新里千笠
早朝のランニングは、日課と呼べるほどはやっていないが、それでも月に二度はやっていた。
そう言われると、六錠も意外と怠け者だと思うだろうが、一度に走る距離が違う。その距離、およそ三〇〇キロ。しかもその距離を、およそ三時間で走りきる。時速百キロなんて、車並みの速度で走る。
走るときの格好は、決まってフード付きの上着を着て、フードを目深に被ってチャックも完全に閉める。
そうして走ってわき出る汗の総量は、汗だくなんて言葉では収まらない。人間の体は約六七割が水だというが、それを遙かに超えていそうな水量が、体から噴きだしていた。
この日もいつも通りの距離を、いつも通りの時間に終える。そうしてさっさと男子寮に戻るのがいつもだが、今回は違った。
ゴール地点である男子寮の前に、黒いフードで顔を隠した女の子が立っている。顔も姿もやや大きめの衣服で隠していたが、体の大きさが明らかに女子だった。
そんな誰ともわからない女の子が持っていた水筒を投げ渡され、中身を確認することなく口をつける。警戒していないわけではない。純粋に、彼女が敵でないとわかっているからである。
だってその子は今、六錠扉の支配下にあるのだから。
「お疲れ様でした、扉様」
「あぁ・・・・・・スフラ、協会から何か聞いているか」
「はい。一件、マスター・ジェオルジオより言付かっております」
「構わん、話せ」
「はい」
スフラと呼ばれたこの少女、真名はない。彼女の生い立ちは酷く複雑で、それでも簡単に説明しろと言われれば、名も与えられるまえに母親によって売り飛ばされ、戦士として育てられてきた。呼称材料としては、コードネームかナンバーかしか持っていない。
そんな彼女はギリシャの地で六錠に敗北し、解除ほぼ不可能な暗示魔術をかけられた。そして現在は、六錠と魔術協会とを繋ぐ伝令役。それが彼女である。
そんな現在の席を持つ彼女に、与えられた名はスフラ・イスタル。彼女の使用する
そんな彼女――スフラはポケットより一枚の紙切れを取り出すと、指先を
「扉様へ、魔術協会より。翌年の再封印において従者の存在は必要不可欠。しかし其方はそれをいらぬと吐き捨てた。そこで協会で協議した結果、其方に協会より魔術師を派遣することとなった。至急これと合流し、鍛え、翌年の再封印に備えよ・・・・・・以上です」
「おおよそ、予想通りだな」
これで昨日の訳のわからない女も、説明がついた。
「いかがなさいますか? 扉様」
「無論断る。俺に従者なんて必要ない。俺は一人で、再封印を受け持つ。そう協会に連絡しておけ」
「そうはいかないわ、六錠先輩。あなたには、私の師となっていただかなければなりません」
そう言って出てきたのは、黒い長髪を揺らす銀色の目を持った女子生徒。その服装からして魔術学園の生徒なのだろうが、今まで見たことがなかった。彼女ほどの魔力の持ち主なら、噂くらい立っていそうだが。
「おまえは」
訊くと、彼女は深く一礼した。そして、その手を地面に翳す。するとコンクリートの地面がねじれ、持ち上がり、彼女の手に吸い付くようにして浮かび上がった。
そしてそれは、一丁の長い身を持つ銃となる。その銃口には、鋭い刃がついていた。
「初めまして、六錠先輩。ギリシャ魔術協会より派遣されました、
「おまえか」
「はい。六錠先輩には、私のことを立派に鍛えていただきたく——」
「断る」
「! 今、なんて……」
「聞こえなかったのか? 断ると言ったんだ。俺に従者は必要ない。協会にはそう伝えて帰れ」
新里は一歩引く。実際今さっきスフラに言っていたことなど強がりだと思っていたし、実際は断ったりしないだろうと思っていた。しかし断ってきた。相手はこの魔術世界でも頂点の組織だというのに。
「そうはいかないと言ったはずです。そちらこそ聞こえなかったのですか?」
「聞こえてる。だが帰れ。おまえは必要ない」
「あなたは、魔術協会に逆らうというの?! 本気?! 頂点よ?! この世界で、魔術協会に逆らって生きていけるはずがない!」
「俺を脅すつもりか? 新里千笠」
一瞬で、距離を詰められる。手にしていた刀は粉砕され、喉に指先を突き付けられた。刃物ではないというのに、それ以上の鋭さを感じる。
「
喉から手が離れ、六錠は男子寮へと振り返る。今のやり取りで、新里への興味は完全に薄れていた。この程度の接近も防げないのかと、内心で厳しい評価である。
「っ! あの子がそんなに大事ですか?! あの弟子を従者にしたいのですか?! 無駄です、あの子は弱すぎる! あの子は脆すぎる! 私の方が、魔術的にも精神的にも、遥かに上です!」
六錠は脚を止めない。水筒をスフラに投げ渡すと、代わりにタオルを受け取った。
「二度も言わせるな。弁えろ。他人を評価するなんざ、てめぇには早すぎる」
その後、新里は姿を現さなかった。少なくとも今日は、だ。スフラを返した六錠は学園に登校し、授業を淡々とこなし、放課後を迎えた。
放課後は、
テストの内容は、魔術学園卒業試験過去問集より。魔術学園を卒業するために受ける最後の試験問題の中から、一年生のときに習う内容で出した。
正直ギリシャの場所もわかっていない古手川に期待はしていなかったのだが、意外にも魔術に関する知識は成績がよく、普通に平均点を越えていた。
「正直期待はしてなかったが……これならもう少し知識を詰めれば、問題なさそうだな」
「そう、ですか……よかったです」
「……どうした。あからさまに元気がないな」
「そんなこと——」
「あるだろう。ツッコんでほしいのか? 面倒な奴だ」
いつもなら褒めたら褒めただけ、調子に乗る人間だ。しかし乗ってこないということは、何かあったということなのだろう。まったく、わかりやすい人である。
「どうした」
「……昨日、新里さんという方が来られたんです。先輩の弟子をやめろと言われました。私の方が、先輩の弟子に相応しいと……」
「なんだそんなことか」
六錠の手が、古手川の頭を鷲掴む。そして強く、しかしながら優しく撫で回した。
「気にするな、あいつのことは。そう悲観的になる必要なんて毛頭ない」
「でも……先輩、その……従者という方が必要なんですよね?」
あの野郎……余計なことをペラペラと……!
