第2話

翌日。放課後。

 僕は図書室へと続く階段の前で、暇つぶしに、と思ってスマホでも弄りながら一人で立っていた。別に、図書室に嫌いな人がいるから出ていくまで待つ、なんてことをしているわけではない。

 いや、待っているというのは事実だけれど。

 というのも、僕は毎日こうして、先輩が来るのを待っているのである。

 先輩は別段人目を気にする人で、僕が直接教室へ迎えに行こうものなら、鬼の形相で襲いかかってきてもおかしくはない。それくらい、人目を気にしているのだ。

松葉づえで刺されるのは嫌だけど、たった少しの階段だろうとサポートはしたいので、僕はこうすることにしたのだ。

 まあでも、人目を気にするのも当然と言えば当然だ。

 噂の広まる速度が尋常ではないのが学校だ。たとえ先輩でなくとも、事実無根の噂に尾ひれが付いたものが学校中に這いまわるのを、快く思う者はいないだろう。その点では、僕も人目を気にすることには同感だ。でも、僕と先輩のことで噂が発生するというのも、それはそれで、不謹慎ながら嬉しかったりする。

 まあ、実際そうなったら、先輩がどうなるかは想像もつかないけれど。

 なんてことを考えていると、廊下の向こうに先輩の姿が見えたので、僕はスマホに視線を落とし、気付かないふりをした。間違ってもここで手を振ったりはしてはいけない。松葉づえで刺されてしまうからだ。図書室以外では、他人のふりをするのが僕たちルールである。

 先輩が僕の前を通り過ぎて、階段に足を掛けたところで、僕も後ろからゆっくりとついていき、そのまま先輩が階段を登りきるまで、なるべく、この2人は他人同士なのだ、という雰囲気を漂わせるようにする。そうして、僕は先輩の後ろをぴったりとくっつきながら同じペースで階段を登っていくのだ。

 そして、ついに図書室へと入り、やっと普通にできる。と思ったらまだ早い。図書室に自分たち以外に人がいるかを確かめて、誰もいないと判断するまではこの態勢を解いてはいけない。

 そうは言うものの、この学校は、図書室への来客数が圧倒的に少ない。

 なので、今日も案の定2人以外に誰かの姿が見えることは無かった。

 そこでようやく、僕たちはそっと胸をなでおろす。


「こんちわです。先輩」

「ちわーっす。今日も御苦労さまだね」

「いえいえ。というか、さすがにもう平気ですよ」


 なんて軽口を叩いてみたものの、初期のころ、すなわち出会ってばかりのころはそこそこに辛かった。スニーキングミッションをしている気分だったと言えば大袈裟になるかもしれないが、それでも少なくともそれに近い気分になったのは正直なところではある。裏社会で視線や死線を掻い潜っている人たちの気持ちが少し分かったような気がして、個人的には重宝する経験だったといえる。まあ、先輩はそうは思っていないだろうけど。

 僕らは夕日に背を向けて、いつもの席へと腰かける。

 僕の頭の中は、昨日から小説のことでいっぱいだ。待ちきれなくて、すぐに口を開いてしまった。


「先輩、小説持ってきましたか?」

「え、何その表情。そんなに楽しみにしてたの?」


 そんなに感情ダダ漏れな表情をしているのだろうか。そこまでの表情をしている自覚はないけれど、でもまあ、口元が緩んでいるのには薄々気付いてはいた。


「そりゃまあ、それなり楽しみにしてましたよ」

「ふ~ん。なんか腑に落ちないところがあるけれど……。でも、小説を楽しみにしてくれてるのは、素直に嬉しいかな」


 ちょっと待ってね、と言って先輩はカバンの中を探り始め、数秒して、何かを取りだしてそれを僕の前に置いた。

 無論、それは小説だ。

 僕はそれを手にとって、じっと表紙を眺めた。回路の様なものが入り組み、その中央に薄く輝く、赤色のハートの形をしたものがあった。


「タイトルは『心』ですか」

「そう。すごく面白いから、絶対に最後まで読んでね」


 もちろん読むつもりだ。ただし、ゆっくりと時間を掛けて、だが。


「これ、ジャンルはなんですか?」

「ええ、それ聞いちゃうの? 実物が目の前にあるのに」

 

 その通りではあるが、僕は家でしか読むつもりはない。だからここで聞こうと思っただけなのだが……。まあでも、実物を前にしてそれを聞くのも、確かにおかしな話だ。


「まあいっか。いいよ、教えてあげる。ジャンルはね、『SF』だよ」

「SFですか? 僕はてっきりスポーツものかと。特に陸上」

「ちょ、人をそんな陸上バカみたいな風に扱わないでよ」


 走れないのに毎日ランニングシューズを持ってきているのだから全く説得力無いですよ、なんて発言は控えて、素直に謝ることにした。

 僕は借りた小説を丁寧にカバンの中へとしまう。


「あれ? ここで読まないの?」

「はい。家でじっくり読むつもりです。というか元々そのつもりでした」

「えー。じゃあ、この時間何するの?」

「んーと……」僕は悩んだ振りをする。「あと1週間で先輩ともあまり話せなくなるので、今のうちにたくさん喋っておこうかなーと、思ってたりしてますが」


 冗談風を装ってそんなことを言ってみた。たまにはこういった大胆(?)な発言も必要だと思ったからだ。

 まあ案の定、内心は恥ずかしさで悶え死にそうになったのだが。


「それはつまり、私の勉強の邪魔をしようってわけ?」


 そして当然、本意が伝わるわけもなかった。


「あーいや、そういうつもりではないんですけど…」

 先輩は一息吐いて口を開く。


「まあでも、そうだよね。あと一週間だもんねー」先輩は頬杖をついた。「確かに思い出作りも必要かも。今思うと、君と会えて幸運だったよ」

「いやいや。なんでもう2度会えない、みたいな感じになってるんですか」


 実際は延滞料金を払う覚悟で小説を延貸するわけだから、嫌でも会うことになるのだが。

 ところが、僕の発言の後、先輩は何故か黙っていた。視線を机に落として、勉強や読書など何もすることなく、ただ座って静かにしていた。

 一体どうしたのだろう。何かまずいことを言った覚えはない。

 だとしても、こんな雰囲気の先輩を見るのは初めてだ。

 だから、そっとしておくべきなのか、声を掛けるべきなのかまるで分からない。

 ……ただ、表情から察するに、何か悩んでいるのは明らかだろう。

 その「何か」と言うのが、もしかしたら「あの噂」のことなのでは、と思索する傍らで、沈黙の中、時間は進み続けて、気付けば下校時刻になっていた。

 なんとなく気まずい空気の中、先輩の迎えが来ている正門まで送った。

 すると、先輩は僕の方を振り返って、突然話を切り出した。


「今日はなんかごめん。色々考えちゃって」

「いえいえ。全然大丈夫ですけど……」

「それでさ、その、足が治ったら、ちょっと相談に乗ってほしいことがあるの」


先輩の目は、すごく真剣だ。


「大丈夫かな」

「もちろん」僕は即答する。

「ありがと。それとあともう一つ」

「なんですか?」


「貸した小説、足が治るまでに読み切って、私に返してほしい」


「え……」

「相談の時のついでに、返してくれればいいよ」


先輩は、それじゃあまた明日、と言って迎えの車へと歩いて行った。

僕はそれを、ただ口をポカンと開けながら、眺めるしかなかった。

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