第69話「塩の聖域」

 第二次大戦末期。

 イタリア海軍潜水艦「オルガンティーノ」は危機に陥っていた。


 発令所は台所のように狭く、そこに艦長、副長、水雷長、ソナー員など、数人の軍人たちが肩を寄せ合って座っている。潜水艦では風呂も入れない。全員が汗まみれで、汚い軍服姿だ。


「……頭上、航走音が増えました。蒸気ピストンエンジン、スクリュー1軸で15ノット。数は4つ。おそらく、英国のフラワー級コルベットです」


 ソナー員が言うと、艦長は帽子でパタパタと顔をあおいで、ため息をついた。

 艦長は子供っぽい、無邪気な顔立ちで、軍人らしさが全く感じられない。


「完全に頭上を押さえられてるな……4隻のコルベットに爆雷攻撃されれば、さすがに回避しようがない」

「どうするんですか、これ以上逃げ回るのは無理でしょう、いちかばちか、浮上し戦いましょう」


 副長が問う。艦長は帽子をかぶりなおして、明るい笑顔を作った。


「……ネモ船長はそんな自滅的行動はとらない。まだ手があるはずだ」


 副長はあきれた様子で言った。


「まだ、ご自分のことをネモ船長って言ってるんですか。ごっこ遊びはやめてくださいよ」

「僕が、『海底二万マイル』のネモ船長に憧れて潜水艦乗りになったのは事実さ。他人にとってはくだらないことが、ピンチの時に心を支えてくれることもある」 

「艦のみんなの命がかかってるんですよ?」

「いいじゃないですか、艦長こういう人なんですから」


 部下たちは苦笑いをするが、本気で軽蔑したような顔ではない。

 艦長は確かに変わり者だが、無能ではない。彼の指揮下でみんな生き残ってきたからだ。

 すでに2年前、祖国イタリアは降伏した。

 だが戦争は終わらず、北半分は「イタリア社会共和国」を名乗って分裂。

 この潜水艦「オルガンティーノ」は「イタリア社会共和国」側について戦い続けた。

 敵はイギリスと、そして、先日まで同胞だった、南イタリア。

 味方の船は次々に沈められ、敵の船は増える一方。

 それでも生き残ってきた。先月など、イギリス駆逐艦と一騎打ちして、見事勝利した。信じてついていくほかない。

 

「……海底の泥に隠れるのはどうかな? 酸素の量からいって、まだ4時間は潜行していられる」

「都合よく泥がありますかね?」

「ネモ船長のカンが告げているのさ、ここならあると。右45度旋回、緩やかに潜行」

「カンですか……了解」


 潜水艦オルガンティーノは艦首を下げて、斜めに下降する。


「深度130、140…そろそろ限界では?」

「圧壊寸前、200メートルまで潜る。戦前の測量データでは、ここの深度は『計測不能』。かなり深い盆地になっているはずだ。一番底まで行けば、きっと泥がたまっている」


 そのとき、艦長たち乗組員を奇妙な感覚が襲った。


 ふわ……

 体が浮かんだような感触。

 そして、艦が水平になり、止まった。

 下降が急に止まったのだ。目に見えない巨人に、潜水艦全体が掴まれたように。


「なぜ潜行を止めた?」

「何もやってません、勝手に艦が浮いて……海水の浮力が大きくなった、としか思えないんです。タンクは完全注水状態です。これだけ重くしても、沈まないのは尋常じゃない」

「推進機の力で潜行できるか」

「やってみます」


 重さで潜るのは無理なので、スクリューの力で潜ろうと試みる。

 うまくいった。すこしずつ深度計の数字が大きくなっていく。

 ごん、という衝撃。

 海底に到達したのだ。


「この感触は泥じゃありません、硬い海底です」

「まいったな、ネモ船長のカンが外れたか……」


 そこでソナー員が、不思議そうに口を挟んだ。


「あの……なんかソナーが変なんです。音が全く聞こえません。頭上の敵艦の音も、他の船の音も、海流とかの自然の音も、まったく……」

「故障か?」

「故障とは違います。遮断されたような感じなんです」


 艦長は、その現象に心当たりがあった。


「もしかして塩分濃度の問題じゃないか? ここは海底の盆地だ。盆地の中は塩分濃度が高い海水がたまっていて、そのせいで、音響的に閉ざされた状態になっている。船が途中で浮かんだのも、塩分濃度が高いせいだ」