「私にはよくわかりませんでしたが、とにかく従者が必要だと言っていました。先輩、もしその……早急な用でしたら、私のことは後回しで——」
「バカか」
撫でていた手が、今度は手刀として落とされる。ほんの少しの高さから落ちたというのに、意外とかなり痛かった。手加減はない。
「俺は従者なんてつけるつもりはないし、おまえ以外に弟子を取るつもりもない。おまえは俺の一番弟子で、俺の唯一の弟子だ。胸を張れ」
「先輩……」
「ったく……いちいち言わせるな、恥ずかしい。そら、次の問題行くぞ。全問正解する気で挑め。平均点取れなかったら叩くからな」
「はい! 師匠!」
だから、統一しろっての。
その後は四年分の問題集をやったが、古手川は平均点以上を叩きだし、珍しく六錠を感心させた。
だが一年分でも一時間半かかる問題を四つもやったので時間がかかり、最終下校時刻を大きく過ぎてしまった。教師が来る前にと、急いで学園を出る。
時間はすでに七時を回っている。夏の日照時間が長いとはいえ、さすがに暗い。学園を囲うフェンスについた街灯が、一斉に点灯した。
「師匠! 今日もありがとうございました!」
「あぁ。ってかその……」
「はい?」
「……悪かった。俺のせいで、余計な心配をさせたな」
驚いた。六錠がまさか、謝ってくるだなんて思ってもみなかった。想像できなさ過ぎて、思わず対応に困る。
「い、いいのです! 先輩は色々ありますから、仕方ないですよ」
「多分だが、あの調子だとあいつも諦めないだろう。だが加減する必要はない。堂々と、力強く打ち負かせ」
「いいのですか……? 従者という人がいないと、先輩にすごい負担がかかると聞いたのですが……」
「いらない心配だ。おまえの師匠を信じろ」
「……はい。それでは先輩、また明日です!」
「あぁ」
女子寮へと歩いていく古手川を、一応見送る。こうして誰かを見送ったのは、実に久しぶりだった。何年ぶりだろう、わからない。
——じゃあね! 扉!
あぁ。
昔もそう返した気がする。少年なんだから、もっと愛想よくできないものだろうかと、今現在でも思うところだが、それでもいい。あいつとはそういう仲だった。それだけだ。
なんだか懐かしいことを思い出した。今日は少しだけ、いい夢が見られる気がする。そんな、なんの根拠もないことを思って、六錠は男子寮へと戻るのだった。
そんな六錠と別れ、女子寮へと帰宅した古手川。しかしその玄関前で、古手川は新里と対峙していた。
「引いてもらえないのかしら、古手川姫子。あなたがいると、とても邪魔なのだけれど」
——堂々と、力強く打ち負かせ
「申し訳ありません、新里さん。その件につきましては先輩と話し合い、許可をいただきました。私は先輩のお側で強くなりたい。先輩もそれを許してくださっている。申し訳ありませんが、お断りさせていただきます」
「そう……じゃあ、いいのね?」
コンクリートの壁に手を突っ込み、中から刀を引き抜く。そして思い切り振り下ろし、古手川の胸部から腹部にかけてを浅く斬り裂いた。
衣服がはだけ、さらに傷口から少しだが血が流れ出る。痛さと恥ずかしさと恐怖と、それらの感情が混ざりに混ざり、古手川はその場にうずくまった。うずくまることしか、できなかった。
「その程度の実力であの人に——魔術書の鍵に近付かないで。どうせあなただって、いつかは魔術書を求めてあの人を襲うのよ。そう、いつかはね」
それだけ言い残して、新里は自分の部屋へと戻っていった。
冷たい風が、その場で吹く。すぐ側に自分の部屋があるのに、古手川はまるで動けなかった。人生で初めて、刀傷を付けられた時だった。
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