第6話

 その日は瞬く間に訪れた。

 二十五日。クリスマス。ライヴの当日……。

 ライヴが行われる会場は、いつものスタジオのオーナーがやっているライヴハウスで、スタジオとは別の駅にあった。都内では比較的大きな施設である。

 開演は二十時から。Rumble Wishの他には四組のバンドが参加して、俺たちはその最後に演奏する。だから実際にステージに立つのは、二十二時半頃になる。

 けっこうな遅い時間だと俺個人は思うのだが、どうやらみんなはそうは思っていないらしい。顔なじみの客たちからは、盛り上がれば終電以降からだって全然かまわない、という言葉をよく耳にする。

 冗談じゃない。俺はそんなのは御免だ。

 ライヴはとっくに始まっていて、今は一組目のバンドが会場を賑わせている。俺は控え室でその音を聴いていた。

 今この控え室には、俺とミヨしかいなかった。リンさんとユキイチロウさんは、さきほどちょっと外すと言って、どこかへと行っていた。

 控え室には今、何の会話もない。ミヨは緊張した面持ちでベースを確認していて、俺も似たような感じで手足のストレッチをしていた。

 話し掛けるのは何だか憚られた。それに俺自身、そこまでの余裕はない。頭の中は常に演奏する曲のメロディが流れていて、そこにドラムを合わせるイメージばかりをしていた。

 ミヨもきっと同じだろう。ミヨが作った『ディア・マイ・サンタクロース』は、七曲あるうちの、なんと最後に設定された。自分で作った曲だし、制作から採用まではまあいろいろあったから、そのプレッシャーは俺以上だろう。

 だけど、初めて自分のクリスマス・ソングがステージで披露できるとあって、その嬉しさもあることだ。過去二回、周囲の期待に応えられず、自身も曲が書けず(書けなかったこととする)につらい思いをした。それがようやく、今夜果たせるのだ。

 いろんな意味で、ミヨにとって今回のライヴは特別なものになっているはずだ。

 しばらくして、リンさんたちが戻ってきた。手には何やら紙を持っていて、部屋に入ってくるなり俺とミヨにそれを配った。

「これは?」

 と俺が訊く。『ディア・マイ・サンタクロース』の楽譜であることは、一目でわかったけど……。

「ちょっとラストの部分を変更したの。確認して」

 とリンさんが言った。

 すると、ミヨがすぐに「えっ!?」と驚きを発した。声こそはミヨに乗り遅れたけど、俺も内心驚愕した。すぐに楽譜をチェックする。

 こんなことってあるのだろうか? 俺は焦った。だけど、よくよく見ると、そう難しい変更ではないことが知れた。ラストの部分が何小節か伸びていて、それに伴って前後のメロディが少々変わった程度だ。

「いける?」

 とリンさんが訊く。

「……まあ、これなら」

 と俺は答えた。ちゃんと覚えさえすれば、まあだいじょうぶなレベルのものだ。

 しかし、

「歌詞は?」

 とミヨは質問を返した。

 ああ、ミヨの方が、俺なんかよりずっと冷静だ。

 確かにそのとおりだった。楽譜を見ると、そこには歌詞は書かれていなかった。だけど、変更箇所を見るだけで、歌詞が合いにくくなることがわかる。そうすれば、ミヨが気にするのも当然で、そこには何か変更があるのだろうかと疑うべきものだった。

 ところがリンさんは、

「合わせるから」

 とだけ言って、もうそのことに触れようとはしなかった。その横ではユキイチロウさんも頷いている。ならば、俺たちはただ信じて演奏すればいいのだろう。

 ミヨもそう捉えて、納得したようだった。


 出番はすぐにやってきた。

 俺たちはステージに上がって、ライヴハウスの人たちと機材のセッティングを行う。

 ライヴハウスには収容できる最大数の客の姿があって、見慣れた人もいれば、初めてそうな人も多くいた。ステージと言っても、客はすぐ目の前にいる。古くからの顔なじみなんかは、いそいそと準備にいそしむ俺を見て、「アカイ~」などと茶化す声を上げた。

