第35話「クリアできない」
(残酷表現と暴力表現があります。ご注意ください)
俺は、はっきり覚えている。最初に「ゲーム・クリア」したのはオリンピックのマラソン日本代表だった。
貧しい中から這い上がって頂点に立ったその男は、顔をくしゃくしゃにして涙ぐみながら、テレビの生中継で、金メダルをカメラにかざし、叫んだ。
「ありがとう、ありがとう母さん、ありがとうみんな、俺、最高に幸せ……」
ぴろぴろっぴ、ぴっぴー。
間の抜けた、明るいが軽薄な電子音。大昔のゲーム機みたいな。
そんな音がして、男は消えた。
インタビュアーはしばらく凍りつき、「◯◯さん? ◯◯さん!?」と慌て始めた。
なにかの演出だろうと俺は思っていたし、テレビの前の多くの人間がそうだったろう。
だが、画面がお花畑に切り替わって「しばらくお待ちください」。
それきり、選手が姿をあらわすことはなかった。
種明かしはなかった。
次の日から、同様の出来事が次々に起こり始めた。
宝くじで一等を当てた人が、売り場でガッツポーズを決めた瞬間に「ぴろぴろっぴ、ぴっぴー」。
何度も口説いてフラれ続けてきた高嶺の花に、ようやくうなずいてもらえた男が「ぴろぴろっぴ、ぴっぴー」。
男も、女も、老いも若きも、世界のあちこちで、消えていった。
幸せの瞬間に、消えていった。
世界中の学者が議論した。ネットでも激論になったらしい。
「一体何が起こっているのだ?」
異星人による誘拐。タイムスリップ。神による空中携挙。
そんな馬鹿げた説が大マジメに唱えられた。何しろ科学者たちはお手上げだった。街中で自分の目で見てしまうことも珍しくない、捏造でも都市伝説でもあり得ない、科学では説明の付かない何かが、間違いなく起こっているのだ……
テレビの討論番組で消滅事件が話題になった時、ある若手の作家がこう言った。
『消えるときの音がヒントだ』『これは、ゲームのクリア音じゃないか?』
そう聞いた時、俺は膝を叩いた。俺が子供の頃のゲーム機で、「面」をクリアして次の面に行く時に、たしかにこんな音が出た。
討論番組は即座に紛糾した。
『彼らはゲームをクリアしたんだ。この現実というゲームを』
『幸せになったことがクリア条件だっていうのか? じゃあなんで、いままでずっと、消滅は起こらなかった?』
『いままではゲームにバグでもあったんじゃない? 逆にバグが出てクリアが超簡単になったとか?』
『そんな、まさか……』
だが誰一人、「ゲームをクリアした」以上に説得力のある説をひねり出せなかった。
もちろん検証する方法もない。検証どころか、人類社会自体の維持が難しくなっていった。
なにしろ生きていれば、たいていの人間は幸せを感じる。ネガティブな人間でも数年に一度くらいは、「ああ、幸せだなあ」と思うだろう。
だから、「クリア」が始まって1年で世界人口の半分が消え。
5年で、すべての人間が消えていた。
俺以外は。
幸せになれない、俺以外は。
真っ赤な真夏の夕日が街を、俺を照らしていた。
空気は停滞して熱気に満ちていた。
だが蝉の声もない。動物たちはクリアしてしまった。犬にも猫にも心は有って、幸せを感じたのだ。
大きなカバンをくくりつけた、旅行用自転車に乗って、俺は無人の市街地を探索していた。
歩道や車道を突き破って草が生えている。道路のあちこちに自動車が停めてある。フロントガラスにもボンネットも泥と埃で白く汚れている。ドライバーが消えてしまって、そのままだ。昔は自動車を拝借したこともあったが、いまはやめている。何年も放置しているのでガソリンやら何やらが劣化して、まともに走れないのだ。
車の中も、歩道も、道の脇のマンションもビルも、全くの無人……
聞こえてくるのは、俺の自転車が立てる音と、街路樹が風で揺れる音くらいだ。
俺は毎日、街を捜索している。
食べ物を得るためだが……それだけではない。
きっといるはずだ。俺以外にも……
クリアできない人間が……
それを探して、町から町へ転々としてきた。
もう10回は引っ越しをしている。この街にもいないのか……?
