非正規的生活の1 嘘とかしゆか似の娘 1-2
何が大丈夫なのだろう。彼女持ちと彼氏持ちなら、何も間違いが起きないとでも言いたげなその言葉に、僕は何かしらの嫌気を感じる。
「とりあえず今日は帰ろうよ」
「そうですね」
僕の提案を受け入れてYはにこっと笑った。色白な丸顔、流れる髪、一重なんだか奥二重なんだかわからないような目を優しく歪めるこの子の笑顔は、何ともいろんな男の守備範囲に入り込んでくるような、ストライクゾーンすれすれに斬り込んでくるスライダーボールに近い切れ味を持っていたのだった。
車は国道を走り、やがてそこから少し離れたところの丘の上にあるYの家に近づいた。Yの家は一戸建てで、閑静な住宅街の一角に座している。この街が80年代以降発展する際にベッドタウンとして育った区域の一つであり、そこはK区と呼ばれていた。
家の前に車を止めると、僕は車のハッチを開いてYの自転車を下ろす。Yはほんとうにありがとうございます、と言いながら自転車を受け取った。
「やっぱりちょっと色々壊れ気味だからさ、どこかで直したらいいよ。俺がやってもいいけど」
「いやいや、やっぱりそれは悪いですから」
Yは遠慮がちに言った。小さく手を左右に振って拒絶の意を示す。そう?と僕は呟いて、Yに自転車を手渡すと、運転席に戻ってシートベルトを閉める。
「じゃあ、また職場でね」
「はい、また」
Yはまた、あの笑顔で僕に小さく会釈してくれる。僕は軽くクラクションを鳴らすと、そのまま車をUターンさせて、元来た坂道を下っていったのだった。
帰路、車を走らせながら、僕はYの姿を思い出していた。
伸びやかな手足の印象は薄く、しかし全く肉感がないというわけではない。ジーンズ越しにでもその程よさ加減はよくわかる。スウェット越しの胸に量感があるわけではなかったが、年齢相応の瑞々しさが首元から漂ってきていた。
それに、何といっても唇である。唇には薄く口紅が引かれていたが、外側にめくれているわけではなく、薄く整った、独立した生き物のような唇だった。今までにキスしたことがないような、味わってみたい形の、きっと心地いい感触の唇。
日差しは傾き、夕焼けに近づいていた。国道を走って、環状通と呼ばれる市道バイパスを越える頃に、僕ははっきりとYに欲情している自分を自覚した。しかし、それは抑えておくべきだろう、とも思った。何よりYには彼氏がいて、僕にも彼女がいるのだから。
非常勤の労働を二つ掛け持ちして稼ぐ日々を繰り返しながら、僕にはそれなりの生活がある。早朝から昼前までのコンビニ早番と、昼から夜までのディスカウントストアの長時間。それなりに収入は得るが、別に将来は保障されているわけではない。
僕の人生がどれだけ紆余曲折に満ちていて、屈折しているかは、のちのち語られることになるだろう。今はそれに大きく振れる必要はないかもしれない。僕が何よりもここで語って残そうとしているのは、あのかしゆか似の女子大生Yと僕がどれだけ愚かで不誠実であったか、その記憶であるのだから。
それでも少しだけ語るとするのであれば、非常勤的生活は、文字通り常勤の手が回らないところを補い、下働きをすることがメインである。大きな生活的保障=福利厚生がない代わりに、時間と言う最大の価値を活用することができる。シフトは常勤のそれよりも融通が利き、やりたいことに注ぐことができる。
気楽と言えば気楽だ―建前は。実際、仕事は時に常勤のそれと変わらない内容の時もある。特にディスカウントストアは人手が少ない。いつでも常勤の不在を埋めるような仕事をする可能性がある。
猛烈なクレームに曝されてしまうときもある。がめつい値下げに食い下がられることもある。わからない内容の問い合わせにも決して値を上げず、客には笑顔でサービスし続けなければならない。ディスカウントストアは常に緊張と譲歩との連続だ。自尊心や不満を胸の中に押し込みながら、レジを打っては接客する日々。そして、絶え間ない店内清掃、在庫整理…。
