第74話「記憶喪失タイムマシン」
清瀬サヤカは、恋人の研究所にやってきた。
30歳。長い黒髪で、ほっそりした体つき。
和風美人だが、どこか幸薄そうな顔立ちだった。
研究所は田舎の廃工場を買い取ったもので、重い戸がある。
ギイギイと力を込めて戸を開ける。
「よお」
「ありがとうレイスケ! 私の事思い出してくれて!」
恋人の藤堂レイスケが出迎えてくれた。
たくましい長身で、映画俳優のような男前だ。
ひとめぼれした時からずっと変わらず美しい。
すべてを投げ出してでも、そばにいたい。
「君の事、一秒だって忘れちゃいないさ」
「でも、最近、会ってくれなくて……」
恋人の科学者、藤堂レイスケに尽くしてきた人生だった。
裕福な家に生まれた。親の言うがままに生きれば、安楽だったろう。
だが大学で、レイスケに出会ってしまったのだ。
才能と情熱に満ち溢れた彼。
タイムトラベルを可能にするという、遠大な夢に挑む彼。
彼のそばにいたい、彼をわずかでも支えたいと思った。
完成したタイムマシンで、あらゆる時代を一緒に旅行できれば最高だ。
だから必死に勉強して科学知識を一通り身に着けたし、研究資金として家の金をありったけつぎ込んだ。
親から縁を切られてしまったが、後悔はない。
ただ、最近レイスケが会ってくれなくなったことは寂しい。
研究が佳境なのだ、とは聞いていたが……
嫌われるのが嫌だから我慢して、我慢して。
二か月ぶりに呼び出されたのだ。
「タイムマシンがついに完成した」と。
研究所の真ん中には、数メートル程度の円筒形機械が鎮座して、たくさんのケーブルで周囲とつながっている。
ネゲントロピー変換式時間遡航機、タイムマシンだ。
「サヤカには人類初のタイムトラベラーになってもらう。動物実験には、もう飽きたんでね」
「えっ? じゃあ、記憶が消える問題は解決したの?」
開発中のタイムマシンは、乗っている者の記憶が消えてしまうという大きな副作用があった。
動物実験では、みんな生まれたばかりの状態に戻ってしまった。
これではとても人間を乗せることはできない。
「それについては私に説明させてくれ」
もう一人、白髪頭の紳士が顔を出した。レイスケの共同研究者、木戸教授だ。
「このタイムマシンは、ネゲントロピー変換式時間遡航を行う。人間や動物がもつ脳の情報量を、エントロピーの逆……ネゲントロピーに変換し、時間の矢を騙す。
だが、クッションとして動物の脳を組み込んでやれば、そこで記憶消去が止まるのだ。つまり人間は記憶を失わずにタイムトラベルできるのだ」
「もちろん、計算上はそうなる、という話にすぎない。僕を信用できないかもしれないけど……」
「そんなことないわ! あたしレイスケの言うことならなんでも信じる! レイスケは間違いなんて絶対にしないよ!」
「ありがとう、じゃあ引き受けてくれるね?」
「当たり前だよ! ぜったい、わたしがやる! いますぐやらせて!」
サヤカはタイムマシンに乗り込んだ。計器類に囲まれた狭い操縦席に体を滑り込ませる。
頭上の搭乗ハッチを閉めて、しっかりと施錠。
開発には途中までサヤカも関わっている。操作方法はわかっていた。
「時間は一か月前にしておくわよ?」
タイムマシンが作動を開始する。ガタガタと激しい振動。空気がイオン化し、鼻をつくような臭いが漂ってくる。
違和感に気づいた。
頭が締め付けられるように痛い。そして、なにか形のない冷たいものが、脳に突っ込まれているような……
突っ込まれて、何かを吸い出されていく……
何か……そう、記憶だ。私の記憶はちゃんとあるのか!?
「私……あたしの名前は清瀬サヤカ……歳は……あれ、わからない……両親は……わからない……
レイスケ、私のたいせつな人……レイスケに大学で会って、ずっと一緒にいるって決めて……
研究が完成したら、レイスケが偉大な科学者として認められたら、結婚を……
それは覚えてる……レイスケのことだけは……
でも……私……名前……もう自分の名前もわからなくなってる!」
悲痛な叫び声をあげた。
「レイスケ! レイスケ! タイムマシンがおかしいわ! 記憶がなくなってく! 欠点が直ってない!」
だがハッチは固く閉じられ、開かない。
マシンは激しく振動を続け、時空間を飛び越える決定的な臨界点へと、ネゲントロピー凝縮圧を高めていく。
「レイ……スケ……。たすけ……」
って。レイスケって誰だっけ?
