第70話「創世記」


 僕の名前はジミー。12歳。

 村で一番、頭がいいと言われている。


 週に一度の、儀式の日。教会に村人みんなで集まった。

 

 ステンドグラスから差し込む陽光に照らされて、司祭様が歩いてくる。

 司祭様は僕たちとはぜんぜん違う姿をしている。

 僕たちは頭のてっぺんから足の先まで真っ黒で、腰の周りに布を巻いているだけ。

 司祭様は白い肌で、真っ白い衣で全身を包んでいる。

 ずいぶん年をとって、顔はシワだらけで、杖を突かないと立てない。

 でも気迫を込めた声で、神の教えを語る。


「たたえよう、尊き神を。

 ……神は、愚かなる人類に裁きを下した。世界を埋め尽くしていた90億の人間を、雷にて焼き払った。

 しかし、わずかな人類だけは救った。

 ジミー、答えなさい。なぜ人類は滅び、君たちだけが生き残ったのか?」


 司祭様に急に言われて、僕はギョッとなった。

 心の中のことを読まれたのではないか。

 自分が司祭様の教えに逆らっていることがバレたのではないかと。


「人類は、罪を犯したからです」

「具体的に言えるかね、ジミー?」

「はい。人類は森を切り開き、残らず街に変えてしまいました。油を燃やし、煙と毒をバラまきました。そして、仲間同士でずっと殺し合いを続けたのです。だから神は怒って、人類に罰を下しました」

「それでいい。ではアイ、私たち人間は、その過ちを償うためにどうすればいい?」


 アイちゃんは僕の家の隣に住んでいる女の子。小さい頃から仲良しだった。キラキラした大きな目は好奇心でいっぱい。

 アイちゃんは緊張した様子で答えた。


「聖典の教えに従い、足ることを知ります。大地の恵みに感謝し、それ以上を望みません」


 ここまでなら、村人は誰でも答えられる。アイちゃんがすごいのは、ここから先だ。


「ではアイよ。この村の人々が生きるには、どれだけの食べ物が必要か? 村人は何人まで増やせる?」


 アイちゃんは少し考えこんだ。


「……村人はいま、48人います。そのうち10人は小さい子供で、おとなの半分も食べません。4割くらいの食料でいいと考えて、必要な食料は42人ぶんです。42人が1日に3回、ご飯を食べると126食必要です。1年は365日だから……畑から取れる、作物の量は……」


 複雑な計算をやってのけたアイちゃんは、緊張の表情で結論を言った。


「……ですから、いまの農地の広さで48人は十分に生きられます。でも60人を超えたら足りなくなるので、新しく農地を広げる必要があります」


 アイちゃんの計算能力は素晴らしい。

 司祭様が、次に僕を指さした。


「ジミー。だが、農地を広げることはできない。川の水の量に限りがあるからだ。その場合どうする?」


 言われると思った…

 僕は再び立ち上がり、答えた。


「多すぎる村人は減らさなければいけません。……体の弱い子供、病気の年寄りを死なせましょう。……それが、村を守るためなのですから。足ることを知り、慎ましく生きろと、神は言われているのですから……」