 それに俺は、逐一「うるせぇ!」と返すのだが、内心では緊張が和らぐので、そういった声を歓迎していた。

 ステージが整って、メンバーがそれぞれ位置に着くと、そこで場内は一気にシンとなった。それを緊張と見ると、リンさんは客に向かって手を振ったりした。それで少し、場内に笑いが起きる。

 時間的にはいつでもオーケー。機材関係もすべて整っている。客もすでに準備できていて、後はこちらの開始を待つばかりだった。

 リンさんが、メンバーを見回す。ミヨを見て、俺を見て、ユキイチロウさんを見る。

 俺はこの瞬間が、世の中で一番好きだった。

 リンさんのアイコンタクトに、頷きを返す。そこで軽く微笑むリンさんが、俺は最高に好きだった。

 俺はスティックを挙げて、カウントを取った。

 両隣のミヨとユキイチロウさんから音が一気に弾き鳴らされて、Rumble Wishの四回目となるクリスマス・ライヴがスタートした。


 まるで夢の中にいるようだった。

 それは俺ばかりではなく、この場にいるみんながそうだっただろう。

 一曲目は、リンさんが作った今年のクリスマス・ソング。楽しくて、思わず踊り出したくなるような、明るい歌。実際に、客のほとんどが体を揺らし、笑顔になっていた。

 こちらの調子もよかった。リンさんやユキイチロウさんは言うまでもなく、俺も、ミヨも、最初からうまく波に乗れていた。

 一曲目はあっと言う間に終わって、すぐさま二曲目に続いた。

 『ワン・ステップ』。これはずっと以前からある曲で、一緒に口を動かす人が何人もいた。やはりリンさんの曲で、明るくて盛り上がりやすい歌になっている。

 二曲目が終わると、そこで一旦静かになる。リンさんのMCが入るところだからだ。

 客からの拍手があってから、リンさんがしゃべり出す。そこで俺は、ひとまずほっと息をついた。

 立ち上がりはいつも緊張する。この最初のMCが入ってしまえば、後は体も温まることもあって、自然とこなすことができる。俺は首や手首を回して、それからミヨに目を向けた。

 ミヨもいつも立ち上がりに苦労すると言っていた。ミヨは立ち位置やベースのボリュームをいじっていたが、少しして俺の視線に気が付くと、俺の方を向いた。

 俺はミヨに、ニッと笑って見せた。するとミヨも、少し恥ずかしそうにして微笑んで返した。

 リンさんのMCが終わりに差し掛かって、ユキイチロウさんが動くのが見えた。

 俺とミヨもそれで意識を戻して、三曲目の入りに集中した。


 それから、五曲目までが流れた。

 MCは三曲目の前とラストの前の二回だけだから、このまま六曲目が終わるまで演奏は一気に続く。

 六曲目が終わって、最後のMCが終われば、いよいよ『ディア・マイ・サンタクロース』の出番となる。

 ミヨが初めて作ったクリスマス・ソング。正しくは、初めてものになったクリスマス・ソングだ。

 俺は演奏に集中しながらも、しかし頭の片隅では、少しばかりその曲のことに意識が行ってしまっていた。

 俺は、自分のしたことが、果たしてよかったのだろうかと思っていた。

 俺は、なんとかミヨにクリスマス・ソングを作って欲しくて、仮想クリスマスなんてものを持ち掛けた。その結果、ミヨはこの『ディア・マイ・サンタクロース』を作り上げた。

 この曲は、一人の女の子が想いの人に気持ちを伝えるために、サンタクロースが勇気を与えるという内容だ。俺がまさにミヨにしてやりたかったことを、そのまま歌にしたような曲だ。

 本来俺の願いは、ミヨにクリスマス・ソングを作ってもらうことではなくて、ミヨ自身の想いの人に、その気持ちが届くことだった。だけど、現実は歌のとおりにはいかない。

 ミヨの想いは届かない。

 否、想いは届くだろう。だが、決して望む形では結ばれない。『ディア・マイ・サンタクロース』のように、幸せな結末にはならないのだ。

 なのに、この曲はできてしまった。

 できた当初は気付きもしなかったが、この曲ができたということは、ミヨははっきりとその現実を受け入れたことにならないだろうか?