と、俺の耳が何かを捉えた。
ガシャン……ガシャン……
何かがぶつかる……いや、人為的な「ぶつける」音だ。
ペダルを力いっぱい踏み込んで、音のする方に急行した。
平凡な一軒家だ。玄関を見て、俺の心臓が高鳴った。
人間だ。女だ。
玄関先、手入れがされていないので雑草が密生している地面に立ち、長い髪を無造作に縛って、汚れたシャツ姿の女。
鉄パイプでドアを殴っている。
何をやっているのかはだいたい分かった。
スーパーやコンビニに行けば缶詰を盗める、食べ物は手に入る。
だが家が欲しいのだろう。軒下で眠ることに疲れてしまったのだろう。
「おい、そんなんじゃドアは壊せないぞ。やるなら窓だ」
俺が声をかけると、女がビクッ、と凍りついた。
振り向いたその顔は、俺の想像よりも美しい。
やつれて、汚れた髪の毛が額に張り付いてしまっているだけで、おとなしそうな美人だといえた。
美人は、俺の姿を見るや驚愕と恐怖の表情を浮かべる。
逃げようとして、逃げ道がないと気づいたのだろう。玄関の両脇は樹木と、丈の長い雑草が繁茂して、薮になっている。
「あああっ!」
絶叫し、棒を振りかざして襲いかかってきた。
だが、その動きは鈍い。疲れ果てている。
俺はステップを踏んで軽々と攻撃をかわした。
女は私の後ろに通りすぎてしまって、ふらりとつんのめり……
そのまま倒れた。
助け起こすと、気を失っている。
あまり体を洗えていないのか、汗の匂いが酷いし、顔も埃で茶色に汚れて、もとが色白だったのか色黒だったのかもわからない。
だが、表情から緊張が抜けた今、ますます美人に見える。
女の顔を見ているうちに、俺の心の中に確信が広がっていく。
……この女なら。この女なら。
俺は女を背負って自転車を押し、家に帰った。
家につく頃は日が落ちて、周囲は真っ暗になっていた。
もとは資産家の家だったのだろう、大きな一軒家だ。
鍵はもともとかかっていない。ドアを開けて電気のスイッチを入れる。
電圧が不安定なので照明がチラついているが、とりあえず家の中に蛍光灯の光が溢れる。
ソファに女を寝かせ、電気ケトルでお湯を沸かした。お湯をカップ麺に注ぐ。このカップ麺は、さんざん探して見つけ出した、まだ食えるやつだ。5年もたったのでカップ麺の大半は酸化して、具は枯れ葉みたいになっている。これは奇跡的に保存状態が良かったのだ。
ついでに冷蔵庫から麦茶も出す。
しばらく女の顔を見ていると、目を覚ました。
「……っ!」
すぐに目を見張り、立ち上がろうとするが、力が入らないらしくまた倒れこむ。
俺を仇のような目でにらみつけている。
やっぱりな、この敵意……きっと、この女なら……
「……そんなに怖がるなよ。疲れてるんだろう?」
「あっ……あっ……あなっ……」
声が上ずったり、喉がガラガラ鳴ったり。何年も口を利いていなくて、言葉の喋り方がわからない、そんな感じだった。
「怖がるなって」
俺は精一杯、優しそうな顔を作る。
「あなた誰? どうして残ってるの? なんでクリアしてないの?」
「簡単さ、幸せじゃないからさ。そんなことより、メシでも食わないか? 茶もある」
俺が麦茶とカップ麺を持ってくると、女の眼の色が変わった。
俺の手からひったくって、勢い良くがっつき始めた。
「まだ3分経ってな……」
あまりに美味そうに食べるので、俺は言葉を飲み込んだ。
これで幸せを感じて、消えるか?