 悲しみを我慢したつもりだが、声が震えてしまった。


「そのとおりだ。本当に、君たちはよく勉強しているな。

 これからも、その調子で頼む。

 ……では最後に、聖餐の儀式だ。神の糧たるワインを、みなで分け合おう。心に迷いを持たず、感謝して飲むのだ。アイ、頼む」

「はい」


 アイちゃんが、司祭様から大きな器を受け取る。

 器にはワインが入っている。

 村人たちは真剣な表情で、ワインを一口ずつ飲んでいく。


 偉大な司祭様。

 僕たちに、すべてを教えてくれた。

 文字の読み書き、計算、畑の耕し方、家の作り方、そして神の教え……

 司祭様は、とても年をとっていて、ここ最近は寝込むことが増えている。

 だから、誰かが司祭様のあとを継いで、村を導かないといけない。

 僕とアイちゃんは、抜群に物覚えが良いので、後継者候補だ。

 司祭様からすごく期待されている。

 父と母はそれを喜んでくれる。


 ……でも、僕は司祭様を……神の教えを裏切っているんだ。


 ☆


 その夜、僕は自分の家の屋根裏部屋で、勉強をしていた。


 と、窓をトントンと叩く音。


「わたしよ、ジミー」


 アイちゃんの声だ。ギリギリ聞こえるくらいの小さな声。万が一にも両親に聞かれたら困るから。


「今日は研究所、行かないの?」


 研究所。僕の……僕とアイちゃんの罪の証。

 わずかに罪悪感で胸がうずいたが、


「次の発明が完成したんでしょ? わたし、見てみたいな」


 アイちゃんはワクワクしている。声量を抑えても隠しきれない。

 僕もなんだか楽しくなってきちゃって、罪悪感は吹き飛んだ。


「そうだね、行こう」


 椅子には、身代わりの人形を置いておく。薄暗い中ならごまかせるだろう。


 僕は窓から出て、大きな音を立てないように気をつけて、地面に降りる。アイちゃんと一緒に村を出て、森の中を進む。

 明かりは点けていない。森の中だと、月も星も見えない真っ暗闇だ。

 でも、僕はこの道を慣れているので、どこに何があるか完全に覚えている。木の根で転ぶようなことはない。

 やがて1本の、大きな木にたどり着いた。

 この大木の、下の方は枝がぜんぜんなくて、登るのが難しい。でも、僕が持ってきた、このフックつきロープを投げれば……

 うまくロープが枝に結びついた。

 僕とアイちゃんは、ロープを利用して大木に登っていく。


 たくさんの枝と葉っぱに隠され、見えない場所に、小屋があった。

 僕の作った研究所。

 研究所に入って、ヒョイヒョイと簡単に明かりをつける。

 ボウっとランプの火が光って、研究所の中を照らし出す。

 たくさんの機械が並んでいた。

 火がないのに光る「電球」。

 電球を動かす「発電機」。

 電気のエネルギーを蓄える「バッテリー」。

 そのほか、何十種類もの機械が。薬品が。


「こないだ来たときより機械が増えてる。電球の形も変わっているみたいだけど」

「球形以外の形も試してみたんだ。でもあんまり性能は変わらなかった。電球の形じゃなくて、電球の中の線を変えないとダメみたい」

「あっ、この筒みたいな機械が、新発明?」

「そうだよ。片方の筒を火で温めて、もう片方は水で冷やすんだ。そうすれば動く。温まった空気は膨らんで、筒を押すんだ」


 火であぶったら、筒は生き物のように動き出した。


「……すごい」

「『発電機』とつなげることもできる。そうすれば、手で回さなくても電気が作れる」

「電気の使い道って、電球以外もあるのよね?」

「物を動かす力もある。『飛行機』にも使えるかもしれない」

「どうして、こんな凄いことを思いつくの」

「大したことないよ」


 僕は軽く答える。

 そう、本当に大したことない。

 ただ、疑問を持っただけなんだ。

 ……雷って何なんだろう?

 冬に毛皮がバチバチ言うのは、雷に似てる。同じものじゃないのか?

 そう思ったので、たくさんの火花をバチバチさせた。

 毛皮をこする以外に、雷を作り出す方法はないのか?  