僕やYはそうした仕事を続けながら、休憩室で少しずつ仲良くなった。
Yはもうこちらに自分が彼氏持ちであることを伝えているから、遠慮なく僕に彼氏へのプレゼントの話をする。そういえばその時、季節はクリスマスに近かった。
「Tさぁん、このニット見てくださいよ、どう思います?」
そう言いながらYはブラウンのニットが写された画像を携帯に映し出して見せる。無難な形のニットだから、誰にでも似合うだろう。
「いいんじゃないの。直接彼氏に聞けばいいじゃん」
「えー。それじゃなんか意味ないもん」
Yはそう笑って寂しげな顔をする。
「何かね、彼氏は何でもよさそうなの。あまりこっちのこと構ってくれないんだ」
「何でだ。付き合ってるんだからそういうのしっかり話せばいいじゃんか」
「んー…あんまそんな感じじゃないって言うか…」
「どんな感じなの」
「んー、最近ちょっとね」
言外に倦怠期だ、と仄めかすYの顔に、僕は付け入りそうになるのをグッとこらえた。ここは一応職場だからまだ我慢しておくべきだし、何より、そういう女性のズルさを、僕はあまり好きではなかった。
だから敢えて、前に振られた約束を引っ張り出してみたのである。
「じゃあさ、今度この前いったメシでも食いに行って話さん?車出すから」
「えっ」
Yの表情が一瞬凍った。まるで餌を差し出された野良猫のような表情だった。そう僕には思えた。
「えーと…そうですねー、考えときます」
ほら、やっぱり。その場しのぎで調子の良いことを言っておきながら、肝心のところでは一歩踏み出す大人の勇気はないわけだ。思いながら、僕はちょっと不機嫌になって見せた。
「あー、行きたくないならいいから。全然。」
「いや、そういうことじゃないんですけどー」
明らかに困ったような表情のYに意地悪な微笑を作って見せ、僕は席を立つ。
「冗談冗談。まあ気が向いたらね。」
「はい」
そこで話は終わった。僕は休憩室を出ながら、Yの側に別の男性が寄ってきて話しかけるのを見ていた。それを見て何か心の中に靄が広がるのを感じた。
こいつはビッチだな、間違いない。
今にして思えば、僕はこのときどこかでYのことを嫌っていたのだと思う。男好きする容姿で、彼氏持ちでありながら、いろんな男に声をかけられるタイプの女性は、間違いなく男関係が派手なはずだ。そう思いながら、僕はそうした女性にどうしてか引っかかることの多い自分を自嘲していた。
その日の夜、Yからメッセージが携帯に届いていた。
「お疲れ様です(*´▽`*)お食事の件なんですけど…やっぱり彼氏に悪いから今回はキャンセルにさせてください。Tさんも彼女さんに悪いですよね?…やっぱり、彼氏いるのに他の男性と食事に行くのはアウトですよね?」
読んだ瞬間、一瞬にしてこの女は自己正当化がうまい、という印象を受ける。こういうグダグダを何重にもこしらえてこちらの動きを探る趣だ。僕はため息を一つついて、ノリで軽々しく言うんじゃねえよ、という気持ちになりながら、メッセージを返信した。
「おつかれー(´・ω・`) それでいいよー。まあ食事だけだから別にいいかと思ったんだけど。まあ気が向いたらそのうちね」
一体お互い彼氏彼女がいるから大丈夫、と言ったあの時の会話は何だったんだ。そういう矛盾点、ちょっと細かい論理的背理に苛立ちながら、僕は夜の町の中に自転車をこぎ出した。ビッチはクソだな、と思いながら。そう言えば、そろそろ彼女と会う時期だ。あんなビッチのことは忘れてしまおう、職場では今まで通り、必要以上に近寄らないようにしよう、と思いながら。
そこまでは、何のことはない出来事だったのだ。
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