その日を境に、僕は先輩が何を考えているのか分からなくなった。いやまあ、もちろんそれ以前も理解していたわけではないが、それでも漠然とした理解さえも、僕には至らなくなってしまった。
だが最も気になるのは、僕が小説を1週間以上借りるつもりでいたのを、まるで知っていたかの様な発言だ。しかも、それに釘を刺されたのだ。
もちろん、僕の態度が分かりやすいために、先輩がそれに感付いた上での発言かもしれないが、それでも、まるで今週いっぱいで縁を切る様な発言をする理由には、少し足りないだろう。嫌われているのならば話は別だが、少なくともそうは感じない。
やはり「あの噂」が関係している可能性が高いか……
いや、そんなことは考えなくていい。先輩は今週中に返せと言ったのだ。それに相談にも乗ってほしいとも言った。僕はそれに全力で応えなくてはいけない。だから、わがままを言うべきではない。
今は、小説を読み終えることだけを考えればいいのだ。
それからは、少し気まずい日々が続いた。当然ながら毎日図書室に顔を出す訳だが、明らかに会話の頻度が少なくなった。僕は、ただ先輩の隣で小説を読みふけるだけだった。まあ実際のところ、気まずさばかりが気になって、とても読み「ふける」なんてレベルではなかったが。
そもそも、家でしか読まないはずの小説を、図書室でも読まなければならなくなってしまったのか。それには、明確な理由がある。
つまるところ、僕は活字にまるで慣れていないのだ。
一週間以上掛けて小説を借りるという当初の目的の裏には、それぐらい掛けないと一冊読み終えることができない、という事実が存在する。
わざとゆっくり読んでやろう、というのは誤りで、ゆっくりでしか読めない、が正しい。
だから僕は、目の甘い先生の授業は、隠れて小説を読むまでに至った。
しかしまあ、やはり読みなれていなければ、少し読んだだけでも驚くほどに疲労が生じるものだと、痛く実感した。
僕の場合は、30分読んだら30分休憩しなければいけないレベルである。
だが、そんな僕でも、一度に読めるページ数が日に日に増えていった。
もちろんその理由には慣れというものもあるだろうけど、それよりも、小説の世界に入り込んでしまう、というのが大きい。
その調子で毎日コツコツ読み進めた結果、たった今、無事に読み終えることができた。
もちろん期限内である。タイムリミットは明日だけれど。
そして、普通に面白かった。
エンターテイメントは期待に応えるか裏切るかの二種類である、なんてことを聞いたことがあるけれど、まさしくその通りだと思った。
僕が想像していた内容と、実際の内容が全く異なっていたのだ。
今よりもずっと先の時代で、今ではとても実現できない未知の技術が存在する。という時代背景や設定だけ言えば、先輩の言うようにSFなのだが、しかしそれとは反対に、扱っている物語のテーマが、現代でも十分に当てはめられるものなのだ。
生きている人間と、全く大差の無い知能と容姿を持つロボットが、とある陰謀に利用され、意図的に起こされたプログラムの不具合で人間を傷つけてしまい、それをキッカケに孤独になってしまう、というストーリー。
この話には、人間の影響されやすさが表れていると思った。人は、たった一つの情報から、事実はともかく、そうでないものまで勝手に捏造し、しかもそれを信じてしまうのだ。
皆物事の表面だけを見て、誰も裏側を見ようとはしない。これこそまさに偏見であろう。
後味が良いとはお世辞にも言い難いが、それでも色々と考えさせられる、良い作品とは言える。これが正直な感想だ。
小説を閉じて、カバンにしまう。
次に大きく伸びをして、一度深呼吸した。
明日、先輩は何を相談するつもりなのだろうか。
何故、小説の貸し出しに期限を設けたのだろうか。
自分の中では、一応は結論が出ている。でも、確信はできない。だから不安だ。
どうあれ、腹をくくるしかない。
僕は明日、
「先輩を、裏切るんだ」
翌日。放課後。
僕はいつものように図書室に続く階段の前で待機していたが、一向に先輩が現れないため、しびれを切らして図書室へと顔を出した。
すると驚くことに、先輩は既に居た。いつもの場所に腰かけて、僕が現れるとゆっくりとこちらを見た。
「待ってたよ」
それだけ言うと、先輩は立ち上がった。その手にはもう、松葉杖は無かった。
「足、治ったんですね」
「うん。おかげさまでね」
その事実は、素直に嬉しかったが、それどころではない。
「本題に入りたいって顔だね」
「まあ、はい」
「やっぱり、座ろっか」
そっちの方が落ち着くよね、と先輩は言いながら、僕に座るよう促してくる。
僕は先輩のとなりに、いつも通り腰かける。
「それで、相談って言うのは?」
「うん。君はさ、私の噂、聞いたことない?」先輩の表情は悲しい。「いや、知らないよね。そうでなきゃ、こんな風に喋ってくれないもの」
僕は、ひたすら聞き手として応じることにした。
実はね、と先輩は一拍置いて口を開く。
「私、みんなから嫌われてるの。私はね、少し前まで、いわゆる不良ってやつだった」
先輩は、自分の過去を吐き出し始めた。
先輩は元不良。素行はもちろん悪く、授業もよくサボっていた。しかし、それは中学の話で、高校に入ってから先輩は変わった。陸上に出会ったからだ。
しかし、不良というレッテルは簡単には消えなかった。同じ中学の人がそのことを言わないわけがなかったのだ。当然それは噂になって、尾ひれがついて、先輩はいつの間にか厄介者扱いされるようになった。