 電気のことだけじゃない。どうして鳥は飛べるんだろう、人間は飛べないんだろう。

 わからないことがたくさん。

 司祭様は、「神が世界を、そうお創りになられたからだ」しか言わない。大人たちはそれで納得している。

 だけど僕は……僕はどうしても納得できなくて、知りたくて……

 複雑で広い世界の仕組みを、わずかでも解き明かせたときの喜び。忘れられない。

 何十種類も研究した。

 罪を犯していることは分かる。

 でも、きっと「知ること」を広げていけば、畑の作物を増やすことも、病気を治すこともできる。

 人を救えるんだ。村人が多すぎるから殺すとか、やらなくていいんだ。

 アイちゃんは「計算」の力で、僕に協力してくれている。

 たった一人の、僕の理解者。


 ……と、そのとき。


 僕の背中にゾッと悪寒が走り抜けた。

 ……誰かいる。樹の下に、研究室の下に、誰か。


 僕はアイちゃんに向かって、声を出さず手で合図した。『機械を止めて!』

 アイちゃんがすぐに察して止める。ランプの火も吹き消す。

 だが遅かった。


「おい!」

「ジミーにアイ! 降りてこい!」

「そこにいることはわかってるんだ!」


 研究室の窓から下を見ると、松明の明かりがちらちら見える。村人たちが、十人、二十人……


「僕はここです! 今すぐ降りていきます! でもアイちゃんは違うんです! 僕が無理矢理つきあわせたんです」


 アイちゃんの罪だけでも軽くしようと頑張ったが、駄目だった。

 大人たちの怒りと悲しみは凄まじかった。


「なんだ、この、訳のわからない道具は!?」

「悪魔の儀式か。まるで古い世界の、罪深い人間たちのよう」

「どうして……どうして、ジミー、お前ほどの奴が、司祭様の教えを忘れたのか!」


 僕たちを捕まえに来た村人たちの中に、両親もいた。


「ジミー、なにかの間違いだよな!?」

「アイちゃんみたいな優しい子が、邪教なんて……」


 僕たちの両親は、大いに泣いた。

 そして、僕たちを教会に連れて行った。


「私たちだけでは、とても罰を決められない……司祭様に、すべての判断を委ねます」


 司祭様は、深くうなずいた。


「わかった。道を外れた者を諭し導くのも、私の役目。じっくりと話し合いたい。君たちは出ていってくれ」


 村人たちが全員退出した。

 僕たち二人だけが残され、司祭様と向かい合っている。


 ああ……僕とアイちゃんは、どんな罰を受けるのだろう。

 いや、諦めちゃダメだ。研究で人の命を救うことだってできると言えば、きっとわかってくれる。


 ところが。

 村人たちがいなくなると、司祭様の態度は一変した。

 いつも暗い顔なのに、パッと笑顔になって、僕たちにグイグイ近寄ってきた。


「詳しく話を聞かせてくれ! 何を研究していたんだ?」

「ええ!?」


 僕たちは驚きながらも、研究成果を説明した。


「すばらしい。発電機! 白熱電球! そして……温かい空気で動く機械? スターリング・エンジンを開発したのか!?」

「ひ、飛行機の研究もしてます……手のひらに乗るくらいの小さな飛行機しか、まだ飛ばせないけど……」

「複雑な計算が必要なはずだ。圧力、電圧、強度計算……ジミーがやったのか?」

「ち、違います。アイちゃんが計算してくれました」

「司祭様が教えてくれた、足し算とか掛け算だけでは足りないので、特別な計算の仕方を考えました」

「教えていないのに、自分で考え出したのか……」


 司祭様は喜びに震えて、アイちゃん相手にいくつか質問した。


「……が……のとき、……はいくつになる?」

「……の計算式があったとき、……を満たす解は?」


 僕には全く理解できない質問だったけど、アイちゃんは司祭様の顔をまっすぐ見つめて、すぐに答えた。


「……無理数や虚数の概念まで理解している。何千年ぶんの数学の進歩を、独力で成し遂げたんだ。何という天才だ……」


 あまりにも司祭様の反応がおかしいので、僕はおそるおそる訊いた。


「あのう、司祭様。僕たちは、神の教えに逆らった……悪いことをしたんですよね?」


 司祭様は答えず、逆に質問をぶつけてきた。


「ジミー。アイ。君たちは、自分の外見と、私の外見が違うことを不思議に思ったことはないか?」

「外見、ですか…?」


 僕とアイちゃんは、揃って首を傾げた。

 確かに外見は違う。

