第4話
次の日曜日。俺は駅前のバスロータリーの前に立っていた。
とは言え、別にバスを待っているわけではない。たまたま、待ち合わせに相応しい場所の前に、バスロータリーがあるだけだ。
気合を入れて十五分前に着いてみたけど、相手はなかなか律儀だった。約束の時間ぴったりになって、人混みの中からトテトテと現れた。
「アカイくん」
と俺を呼ぶ。
その前にすでに目が合っているのだから、呼ぶ必要なんてないのに。
だけど俺は、「おう」と応えて手を挙げた。
「悪いな」
と言う。するとミヨは、
「いいよ」
と言った。
今度の日曜日、ちょっと付き合って欲しいんだけど、というようなメールを、俺はミヨに送っていた。それにミヨがオーケーを返して、今に至る。時間はちょうど正午を回ったところ。空は薄い水色、太陽が白く輝いて、風は穏やかで寒さはそこそこと言った具合。なかなかにいい日和だと俺は評価した。
「どうするの?」
とミヨが言った。付き合って欲しい旨だけで、目的は一切告げていない。
俺は若干の緊張を咳払いでごまかすと、
「今日一日、俺とクリスマスを過ごそう」
と言った。
そうしたところの、ミヨのぽかんとした表情が、この時はやけに印象的だった。
事情を説明するのに、まさか三十分も要するとは思わなかった。驚くほどに飲み込みの悪いミヨに、俺は丁寧に説明した。
要するに、今日は仮想のクリスマスだと。俺とミヨとで、あたかも恋人同士であるかのようにクリスマスを過ごして、実際にそれがどんなものなのかをシミュレーションしようじゃないかと。俺はミヨに、どうしてもいいクリスマス・ソングを書いてもらいたいこと。今日一日を過ごして、それがイメージできるようになれば、俺は嬉しいと。一つ一つを繰り返し言って聞かせた。
そうすることで三十分後。ようやくミヨは納得して頷いて、「いいよ」と微笑んだ。これで今日は、仮想とは言え、クリスマスになった。
……だけど、俺は隠した。
本当は、ユキイチロウさんにお願いできればよかったんだけど、ということを。だけど、多忙なあの人の一日は、滅多なことでは借りられない。特に今は、時期が時期であるし。だから、俺で悪いけど、付き合ってくれ、ということを。
別に言ったってよかった。隠すことでもなんでもない。
だけど俺は、何故だかそのことを言わなかった。
そうすることで、何が変わるってことでもないだろうに……。
とりあえず俺たちは、アーケード街の方へと歩いて行った。自分からクリスマスを過ごそうと言った割には、まるでノープランだった。ひとまず雑貨屋でも冷やかすのがいいのだろうと、そう思った。
アーケード街は相変わらずの人の多さ。しかも今は日曜日のお昼とあって、その混雑はいつも以上だ。
始めはいつもの癖で、人の間を縫うように歩いた俺だけど、すぐに気が付いて、前の人のペースに合わせて歩いた。
ミヨがそんな俺の後を付いてくる。ミヨは体も小さいし気も弱いから、こんな人混みではすぐにはぐれてしまいそうだった。だから俺は、自分でも意識するより早く、ミヨの手を取った。
ミヨが小さく悲鳴を上げた。かなりびっくりしたようだ。その悲鳴を受けて俺は、自分が案外大胆なことをする奴であることを知った。
だけど、手は離さない。今日は仮想とは言え、クリスマスだ。俺たちは一応、恋人同士という設定になっている。単に遊びに来たわけではない。
俺は顔が紅潮するのを自覚しながら、それでもそのまま歩いた。ミヨもあえて離そうとはしない。事の趣旨をよく理解している。
しばらくあちこちを歩いたところで、もうネタが尽きた。俺とミヨは通りの一角で足を止める。
「さて、どうするか」
俺は言う。だけど、ミヨもネタがないようで、何も応えない。
二人で手を繋いだまま、ただのアホみたいに突っ立っている。アーケード街の外に出て、ここは直に風が吹き付けている。
クリスマスに恋人たちは、一体どんなことをして過ごすのだろうか。街ゆくカップルを見ると至ってなんてことはなさそうなのに、どのカップルも特にネタに困っている様子はなかった。
きっと、何か特別なスケジュールが彼らの中で組まれているのだろう。まるで魔法が掛かっているかのような、
だけど、そんなことが俺にわかるわけがない。それはそうだ。
「俺、そんな経験ねーからなぁ……」
思わず呟いた。
するとミヨが、言葉足らずだけど俺の心中を察したようで、
「私も」
ともらした。
それはそうだ、と俺は思った。ミヨだって、俺と同じだ。決して結ばれない人に恋をして、そのために他にチャンスを探そうともしてこなかった。ずっとそんな経験にこぼれてきたのだから。
俺は思わず、こう呟こうとした。
〝ずっとリンさんに片想いしてたからな……〟
しかし、そうしようとした自分に、何故か俺はギクッとして、その口をすぐさま閉ざした。
心臓がドキドキと駆け足する。どうしてこんな意識をしたんだ?