☆
途切れた意識が、ふたたび覚醒した。
もう、ガタガタという激しい揺れはない。
だがサヤカは、
……何も思い出せない。
……私は誰?
……なんでこんなところにいるの?
……出して!
恐怖に震え、身をよじって悲鳴を上げる。
自分は今、たくさんの機械に囲まれた、椅子が一つぶんの狭い空間にいる。
なにかの操縦席だろうか。
頭の上には大きな蓋のようなものがある。これはきっと出口だ。
重い蓋を開けようとして気づく。
封筒が蓋に貼り付けてある。
封筒をガサガサと探り、中にあるノートを取り出した。
ノートにはきれいな文字でビッシリと文が書いてあった。
「清瀬サヤカへ
僕はタイムマシンの開発者です。
あなたがこれを読む時、すべての記憶を失っていることでしょう。
それはタイムマシンの副作用によるものです。
しかし、あなたは記憶を失うことを知ったうえで、覚悟してタイムマシンに乗り込んだのです。
あなただけが、タイムマシンでの時間移動に耐えられる特殊体質の持ち主だから。
タイムマシンの作られた西暦2050年、世界は滅亡の危機にあります。
だから、あなたにお願いがあります。
あなたは過去の時代、1985年にいるはずです。
未来の知識を使って、できるだけたくさんのお金を稼いでください。
そして、そのお金を2025年9月10日にいる、藤堂レイスケという男に渡してください。
その男は未来を変え、人類を救えるほどの男だったのですが、お金が足りなかったばかりに人類救済に失敗したのです。
たくさんのお金を稼ぐ方法は簡単です。
ノートには、何十年間の競馬のレース結果、それと、株価の変動が全て書いてあります。
10万円同封しました。このお金を元手にして増やしてください。
人類を救う、たったひとつの方法なのです。どうかお願いします」
最後まで読み終わったサヤカは、ノートを抱きしめた。
……ノートを信じるしかない。
……ここに書かれている通り、行動するしかない。
頼れるものは他に何もないのだから。
立ち上がり、タイムマシン操縦席の蓋……搭乗ハッチを開ける。
そしてハッチの外に顔を出し、
「えっ……?」
☆
タイムマシンは激しく振動していた。
中からサヤカの悲鳴がほとばしる。
「レイスケ! レイスケ! タイムマシンがおかしいわ! 記憶がなくなってく!」
レイスケは整った顔に笑みを貼り付け、腕組みをして見守っている。
「たすけ……レイスケ……」
そして、タイムマシンはスッと消えた。
あとにはイオン臭と、引きちぎられたケーブルだけが残った。
「うまく行った! 完璧だ! 最後まで騙されてくれてありがとうよ!」
レイスケの笑みは大きく歪み、嘲りの表情そのものだ。
このタイムマシンは時間遡行の代償として人間の記憶を消費する。
それは副作用などではない。根本原理そのもの、動力源そのものなのだ。
改良したところで、記憶喪失を回避するなど不可能。サヤカに言ったのは嘘だ。
レイスケたちが改良したのは別の点だ。
「記憶喪失に選択性を与えた」。
タイムトラベラーがすべての記憶を失ったら言葉すら喋れない。それでは過去に戻っても何もできない。
だから、言葉や技術、学問知識だけは残して、自分の人生に関する記憶だけ消えるようにした。
サヤカは30年の人生を燃焼しつくし、30年の過去に戻る。
そして自分が何者だかわからず、ノートにすがるしかない。
ノートに書いてあるとおりカネを増やし、レイスケのもとへ持ってくるはずだ。
指定期日は2025年9月10日。明日だ。
「……どれくらい稼いでくれるかな。未来情報が全部揃ってるんだ、ざっと100億は固いと思うが…」
レイスケに、木戸教授は戸惑ったようにたずねる。
「それにしても君、全く悲しそうでないね。あの女への愛はもうないわけか」
「冗談でしょう? あんなメンヘラ女、誰が本気で惚れるもんですか。カネを絞れるだけ絞ったから、もう用済みですよ。
むしろ俺は優しいですよ、最後に役目を与えてやったんだ。明日100億持ってきたら、涙くらいは流してやりますよ。バアさんになってるでしょうがね」
レイスケは自信に満ちた笑みを浮かべているが、木戸教授のほうは不安げだ。
「しかし……サヤカくんがノートを無視すれば全て崩壊する計画だ」
「問題ありませんよ。自分が何者かわからない状況なら、間違いなくノートにすがる。あいつにはさんざん振り回されてきた、性格くらいわかってます」
「そう、その性格のことなんだ。きみはサヤカくんをメンヘラ女と呼んでいたが……」
「他に表現しようがないでしょうが? あいつは俺に泣いてすがったかと思うと、急に無愛想になったり、怒り出したり……
俺のどこが好きなのか、俺と結婚してどんな生活を送りたいか、言ってることが毎日変わる。まるで多重人格みたいですよ」
木戸教授の顔色はすでに死人のようだった。ゴクリと生唾を飲んで、
「……本当に多重人格という可能性は無いかね?」
「なっ……? いや、その可能性もゼロではないか……そうなると、タイムマシンの挙動はどうなるんです?」
「サヤカくんの頭には何人分もの人生が詰まってることになる。人格が2つあるとすると、2倍の60年。3つあると90年も時間を遡ってしまうんだよ。
計画は瓦解する!