 水中の音波はまっすぐ進むわけではなく、海水温や塩分濃度によって、プリズムの中のように屈折する。潜水艦乗りの間ではよく知られていることだ。音の屈折を利用することで敵の耳を騙したり、遠く離れた敵を発見する。

 死海のように極端に濃い塩水なら、音を完全に通さない領域を作り出すことも、あり得るかもしれない。


「なるほど。だが、一体どうして、ここだけ塩分が濃いんでしょう?」


 その答えも、艦長にはわかった。 


「昔……500万年も前……地中海は、いちど干上がったことがあるらしい。そのとき盆地の部分に、わずかに海水が残った。当然、塩分が凝縮したはずだ。そのあと、また地中海の水が増えて、我々の知る通りの地中海になったけど、いちど濃くなってしまった塩水は盆地に溜まり続け、混ざらなかった」

「なるほど。さすがネモ船長」

「塩分が濃いと重いから、他の海水と混ざらないんですね」

「……とか言ってる場合じゃないですよ! これは大発見だ。この盆地に潜ってしまえば敵に発見できないんだ。潜水艦の聖域です」

「確かに」

「圧倒的有利に戦える。これで少しは希望が見えてきたな」


 全員の表情が緩んで、笑みが浮かんだ。

 劣勢になる一方の、長い戦いだ。そこに現れた希望。笑顔になるのは当然だ。

 艦長も、もちろん笑顔だ。

 だが理由は違う。戦いに希望が見えたからじゃない。

 軍人でなく、ネモ船長になりたかったから。

 こんな海中の神秘に、めぐりあいたくて船乗りやっているんだから。


「みんな! この『聖域』の名前を決めよう!」

「名前?」

「我々が発見したんだ。名前くらいつける権利あるだろう」

「まったく……我々は軍人ですよ、探検隊じゃない。でも、良いですね」

「ネモ船長が発見したのだから、アトランティス盆地で」

「地中海にアトランティスがあるとか、おかしくありません!?」


 などと言い合っていたら、とつぜん、船全体が、グラリと大きく揺れた。


「な、なんだ……?」

「地震ではないな……? クジラがぶつかってきた?」

「こんなところにクジラはいないよ、これは……もっと大きくて、柔らかいものが……」

 

 船の外側から、ズルズル、ズルズル……という音が聞こえてくる。


「とても大きな、アメーバやナメクジのような柔らかい生き物が、船を包んでいる……」

「そんな生き物、聞いたことありませんよ艦長」


 全員、一転して緊迫した顔になる。

 ソナー員が叫んだ。


「声が聞こえました! 誰かが、潜水艦の外から呼びかけています!」

「なにっ!? 貸してくれ」


 艦長が、ソナー員のヘッドホンをもぎ取る。


『……みなさん はじめまして うえからきた ひとたち』


 確かに声が聞こえた。泡がゴボゴボと弾けるような、人間の声ではない、聴きとりづらい声。

 

「ドイツ語、だと……?」

『はじめまして きこえますか?』


 そうだ、潜水艦の外殻の向こうから聞こえてきたのは、確かにドイツ語だ。

 イタリアはナチス・ドイツと盟邦であるため、軍人の大半はドイツ語を身に着けているので理解できた。


「艦長! 俺にも聞かせてください!」

「待て、返事をする。水中電話を使う」


 水中電話は、超音波を発して水中で会話できる機械だ。

 スピーカーと水中電話をつないで、発令所の全員が、会話を聞けるようにした。 


「あなたは何者ですか? ドイツ軍潜水艦ですか? こちら、イタリア社会共和国海軍、潜水艦オルガンティーノ」

『わたし うえのこえにみみをすますもの です わたしたち なまえ うえのことばでは あらわせない だから あだな です わたし うえのせかいにきょうみがある かわりもの なんです』