見ると、ミヨも同じ様に自分に驚いた顔をしていた。
もしかしたらミヨも、こうもらそうとしたのかも知れない。
〝ずっとユキイチロウさんに片想いしてたから……〟
どうして俺もミヨも、その名前を出すことを拒んだんだ?
繋いでいた手が、いつの間にか離れていた。
それをあえて繋ぎなおすほどの大胆さは、俺になかった。
沈黙する。
とても気まずい空気が、俺とミヨの間を支配する。
そして、しばらくをそのままに。
しかし、一層冷たい風が俺たちに吹くと、そこでミヨが、クシュン、とくしゃみをした。
「ねえ、寒い」
訴える。
それで俺は、なんだかとても救われた気持ちになって、
「どっか入るか」
と言った。
満席の喫茶店に、それでもなんとか潜り込んで、俺とミヨは暖を取った。
お互いに昼食を済ませてきたから、お腹は空いていない。コーヒーを飲みながら、ゆっくりとこの後の行動を考えることにした。
「私たち、こんなことしてていいのかな……」
とミヨが呟いた。カフェオレを傾けながら、外の方に目をやる。
それは俺にとって、痛い指摘だった。Rumble Wishの大事なクリスマス・ライヴがすぐそこまで迫っている。なのに、こんな所で油を売っていていいものなのか。俺だって、さっきからそのことは何度も自問自答している。
「『アンティーク・メモリー』のサビ、俺まだ自信ないんだよな……」
ミヨの呟きに呼応して、思わず俺は言った。
「うそ。どれぐらい?」
とミヨが訊く。成功率を言っているのだろう。
「七割ぐらい」
と答えると、ミヨは大げさに目を大きくして、「えーっ!?」と声を上げた。
「キケン~。やばいよ、それ」
と煽り立てるように言う。
「お前だって、あのサビは自信ないって言ってたじゃないか」
するとミヨは、あからさまに得意げな表情を見せて、
「へへーん。私、あそこはもうクリアしたもーん」
と言う。
「うそだ。えっ、どれぐらい?」
「九割九分」
「マジかよ!?」
「九厘」
と付け足す。
「うそだ……」
俺はコーヒーを傾ける。しかし動揺がそこに伝わって、ソーサーに戻す時に、必要以上にカチャカチャと音をさせてしまった。
にわかに落ち着かなくなる。
「まっ、何とかなるよな?」
言ってみるが、ミヨはやけにニヤニヤとしたまま、何も答えない。
手の平に、じわっと汗が浮かぶのが感じられた。
「やべえ……、急に不安になってきた……」
本番でもしミスなんてことがあれば、リンさんやユキイチロウさんにどんな顔をして見せればいいのか。何よりも俺にとって、リンさんにがっかりされることが、どれだけつらいことか……。
「ダメだ……、帰って練習しようかな……」
俺はもう、居ても立ってもいられなくなった。変な寒気が背中に張り付いている。
なのに、どういうわけかミヨは、そんな俺を始終面白がるように見ている。クスクスと笑うように、俺の動揺を煽って楽しんでいる。
「そうする?」
とミヨが言う。
その言葉で俺は、解放された気持ちになった。
「悪いけど、そうしよう」
そう言って俺は、立ち上がろうとする。
自分で誘っておいて悪いのだが、今は何よりライヴが大事なんだ。ミヨもそう考えてくれている。練習に付き合ってもらおう、と俺は考えた。頭の中ではもう、帰ってから道具一式を持って、ミヨと練習する段取りだけを考えていた。
しかし──。
席を立とうとした俺の手を、ミヨがテーブルに釘打つように掴み取った。