それだけじゃない、遠い過去に行った場合、歴史の流れを大きく変えてしまうこともありえる」
「まずい! いますぐ確認しましょう!」
レイスケと木戸教授は、研究所の外に走り出す。
「こ、これは……?」
二人は驚愕の声を上げた。
研究所は畑に囲まれていたはずだ。だが世界は一変していた。
周囲には見たこともない不思議な形の高層ビルディングがずらりと立ち並んでいる。
そして高層ビルには、すべて女の顔が描かれているのだ。
巨大な看板もある。看板の中でも見知らぬ美女が微笑んでいる。
レイスケは通行人をつかまえて、
「おい、あんた! あの女の絵は一体なんだ!?」
「は? あんた外国から来たのか? 国母さまを知らないのか?
二千年前に現れ、俺たち日本人にすべての文明を授けてくれた偉大な国母、サヤカさまだよ」
「国母……サヤカ様だと……!?」
最悪の予感が当たって震えるレイスケの脳髄を、歴史変動のもたらす因果律の波がそっと撫でた。
すうっと不安が消え、あたたかい光だけが心を満たした。
「そうだ、国母様だ……当たり前じゃないか……俺は何を言ってたんだ?」
木戸教授とふたりで一緒に笑顔になって、
「国母様、万歳! 国母サヤカ様、万歳!」
今まで何を焦っていたのか? 偉大なサヤカ様に守られた日本。何も悩むことはないじゃないか!
☆
タイムマシンのハッチを開けて外に出たサヤカは、凍り付いた。
「えっ……」
あたりは原野だった。
家もない。店もない。道路も、自動車も……
草ぼうぼうの平地と、あちこちに生えている木。
文明の痕跡すらないのだ。
平地の向こうに人影を見つけてホッとしたが、一瞬で落胆が押し寄せた。
数人の人影は、腰に布切れを巻きつけただけの姿で、靴もなく、槍を担いでいる。
古代人だ。1985年に来るはずが、とんでもない大昔に来てしまったのだ。
ノートに書いている株価情報など全く役に立たない。
……もう絶望だ、だって私は、記憶を失って、何も知らなくて、この世界で生きていく方法なんて……
……あの古代人たちに殺されてしまうんだ……
「ん?」
目をぱちぱちさせて、自分の手をじっと見るサヤカ。
「方法……わかる……おぼえてる……」
どうやって獲物を捕るのか、どうやって水を手に入れるのかというサバイバル技術。
鉄の刃物の作り方。家の建て方。医学や物理の知識。
どんどん自分の中から沸き起こってくる。
……どうしてだろう? 誰が、この豊富な知識を与えてくれたんだろう?
……だが、この知識を生かして、この時代で生きていくしかない。
古代人たちは、サヤカのほうを指さして近づいてくる。
覚悟を決めたサヤカはタイムマシンから出て、土の上に降り立った。
胸を張って、近づいてくる古代人を見つめる。
もう恐怖も迷いもない。
……あの人たちと協力して、私の知識と合わせれば、きっとなんとかなる。
50以上あったサヤカの多重人格はタイムマシンの動力として消費され、歪みも偏りもない、まっさらな人格だけが残された。
偉大な指導者としてふさわしい人格だった。
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