「上の声? 上の世界……? どういう意味……?」


 艦長が首を傾げ、ハッと目を見張った。


「まさか。君たちは、この盆地に住んでいる生き物か? 潜水艦じゃないんだな?」

『はい わたしたち ここにすんでいます』

「高度な知能を持つ、軟体生物……? 人間とは違う海底文明……? 信じられない! すごい! すごいぞ!!」


 艦長は戸惑いつつも、身を震わせて喜んでいた。

 SF小説から飛び出してきたような、世紀の大発見だ。

 まさに、こんな大発見をやりたくて、船乗りを目指したのだ。


「ドイツ語を喋れるのは、誰から教わったんだ?」

『むかし みなさんとおなじ てつのふねが おちてきた そのなかのひとが ドイツご しゃべって おしえてくれた』

「なるほど、ドイツの潜水艦も来ていたのか。だが、こんな生き物がいるという報告は全く聞いてない……潜水艦は帰還できなかったのか?」

『せんすいかん こわれて うえにあがれなかった なかのひとは しんでしまった しぬまえに こうていへいか ばんざい といった』

「総統じゃなくて皇帝陛下ってことは、いまの戦争じゃない。前の世界大戦のドイツだね。

 ……忠勇なるドイツ軍人よ、安らかに眠りたまえ」


 艦長は目を閉じ、十字を切る。


「ドイツの乗組員は、上の世界に戻りたかったはずだ。助けることはできなかったのか?」

『できなかった かなしい わたしたち しおがすくないと いきられない うえのせかい いけない』

「塩分濃度が極端に高い、この盆地の中でしか生きられないのか。君たちのことをもっと知りたい。数は何人いるんだ? 食べ物は何を食べる? 家とか道具は作るのか? たのむ、教えてくれ!」


 早口で艦長が言う。


『わかりました おしえます

 かわりに うえのせかいのことも おしえてください

 とくにしりたいのは たたかい のことです』

「戦い? 戦争の事か?」

『わたしたち たたかい ない たべもの すむところ みんなでわけあう でも うえのひと たたかう なぜ? ひろいせかいにいるのに なぜ? きいても わからなかった』