「ダメだよ。アカイくんは今、私とクリスマスのデート中なんだから」
堪え切ることのできない楽しげな笑顔で、ミヨがそう言った。
それから俺は変わった。平たく言えば、開き直った。
ミヨの手が、俺の手の中にあった。思わぬ爆弾を抱えることになってしまったが、どうやらミヨも開き直れたようだ。
それから俺たちは、一気にテンションを上げて、この仮想のクリスマスを楽しんだ。
アクセサリーの露店に並んでしゃがみ込んで、ミヨに五百円程度のペンダントを贈った。ならばとミヨは、隣の露店で五百円程度のバックルを買って俺にくれた。仮初めの恋人同士なら、このぐらいのプレゼント交換で充分だろう。
それからミヨがお腹が空いたと訴えたため、何か食べようということになった。とは言え、最近はバンドの練習ばかりでバイトもろくにできていない。なるべく安く……、と俺が言うと、ミヨは、じゃあスーパーで何か買って、どこかで食べよう、と言ってくれた。
俺の家まで行って、近くのスーパーで食べ物を買った。こんな時だけ、気の早いクリスマスもありがたい。鳥のもも肉とクリスマスケーキ、それにノンアルコールのシャンパンという、定番の三種をそろえることができた。
ミヨも俺の部屋に上がるのは初めてではない。むしろとても慣れたもので、散らかった俺の部屋をひょいひょいと片付けて、あっと言う間に食べ物を並べられるスペースを作った。それからしばらく、俺たちはクリスマスっぽい食事をした。
食事中にした会話は、しかしクリスマスっぽいものではなかった。ほとんどが音楽の話。それも当然、ライヴでやる曲のことばかりだ。
だけど、俺は変なところで、あることに気付く。
もうミヨとも長い付き合いになるけど、これだけミヨと音楽のことで議論をしたのは初めてだ。いつもはここに、リンさんなりユキイチロウさんなりがいるから、どうしてもそちらの意見に耳が傾く。ミヨの考えを聞いて、俺が意見を返す。すると、初めてとも言える、いろんなミヨの姿を知ることができた。
食事が終わり、日もとっぷりと暮れると、俺とミヨは再び街に繰り出した。
ノンアルコールとは言えシャンパンを一本二人で空けて、気分が揚がってしまったようだ。街を彩るイルミネーションを見て、俺たちははしゃぎ回った。アーケードの中を、当たり前のように手を繋いで歩く。呪いのヒットナンバーが、不思議と今は気にならなかった。大きなイルミネーション仕立てのクリスマスツリーに出くわして、俺とミヨはしばらく突っ立って、ぼけっとそれを眺めた。
やがて店の多くがシャッターを下ろすと、俺たちは自然と公園に向かって歩き出した。駅から五分としない場所に、全国的にも有名な公園があるのだ。
人のいない……と思ったら、多くのカップルやグループがそこにはいた。暗めの外灯の中で、それぞれに雰囲気を盛り上げるように歩いている。
俺とミヨも、しばらく公園の中を散歩した。
池で闇の中を泳ぐ鯉を見つけたり、羽を休めて眠るようなスワンボートを見たり、時折り吹く風にざわめかせる樹々を見上げて歩いたり。それから、やはり自然と、あまり人のいないベンチを見つけて、俺とミヨは腰掛けた。
二人して空を眺める。
晴れているおかげと、空気が乾燥しているおかげで、かろうじて星空がそこに見える。外灯の明かりが少ないおかげもあるだろう。
大声で話す誰かは、ここにはいない。ひっそりとした、しんみりとした、冬の公園の中に俺たちはいた。
ミヨは今、何を考えているだろう?