 ミヨは自分の果たせぬ夢を、この歌に託した。これまで隠してきた自分の本当の気持ちを歌にして、みんなに知ってもらうことを決めた。

 だとしたら、俺がミヨにしたことは、よかったのかどうか。もしかしたら、俺はミヨに残酷なことをしてしまったのではないだろうか?

 六曲目の曲が続く。リンさんの思い入れのある曲、『アンティーク・メモリー』。

 そこには俺やミヨが入る前の、古きリンさんとユキイチロウさんの大切な記憶が込められている。

 俺はリンさんのことが好きだ。ミヨは、ユキイチロウさんのことが好きだ。

 ……だけど、俺は本当に、リンさんのことが好きなのだろうか?

 ミヨは本当に、ユキイチロウさんのことが好きなのだろうか?

 俺の頭の片隅に、仮想クリスマスの夜のことが思い出される。

 いきなり手を取った時の、ミヨの驚いた顔。喫茶店で見せた、いたずらな笑顔。俺の部屋で、初めていろいろ議論した。並んでアホ面して、イルミネーションのクリスマスツリーを飽きるまで眺めた。

 公園で、……キスをしようとした。

 俺がしたことは、よかったことなのだろうか?

 ミヨが作った『ディア・マイ・サンタクロース』は、俺の気持ちでもある。

 俺は本当は、何がしたかったのだろうか?

 『アンティーク・メモリー』が終わって、リンさんの最後のMCが始まる。

 残すところは『ディア・マイ・サンタクロース』のみだ。

 すると俺は、急にドキドキとし出した。

 ライヴはここまですべて上手くいっている。客の盛り上がりも最高だ。次で最後の曲となってしまうのを、みんなが惜しんでいる。

 MCの中でリンさんが、ラストの曲がミヨが作った曲であることを発表した。すると、場内は大変な盛り上がりを見せて、ミヨに拍手した。ミヨは手を振って、恥ずかしそうに応えている。

 だけど、拍手がやんで、みんなの注意が再びリンさんに戻ると、そこでミヨは明らかな動揺をその目に見せた。

 俺の心臓が、恐いぐらいにドキドキとしている。もしかしたら、ミヨも同じなのだろうか。

 MCがやがて収束に向かって流れ出す。その中でリンさんが、一度俺とミヨに目配せをした。

「平気?」

 とその目は訊いていた。

 何かを察しているのだろうか。だけど、俺も、ミヨも、

「平気です」

 と頷きを持って返す。……本当は、全然平気なんかじゃないのに。

 すごく恐かった。

 何が?

 それは、絶対に、ミスを犯すことなんかじゃない。

 恐い。

 何が?

 『ディア・マイ・サンタクロース』が始まってしまうことが。

 そして、『ディア・マイ・サンタクロース』が終わってしまうことが。

 俺は、間違った、と思い始めていた。

 それはミヨもおそらく同じだろう。

 間違えた。

 だから、この曲は歌われてはならない。

 違うんだ。

 これはミヨにとって、俺にとって、本意の曲なんかじゃない!

 だけど、わからない。

 一体この歌の、何が間違えたと言うのだろう?

 リンさんがラストの曲の題名を口にした。

 客は期待に満ち、その歌い出しを待つ。

 ユキイチロウさんが俺に目配せをした。

 もう、進むことしか許されない────。

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