 僕たち村人は、頭のてっぺんから爪先まで、黒い毛に覆われている。前のめりになって、手をついて歩く。

 司祭様は、白い皮膚が剥き出しで、毛は生えていない。歩くときに手はつかない。


「確かに違いますけど……でもそれは、僕たちが神の怒りに触れたから。司祭様は、神に教えを託された、偉大な方だから……だと、思ってましたけど……」

「はい。わたしもそう思ってました」

「外見が違うのは、君たちが人間でないからだ。君たちはチンパンジーなんだよ」

「チン……パンジー……!?」


 司祭様は、しばらく姿を消して、大きな本を持ってきた。


「これは写真というものだ。滅びる前の世界は、こういうふうになっていた」


 大きな本には「写真」が載っていた。

 僕とアイちゃんは食い入るように見つめた。はじめて、この村以外の世界を見たのだから。

 山みたいに大きな建物が、たくさん並んでいる。

 大勢の人間たちが道を歩いている。誰も、体に毛が生えていない……


「そしてこれが『チンパンジー』」


 司祭様が、パラリとページをめくる。

 僕たちとそっくりの動物が、檻の中に座り込んでいた。


「僕たちが……人間じゃない……ただの動物……見世物……そんな……」

「私はもともと、司祭ではなかった。チンパンジーの知性向上を研究していた科学者だった。

 大きな戦争で人類が滅んだ。山の中の研究所で、奇跡的に一人だけ生き残った。

 私は自分の使命を悟った。

 研究を完遂する。チンパンジーを新たな人類として誕生させる。

 愚かな戦争を繰り返さない、真の『万物の霊長』を……」


 司祭様はガクガクと大きく震え、涙すら流して、語り続ける。


「その使命があったからこそ、私は一人でも頑張れた。清らかな新人類を生み出すという使命は、仕えるべき神と同じだった。

 読み書きを教えるのに十年。農業を教えるのに十年。宗教を教えるのに十年。

 文明のレベルは中世以下だが、安定した社会を作ることができた。

 これでいい、これを維持できればと思っていた。

 だが、君たちが現れた。

 圧倒的知性! 探究心! 想像力! 宗教の圧力すらはねのける意志!

 いまや君たちこそ、本当の人間だ! かつての人類文明を超えられるかもしれないんだ!

 方針を転換しよう。科学技術をもっと発達させるべきだ。

 君たちは、新しい人類の代表なんだと、村のみんなに教える。君たちが人類を導いていくんだ。新しい社会を作るのだ」


 僕はなんだか不安になった。


「あれだけ、『足ることを知れ』って言ってきたのに、正反対のことを言い出すんですか。村の人達は怒らないでしょうか?」

「私に任せておけ。どれだけ長い間、司祭をやってきたと思っている?」


 司祭様が教会のドアを開けた。外で待っていた村人たちが、なだれ込んでくる。


「みな、きいてくれ。この二人、ジミーとアイは罪人ではないのだ。

 全く正反対、素晴らしい発見をした知恵者だ。みんなで祝福すべき存在だ。

 みんなで二人の研究に協力してくれ。

 その前に説明しておく必要がある。

 聖典に書かれたものは真実の教えではない。

 神の怒りで滅びた『人間』と、君たちは違うんだ。

 君たちはチンパンジーという違う種類の生きものなん……」


 村人たちは、聞いているうちにざわつき始めた。


「司祭様?」「司祭様の言ってること、おかしいです!」

「いままで言っていたことと全然違います!」

「本当の司祭様ですか?」

「悪魔……」「そうだ! 悪魔が化けてるんだ!」

「正体を現せ!」

「本物の司祭様をどこへやった!」


 村人たちの形相が「不安」から「怒り」に変わった。歯をむき出し、いっせいに説教壇に押し寄せる。


「なっ……話を聞け!」「悪魔め!」「悪魔め!」


 僕とアイちゃんは司祭様を助けようとしたが、


「お前たちは逃げろ!」


 司祭様が血相変えて叫ぶ。言葉に従って、教会から走って逃げた。


「これからどうするの? どこにいけばいいの?」

「最悪の事態を想定しよう。研究所に行く」


 僕たちは真っ暗な森の中を駆け抜け、研究所にたどり着いた。

 研究所に飛び込んで、中にある薬品をかき集め、機械を点検した。


「あれと、これと、これを混ぜれば……あとは、これも……」

「何をする気? 危険な物ばかりじゃない。まさか……」


 アイちゃんはためらっているみたいだ。


「戦うしかないよ。ほら、見て」

 