「戦争がないだと……?」


 艦長は他の乗組員と顔を見合わせた。


「そんな生き物、あり得るか?」

「信じられません」


 人間は有史以前からずっと争いを続けてきた。

 野生動物だって、エサや繁殖のために争うはずだ。争いがない動物など、信じがたい。


「食べ物が足りなくなったら、どうする? 争わないのか」

『みんなで わかちあう』

「それでも足りなかったら? 全員が飢えるくらい、食べ物が無かったら?」

『いしをころがして いきのこるものを きめる うらがでるか おもてがでるか』

「そんな運試しで、生き残るやつを決めるのか? 納得して死んでいくのか?」

『しかたない みんなそうおもっている』

「誰かを恨んで、復讐することはないのか? たとえば事故なんかで、誰かが死んだら、殺したやつを殺し返してやりたいと、思わないのか」

『おもわない だれかがしんだら とてもかなしい そのかなしさを うたにする うたをきいたひと うたをかえす それでおしまい』

「歌だと……?」「そんなもので、死んだ人のことを諦められるのか?」「ありえない!」「だが、人間とは全然違う進化をたどってきた生き物なら……」


 乗組員たちが困惑の表情で、言葉を交わし合っている。

 黙って聞いていた艦長が、ふいに言った。


「この『聖域』は使わない。上官にも報告しない、秘密のままにする。みんなも喋っちゃダメだ」

「艦長! なぜですか!!」

「戦いに巻き込みたくないんだ。我々がこの『聖域』を使えば、こんな無垢な存在を戦争に巻き込む。我々と敵の間で争奪戦になれば、もっと巻き込む。できない」

「艦長……あなたの悪い癖が出ましたね、海底の神秘を守るためなら、国を裏切ってもいいのですか? こんな戦略上の重要拠点を報告しないなど、利敵行為だ!」


 副長が怒りの声を上げ、唾をはきかけるような表情で艦長をにらみつけた。


「……僕は、ネモ船長なんだ」

「間違ってる。ネモ船長はそんな牧歌的人物じゃない、イギリスに復讐するのが目的で、ノーチラス号はれっきとした戦闘用の船なんですよ?」

「僕が読んだのは、子供向けの版だったのさ」


 艦長と副長は、にらみあいを続ける。


「……私は、副長が正しいと思います!」

「俺もです。我々は祖国のために戦う軍人です!」

「感傷的になって任務を放棄するなど許されません!」


 部下たちは次々に、言葉を叩きつける。

 艦長は、反論しなかった。

 ただ、潜水艦の外にいる存在に、呼びかけた。


「歌を歌ってくれ。いつまでも戦争を続ける、その理由すらわからない、僕達のために」


 反応は素早かった。

 もはや水中電話など必要なかった。

 分厚いはずの鋼鉄の船殻を沁みとおって、歌声が響いてきた。


『どうして? どうしてあらそうの ひろいせかいが あるというのに

 どうして どうして うしなわれたいのちは とりもどせないのに

 どうして もっと しなせようとするの?

 しなせたら あいても しなせかえすのに

 いつまでも いつまでも せかいが しんだひとで うめつくされるまで』


 大きな声ではない。相変わらず聞き取りづらい発音だ。

 それなのに、怒鳴っていた乗組員たちはみんな黙り、耳を傾けてしまっていた。

 この生物たちは何万年もかけて、想いを歌にする技術を磨いてきたから。

 戦争の技術の代わりに、想いを伝える技術を。


『わたしたちがしらない おおきなせかいが なんまんばいのひとたちが いるのに

 わからない わからない 

 ただ とてもかなしい 

 ひとがしんだ そのかなしさを うけとめようとしない あなたたちが かなしい……』


 歌は唐突に終わった。

 副長は、激しい感情をこらえているような表情で、言葉を絞り出した。


「……きれいごとだ。うそっぱちだ。こいつらだって、実際に敵に攻撃されたら……戦争になったら……きっと怒りに燃えるに決まってるんだ……」

   

 艦長は、優しい口調で言う。


「君は、それを見たいのか? 殺し殺され、という人類の歴史に、汚染されるところが見たいのか?」

「ちくしょう……そんなもの……ちくしょう……見たいわけ、ないだろう!?」


 副長は涙声だった。

 艦長含め、全員が同じ気持ちだった。


 潜水艦オルガンティーノは浮上し、イギリス海軍に投降した。


 ☆


 そしていま、艦長は戦争犯罪人として、銃殺を待っている。

 過去の任務で撃沈した船の中に、病院船が混じっていたのだという。

 全く身に覚えのないことだが、虐殺行為の首謀者として死刑が決まった。

 死刑を待つ間、イタリア社会共和国は滅び、ナチス・ドイツも滅んだ。

 ちょうど処刑の日、新聞が差し入れられた。

 新型爆弾が日本に投下されて、ひとつの都市を跡形もなく焼き尽くした……という記事が載っていた。

 素晴らしい戦果だと書かれていた。


 埃の多い広場。かんかんと照り付ける太陽。


「いやだ………いやだ……あああ!」

 

 子供のように泣きわめく捕虜が、押さえつけられて連行されていく。

 頑丈そうな塀の向こうに隠れて、しばらくすると銃声がとどろいた。 


「次はお前の番だ。何か言い残すことは?」

 

 体格のいい軍人たちに、そう言われた。

 ろくに食べ物も食わせなかったくせに、今日だけは優しい表情だ。


「そうだな……別に何も……」

「家族に伝言でも、何でもいいんだぞ?」


 家族はとっくに死んでいる。

 詫びるべきは、守れなかった祖国と、あとは乗組員だが……

 意外と、後悔はないのだ。


 『聖域』にたどりついた日以来、ずっと彼らのことを考えているから。


 ……僕たちは、いつまでも争いを続けるが。

 ……君たちは海の底で、ずっと歌を歌い、ずっと綺麗だ。

 ……君たちを守れた、というだけで。


 体格のいい軍人に連れられ、銃殺の指定位置まで歩いていく。

 場所はすぐにわかる。塀に一か所、グチャグチャの血がこびりついているからだ。


「止まれ。目隠しはいるか?」

「いらない。空を見たい」


 背筋を伸ばし、目が覚めるほどの青空を見上げた。

 銃殺隊が目の前でライフルを構えるが、そんなもの、もう目に入っていない。


 自然と、唇から歌が漏れた。

 小さな声で、艦長は歌う。


「どうして どうして あらそうの ひろいせかいが あるというのに……」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る