そして、今に至るという。
「笑っちゃうよね、こんな話。一度やったことは、一生付きまとうんだって、思い知ったよ」先輩は自嘲気味に笑う。
僕は、何も言わなかった。
それでさ、と先輩は真剣な顔つきで問う。
「私は、君と一緒に居てもいいのかな」
「どういうことですか?」
「今までは、誰にも見られていなかったから、こういう風に接することができた。でもこれからは違うでしょ。私はもう、ここには来ない。陸上部があるから」
先輩は、僕を見据える。
「ここ以外の場所で今までみたいに話したら、君にも被害がでる。私が馬鹿やって付いちゃったレッテルが、君にまで及ぶかもしれない。それだけは、絶対に嫌」
「だから、君さえよければ、私は君と会う機会を作りたいと思ってる」
一息吐いて、何かに気付いた様に、先輩は俯いた。
「いや、でも、嫌だよね。こんな女子。昔荒れてたっていう事実は本当だから。みんな、だから私を避けてるっていうのに」
僕が何も言わずにいると、先輩は慌てて口を開く。
「な、なんかごめんね。こんなの相談じゃないよね。私が勝手に喋ってるだけ。やっぱり、君とはここでお別れにするよ」
「あの小説は、あげる。元気でね」
先輩は突然そう早口で言って、以前の足よりもよっぽど重そうな足取りで、だけれど無理やり足早に、この場を立ち去ろうとする。
僕はここで、ようやく口を開く。
「先輩、待ってください」
突然の発言に先輩は驚いたのか、立ち止まる。
僕は椅子から立ち上がって、先輩と向き合った。
そして、僕はこういうのだ。
「そんなこと、全部知ってましたよ」
先輩は、目を丸くする。
「え……?」
「もう一度言います。全部知ってます。先輩の噂について。昔不良だったこと、それを承知でこの一カ月、先輩と過ごしてきたんです」
「ほ、ほんとに? でも、何でそんなこと……」
「そんなの、決まってるでしょう」
「先輩が、好きだからです」
先輩の顔が、みるみる赤くなっていく。僕は何とかこらえる。もちろん恥ずかしい。
「え、え? えええぇ?」
先輩は、唐突の告白に混乱しているようだ。
構わず、僕は続ける。
「僕、『心』を読んで思ったんです。学校中のみんなが、先輩を偏見していると」
「偏見……?」
「そうです。でも、僕は違う。たまたまだったけど、こうして先輩の素顔を知ることができた。だから、好きになった」
「……っ!」
先輩はパンク寸前といったところか。
「なので、そんなことで悩まないでください。僕は先輩を嫌ってなんかいませんから。むしろ好きですから!」
顔から湯気が出ている。先輩ではない。僕だ。いや、先輩も、であるが。
「でも、すいませんでした。僕は、その悩みに気付けなかった」
「いや、いいよ。それくらい……。わたしこそ、ごめん」
「それで、お詫びというか……」
僕はカバンの中から2冊の本を取りだし、先輩へと渡す。
「これは……?」
「『心』と、僕のおすすめする漫画です」
先輩は合点がいかないという様子で首をかしげる。
「これで会う理由、できませんか?」
先輩は、笑顔で頷いた。
少しだけ暖くなった風から、微かに春の兆しを感じられるようになった。
僕は、グラウンドの傍らに佇む木の下で、呑気に本を読んでいた。漫画ではない。
それを読みながら、時々グラウンドの方へと視線を上げる。
そこで走る先輩を、僕は遠目に見ていた。
さすがに寒いけれど、しかしここでしか、先輩は見られないのだ。だから、我慢するしかない。
あの日から、先輩は少しずつ変わり始めた。
今まで友人と呼べる人が僕以外に居なかったのだが、いつしか先輩は、陸上部へ顔を出す理由を1つ増やしていたのだ。
それは、走るという理由に次いで、友人に会うという、とても喜ばしい理由だ。
そして、先輩への偏見は、少しずつだが薄れてきているように思う。その証拠に陸上部が挙げられる。
そういった変化を見守るのが、最近の、僕の日課だ。
そして――
西日が眩しくなってきて、グラウンドに居る生徒たちは散り散りになる。
その中で1つ、こちらへ向かってくる人影があった。
それは、先輩だ。
「お疲れ様です。先輩」
僕は先に声を掛ける。
先輩は首にタオルを巻きながら、笑顔でそれに応えた。
「どう? どれくらいまで読んだ?」僕の手元にある小説を見て、そんなことを言う。
「まだ三分の一ぐらいですかね」
「相変わらず遅いねー、読むの」
僕は、仕方ないでしょうと言って、カバンを持って立ち上がる。
「じゃ、帰ろっか」
「はい」
僕と先輩は、校門へ向かって歩き出す。
もう、誰の目も気にせずに、僕らは堂々と会うことにしたのだ。それが偏見をなくす方法だと考えたからだ。何かを隠すばかりでは、事の裏側を見せようにも見せられない。
だったらもう、全て明るみにしてしまおう。
そんな単純な考えだけれど、実際に効果があったのだから、誰も文句は言うまい。
こうして僕は、毎日先輩と帰宅するようになった。
これが僕の、最近になって増えた、もう一つの日課である。
それは、とてつもなく嬉しい。
しかし、偏見をなくす作戦会議によって、告白の件がうやむやになってしまったのは少々、いや、かなり残念ではある。
まあ、その件については、また別の話だろう。
ポニーテール先輩 ぴくるすん @pikurusun4410
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