そんな不安もあったので、女から目が離せない。じっと見つめた。
女はカップ麺を一気に掻き込んで、麦茶をあおる。
「……温かいメシが珍しいか?」
「と、当然でしょう。缶詰しか……どうして、この家は電気が使えるの?」
「太陽光発電を導入してる家を探したんだよ。それだけじゃ足りないから風力発電機も作って、バッテリーも増設した。エアコンは無理だが、他のものならだいたい動かせるよ」
「そ、そう、器用なのね……」
「どうってことない。体も洗ってきたらどうだ? ガスはないから水風呂だが、夏ならいいだろ?」
「……」
女は沈黙し、自分の体を見下ろした。その顔が恥ずかしそうに歪む。他人と出会って、体の汚さに改めて気づいたのだろう。
「どうして助けてくれるの?」
「とくに理由が必要か? そうだな……話し相手が欲しかったのかな。俺も何年も、人間に会って無くてね。家と電気があっても、一人ではな……」
この段階で逃げられては困る、俺は笑顔を作って言った。本心からかけ離れた言葉だが、ウソがばれないといいのだが……
「わかったわ……」
「サイズが違うかもしれないけど、替えの服もある。洗面台に置いてある」
「よ、用意がいいわね……」
何か下心があると思っているのだろう、女は猜疑心たっぷりに俺を睨んでいたが、体を洗えるという魅力に耐えられなかったのだろう。やがて小さく頭を下げた。
「……お風呂、お借りします」
「ああ。なんだったらずっと住んでもいいよ」
女が風呂場に消え、シャワーの音がシャアアと響いてくる。
……水道はまだ使えるけど、これもいつまでもつか……メンテナンスする人間がゼロだからな……
しばらくすると女が現れた。俺が用意していたジャージに着替えている。薄汚れていた顔と体を洗っただけで、別人のように生き生きとしている。目の輝きが違う。
「ありがとう……ございました」
心の中の黒いものが綺麗さっぱりなくなった、という晴れがましい笑顔を俺にむける。
だが次の瞬間、
「あっ……」
と声をあげて、一瞬にして表情に警戒が生まれ、恐れが生まれて、俺から目をそらす。
自分の今の行動が信じられない、という態度だ。
よほど不信感や恐怖があるのか?
俺に? ……いいやおそらく、男性に。
だからこそ、この女なら。
「なあ、話をしよう。ここに住んでいてもいいから、風呂もメシもあるから、話をしよう。あんたは今まで、どんな人生を送ってきた? いや、そこまで重い話はしなくてもいいや、好きなもの、嫌いなもの、趣味とか……」
「趣味なんて、無理でしょ。こんな世界じゃ」
「いいや、出来ないことはないね。料理を作ったり、歌ったり踊ったりが趣味なら一人でもできる。相手が欲しいんなら、俺がいる。人間が二人いれば、文化も趣味も成り立つ。だから、話を」
「そんな……趣味なんて。私は、ダメなの、そんなの楽しんじゃ、楽しめないの」
「どうしてだ? あんたが『クリアできない理由』と関係あるのか?」
女は口ごもった。
「話せないのか?」
目線を下に向け、一呼吸おいてから喋り始めた。
「憎い相手がいるの。復讐したい相手。
そいつをぶち殺すことだけをずっと考えてきた。
でも、そいつはゲーム・クリアで消えちゃった。
幸せになってしまったのよ。
この気持ちをどこにぶつけたらいいのかわからない。みんな消えていったわ。わたしの家族も、わたしを支えてくれた友達も、忘れて前向きに生きろと言った、無神経な男も……
でもわたしは消えることができなかった。あいつをズタズタにできないことが辛い、寝ても覚めても考え続けて、幸せなんて感じられない」
その言葉が俺の耳に、心に染み透っていく。