 窓から下を見ると、たくさんの村人たちが走ってくるのが見えた。

 みんな手に武器を持っている。わずかな明かりの中ですら、刃が血に濡れていることがわかる。


「うそ……司祭様を……殺したの?」

「行くよ、アイちゃん、一斉攻撃だ」


 僕たちは、火のついた瓶を次々に投げ落とした。

 発電機用に作っていたアルコール燃料だ。


 村人たちは燃料を頭からかぶって炎の柱になり、悲鳴を上げて暴れまわる。

 他の村人たちが火を消そうとするが、ぼくたちは第二の攻撃をかけた。

 瓶を投げると、それは次々に轟音を上げて爆発する。

 畑の収穫量を増やそう、肥料を作ろうと思って、いろいろな物質を混ぜ合わせていたら爆薬ができてしまったのだ。

 爆発で煙が広がり、僕たちがいる研究所も大きく揺れる。

 爆風が消えた時には、誰も立っている者はいなかった。全員、焼けただれた姿で転がっている。

 火が消えたんなら好都合だ。僕は三度目の攻撃をかけた。

 今度の瓶は、炎も爆発も出さない。

 ただ割れて、目に見えない猛毒のガスを出して、村人たちにとどめを刺していく。


 僕たち二人は、焼けて転がった村人たちが、力尽きて動かなくなっていくのを見守っていた。

 やがて夜が明け、森に木漏れ日が差し込んでくる。


「もういいだろう、ガスも無毒化されたはず」


 僕たちは研究所から降りた。

 村人たちは全員、間違いなく死んでいた。

 驚愕と怒りに目をむいて、毛皮が焼けて剥がれ落ちて……

 こうなってしまうと、「人間」も「チンパンジー」も似たようなものだ。


「ねえ……全員を殺すことはなかったんじゃない? 何人か助けてあげても……」

「手加減はできなかった。だって司祭様のことも殺したんだよ。助けたつもりで、後ろから刺されるかもしれない」

 

 僕はそう言ったが、声は震えていた。

 殺したくはなかった。だって、これじゃまるで……


「これからどうするの?」

「旅に出るのはどうかな。人間が住んでいた町に行けば、いろいろな機械があるはず。本もあるはず。僕たちの研究を、もっと発展させられるよ」

「……発展させて、どうするの? 村の人たちは、もういないのに……」

「僕たち二人がいれば十分じゃないか! 新しい村を作るんだ。町を作るんだ。昔の人間たちみたいに、世界を埋め尽くすんだ! きっとできるよ」

「それで……昔の人間たちと同じように、殺し合いに溢れた世界を作るのね? ジミーのやってること、人間たちとそっくりよ」


 アイちゃんの言葉は僕の胸に深く刺さった。

 司祭様は、かつての人間とは違う「真の万物の霊長」を作るといった。

 最初の一歩から失格だ。


「でも、行くしかない……他にどんな道があるというんだ? 何の研究もせず、おとなしく暮らしていれば良かったのか……? 僕にはそんなこと絶対できなかった。アイちゃんもだろう!?」


 アイちゃんは言葉ではなにも言わなかった。

 無理やりな笑顔を作って、僕の手を固く握ってきた。


 こうして、僕たちは神の教えを裏切り、村を滅ぼし、旅に出た。

 

 そして、人間たちの町についた。


「こんなに、大きな建物がたくさん!」

「本もあった、読んでみよう」


 ところが、本を読もうとして、読めないのだ。


「なんだこれ……文章が難しくて、ぜんぜん頭に入ってこない……いままで、こんなことなかったのに……」


 そこで恐ろしい可能性に気づいた。


「アイちゃん、計算して。240たす905はいくつ?」

「足し算なんて、簡単に……あれ……わからない……??」

「僕たち、頭が悪くなってるんだよ!」


 僕の心にすさまじい恐怖が吹き荒れた。

 大変なことを見落としていた。


「もしかして……司祭様がやっていた『チンパンジーの頭をよくする研究』というのは、薬が必要なんじゃないか?

 儀式のワインに、薬が入っていたのかも。あれを飲まないと頭の良さを保てない!」

「じゃあ……いますぐ戻らないと! 教会に戻れば薬があるかもしれないわ!」


 頭が悪くなってしまうのは嫌だ。研究したことを全部忘れてしまう、野を駆ける獣と同じになる。こんな恐ろしいことがあるか。

 昼も夜も、休まずに歩き続けた。

 

「むらだ! むらが、みえたよ、アイちゃん」

「やまをくだれば、むらよ!」


 ぼくたちは、ありったけのちからで、かけおりる。

 腰のまわりに変な布がくっついてる。なんだろう、これ。走りづらいので、すてた。


「やっとむらについた!」

「ところで、くすりは、きょうかいの、どこにあるの?」

「くすり? くすりって、なんだっけ?」

「うーん、わたしも、わからないな?」


 ぼくとアイちゃんは顔を見あわせた。

 大切なものだった気がする。

 でも、なんなのか思い出せない。

 くすり……くすりをのまないと、けんきゅうのことを、わすれてしまう……

 でんあつ……きあつ……かがくはんのう……ぜんぶわすれて……

 ……なんだっけ、それ?

 そんなことより、おなかすいたなあ。

 キー! キー! ウキー!

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