第16話式子内親王の時代(1)

式子内親王は、久安五年(1149)の、後白河天皇の皇女として誕生した。

平治五年(1159)、第三一代の賀茂の斎院に卜定され、嘉応元年(1169)に退下。

尚、没年は建仁元年(1201)、53年

間の生涯であった。

母は藤原李成女 茂子、同腹に亮子内親王、好子内親王、守覚法親王、以仁王、休子内親王がいる。


この53年の生涯のうち、前半は保元・平治の乱を経て、武門の平家が全盛を極め、壇ノ浦に滅亡するまでに重なる。

晩年の約15年は平家に替わって源氏が鎌倉に幕府を開き、武家社会の体制を築き上げていく時期と重なる。


当然、旧来の政治の中心たる天皇家、朝廷は時勢に流され求心力、実権を失いつつある。

式子内親王は、そのような激動の社会背景の中で、その生涯を過ごされた。


尚、賀茂の斎院を病気により辞した二年後の嘉応三年三月、妹の休子内親王が十五歳の若さで急逝。同じ日に、式子の後任の斎院僐子が十三歳で夭折。

弟の以仁王は治承四年五月、平家に対し叛乱を起こすも失敗、三井寺に逃れた後、さらに奈良に脱出する途次、山城国加幡河原で流矢に当たり死亡。

この事件の後、式子は夏をさわやかに詠むことは、なくなったと言われている。


また、治承三年の七月、全盛を極める平家の中で、唯一の良心と言われた平重盛が亡くなり、後白河と清盛の対立はますます激しくなる。

結果として、式子の実父後白河は鳥羽に幽閉され越年。

全国的飢饉の発生する中においても、抗争は続き、高倉天皇ご退位後の御幸はじめが、平家の守護社である厳島神社参詣という、旧例を破ったもの。

京の都の鎮護をもって自認する比叡山山門においても、清盛派と後白河派に分かれて抗争を繰り返す。


そんな身内を含めた不穏極まりない時代を、式子内親王様は過ごされている。


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