しぜんと頬が緩み、体が期待に震える。
この女なら。この女なら、俺を。
「ねえ、あなたも教えて。どうしてゲーム・クリアできなかったの?」
俺は笑顔を作って立ち上がった。いままでの笑顔とは違う、『ニタア』という感じの、下卑た笑いになっていたと思う。
そしてキッチンに置いてあった包丁を掴む。
彼女が俺を見て、表情を恐怖に硬直させる。
俺は、包丁を彼女に向けた。顔にゲスな笑いを貼り付けたまま。
声を甲高く裏返す。
「……俺はな、女を犯すのが好きだったんだよ。強そうで反抗的な女を、暴力で黙らせてヤるのが最高だったなあ。でも誰もいなくなっちまって、俺は幸せになれない。あと一人、あと一人でも女とヤれればなあ……あんた、いいところに現れてくれた」
彼女の顔は硬直していたが体はそうではなかった。素早く動き、俺の手から包丁を奪い取り、そのまま一瞬もためらわず、腰だめに包丁を構えて体当りしてきた。
腹に熱い痛み。
「てめえ!」
俺は女を睨みつけて叫び、そのまま後ろにひっくり返った。
頭を強打したはずだが、腹の痛みが激しすぎて何も感じない。
彼女は俺にまたがって、俺の腹から包丁を力任せに引きぬいた。この世で一番の激痛だと思っていたのに、まだ何倍にも激しくなった。腹が裂けて、何かが勢い良くこぼれ出るのを感じる。
「あああああっ! 死ね!」
甲高い叫びをあげて、彼女は包丁を俺の体に、何度も何度も突き立てた。
最初の2,3回は痛みもあったが、途中から感じなくなった。ただ体に力が入らない。視界が暗い。誰が電灯を消したんだろう。彼女の顔も見えない。見たいのに。
どんなに幸せなのか、見たいのに。
「ああっ……ああっ……死ね……死ね……」
ただ薄闇の中で彼女の声が聴こえる。
彼女の声に喜びの色が混じってきた。
「死ねっ、あははっ、死ね……」
明らかに、泣きながら笑っている。
はしゃいでいる。長年の鬱屈した気持ちが解放されたのだろう。
俺は安堵した。焼けるような痛みさえ和らぐほどに、報われた。
だが演技だってバレたらマズイからな。
憎々しげな表情を浮かべないと。
やっぱり、彼女が憎んでいるのは性犯罪者か。
彼女の大切な人か、あるいは彼女自身を犯した敵。
そいつを演じてやれば。思ったとおりだった。
「殺せる……やっと殺せる……死んだ……死んだ……やったっ……」
彼女の喜びの声が、闇の中で響く。
やがてもう一つの音が重なる。
ぴろぴろっぴ、ぴっぴー。
幾十億の人々を消し去った、「ゲーム・クリア」の音。
やった、これでいいんだ。
俺をかわりに殺して、幸せを感じてくれた。
これでやっと、ひとり救えた。
俺は、じつは強姦魔じゃない。
もっと悪い。人殺しなのだ。
優秀な技術者とおだてられ、夢中になって徹夜の連続。
居眠り運転で5人も死なせてしまった。
懲役10年の判決を受けたが、たった1年で刑務所を放り出されてしまった。
俺が懲役刑を受けてる最中にゲーム・クリアが始まってしまったから。
人間の数が減りすぎて刑務所を維持できなくなったからだ。
シャバに出た俺は、遺族を訪ねて歩いたが、みんなゲーム・クリアで消滅していた。
どうすればいい。どうすれば俺は罪を償える。
そればかり考えたので、俺は消えることが出来ず、ひとり世界に取り残された。
これで、俺の罪も……
しかし闇の中に響いた音はひとつだけ。
俺のぶんのゲーム・クリア音は、いつまで待っても聞こえてこない。
そうか、そうだよな。
たったひとり救ったくらいで、俺が許されるわけ無いよな。
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