繋いだ手は、今も変わらず温かい。
俺は今、何を考えているだろう?
なんだか、ここまでがすごくあっと言う間だった。いつの間にか、もう俺たちは、こんなところにいた。
それからいくらかして、俺は、
「……ここから先は、仮想じゃ無理だな」
と呟くように言った。言うべくして言ったわけではない。おそらく、ずっと頭の片隅に忘れられずに残っていたものが、ころっと出たのだ。
するとミヨも、少しの間を置いて、
「そうだね」
と言った。
そうして俺たちは、しばらくまた沈黙した。どれぐらいそうしていたかはわからない。きっと、そんなに長い時間ではないだろう。
いつの間にか忘れていた寒さが、いつの間にか思い出されて、繋いだ手から、どちらかが震えたのが伝わった。
「帰るか」
と言って、俺は立ち上がった。ミヨはそれに従わなかったから、手はそこで解けた。
「楽しかったよ。……なんだか、すごく楽しんじまった」
そう言って、俺は恥ずかしくなって、鼻先を掻く。自分で仕掛けたはずの今日だったのに、いつの間にか自分まで楽しんでしまっていた。
一瞬、本当にそんな気持ちになってしまっていた。
楽しくて、嬉しくて、それがなんだか、今はすごく……。
「なっ?」
と言って、俺はミヨに手を差し伸べる。しかしミヨは、それに拒むように俯いていた。
「ほら」
と言って、さらに手を差し出す。それでようやく、ミヨは立ち上がった。
だけど、俺の手は取らずに。立ってからも、視線を合わせようとはせずに俯いたままだった。
どうした? と俺は言おうとしたが、言葉は出なかった。夜が深くなったことで寒さが増して、俺はどうしたものかと考えあぐねた。
ミヨ、と名を呼ぼうとする。しかし、それよりも一瞬早く、ミヨは、
「……できるよ。仮想でだって……」
と呟いた。
俺は言っていることがよくわからなかった。だけど、ミヨが俺に体を重ねたことで、その意味をすぐさま理解した。
本気か? と言おうとしたが、言葉は違う要因で出なかった。
「できるよ」
とまた言って、ミヨは顔を上げた。
ミヨの両手が、俺のコートを掴む。俺にはもう、何も言うことができなかった。
ミヨの体が震えていた。それは、寒さによるものなのか、あるいは、別の何かによるものなのか。
俺は何も考えず、両手をミヨに回した。それから、ミヨに少し顔を寄せて、そこで目を閉じた。
ミヨにさせてあげることにした。きっとその方が正しいと思ったからだ。
俺は待った。
すると、ミヨの顔が少しずつ近づいてくるのが、気配でわかった。
俺の体が震えていた。それは、寒さによるものなのか、ミヨが震えているためなのか、それとも……。
ミヨの鼻息が俺の顔に掛かった。
そこで俺は、何故だか唐突に、リンさんのことを思い出した。
それからすぐに、ユキイチロウさんのことが思い出された。
俺はリンさんのことが好きなんだ。
ミヨはユキイチロウさんのことが好きなんだ。
それはミヨも同じことを共有していて。
自分はユキイチロウさんが好きなんだ。
この人はリンさんが好きなんだ。
だから、俺たちは……。
体が震えた。
どちらの体がそうなったのだろう?
俺は待った。だけど、いつまで経っても、ミヨの唇が触れることはなかった。
俺は恐る恐る、目を開けた。ミヨの顔は、すぐ近くに。ギリギリで焦点が合う距離で、俺を見ていた。
ミヨは泣いていた。
宝石みたいな涙の粒が、目からぽろぽろとこぼれ落ちていた。
いつからだろう?
俺たちは、どうしてこんな……、こんな所に、立っているのだろう?
ミヨの体が、そっと俺から離れる。
お腹のあたりにあった温もりが、冬の風にさらわれて消えた。すると俺は、何かとても大切なものが自分の中から離れた気持ちになった。
「ごめんね」
とミヨが言った。それから、
「ありがとう」
と言って、また一粒の涙をこぼした。
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