非正規的生活 

@NordicNomad

非正規的生活の1 嘘とかしゆか似の娘 1-1

※この物語はフィクションです



「もう。別れようか」

 そう言った時、当時の遠距離恋愛相手のMの顔から、さっと血の気が引いたのを覚えている。

「え?…え」

 Mは車の助手席でどのような問いかけにもなっていない声を発しながら僕を見た。まるで僕のことを信じられない、とでも言っているようだ。

「なんていうかさ、こっちに来てくれるのはありがたいんだけれど、もう費用がどうのこうの、って言う話になってきて、何か疲れたわ。ちょっともう会うのはやめたい。」

 Mは納得できていないようだったが、自分に起きた何かしらの、ことの重大さにはようやく自覚を覚えたらしい。呼気が荒くなってきているのがわかる。

「なんで?…なんで」

 Mの台詞に僕は何も答えられない。むしろ答えるつもりはない。だってすでに「理由」は話してしまったのである。後はそこに後付けして、相手をどうにかして納得させていくしかない。もう口火は切られたのだから。

「なんか、こっちばかり北海道に来ていて、そっちがこっちに来ないのはずるいよ、たまには来てよ、って言ってたじゃん、M。最初付き合う時にさ、俺らは収入少ないから、それはお互いの口座つくろうかっていって作る話したよね。で、これから先そういうの進めていこうってときにさ、あの電話はないよ。あれで何かやっていけないかもって」

「あの電話って何」

 気づいてくれていないのか、それともあえてこちらに話させようとしているのか、どちらにしてもずるいな、と思いながら、僕は話を続ける。

「あのね、Mが通信大学の課題やってたときにさ、俺がここをこうしたら、こうならどうなの?って言ったとき、M怒ったよね。それで俺が言い返したしょ、俺とは違って時間も学籍も幾らか残ってるのになんで課題もっとやらないの、そういうの勿体無いよ、って。そしたらMもっと怒ったじゃん」

「だってそういう言い方はないと思ったから」

「わかるよ、わかるけどさ、でも俺がこうしたら、って勧めてもM全然話聞かないじゃん。」

「あたしにはあたしの理由があるよ。なんでそういう言い方するの、って話でしょ。そっちだってお金になるかならないかわからないようなネットライティングの記事、ちょっと炎上したくらいで諦めようとしてたでしょ。やるならもっと本気でやりなよ。そして東京いこうよ。」

 東京、という、当時の僕たちにとってはかなり遠い地域のことについて話が及び、また触れられたくない失敗をわしづかみにされて、僕は自分の気持ちに硬い幕がすうっと下りてくるのを感じた。

「そんな簡単にいけるわけないだろ…」

 僕は口ごもる。

「ほら、ずるいよ。ずっこいよ。いつもそうだよT君は。なんで自分の都合の悪いことになるとそうやって話さなくなるの。」

「そんな、経済的事情の話はしたじゃんか。どうしてわかってくれないの」

 どうしてわかってくれないの、と言うセリフを吐いたのはこれで人生何度目だろう。そう思いながら、僕は涙目になっているMを見ず、まっすぐに車を走らせた。

 やがて車は駅に着いた。Mはなかなか降りようとしなかった。

「やだよぉ…」

 20代真ん中になるMは、丸っこくて、昔は僕も可愛いと思えた顔を悲しみにゆがませてこっちに拒否の言葉を向ける。僕はMに降りるように促して、自分も車を降りようとした。観念したようなのか、Mは泣きだしつつ、声を振り絞った。

 「キスして」

 Mは涙声で僕に哀願した。僕は無言でMの顔に自分の顔を近づけた。Mは愛おしそうな素振りで僕の唇に吸いついた。舌がせわしなく動くMの、クセのあるそのキスを、僕はやはり最後まで好きになれなかった。春先の空気は少しだけまだ寒く、日光の角度も深かった。

 

「相談にのってくれませんか」と言ってきたのはYだった。

 Yは女子大生である。サラサラとした肩より少し長めの黒っぽい髪をまとめて、細い目に眼鏡をかけた、全体的にはやせ形の、22歳。S市の隣町、E市と言うところの私立大学で、栄養関係の学科に通っているらしい。

 YはPerfumeのかしゆかに似ていた。あの、どちらかというと派手さはない感じだが、クラスにいれば男子十人中必ず一人か二人はその子を好きになるという風貌の、地味目の人気女子と言った感じ。

 Yとは職場のディスカウントストアで知り合った。とは言っても、お互い非正規雇用、アルバイトの身である。まだ大学生のYに比べ、僕は若干給与待遇が良いとはいえもうロートルもロートルのアラサーであり、立場的には周りの人に引け目を覚えている。長所と言えば筋トレを趣味にしているから力仕事が得意で、隠れて外国語関係の資格を取って独立しようとしている、というくらいのものでしかない。

 僕もまたYを気に入っていた。Yは男性の「その気」を掻き立てるような不思議な雰囲気を持っていて、彼女を気に入っている男性は職場でも多数いるようだった。なんというか、男性の支配欲を掻き立てるような、線の細さがあった。その一方でわりと声は低めで、そのギャップがまた、男性陣にはたまらないようであった。


 Yの相談とは、大学にある自分の自転車が壊れてしまったので、運ぶのを助けてほしい、というものであった。もともと気に入っていた女性にそんなことを言われて悪い気がする男性はほとんどいないはずだし、車で待ち合わせて自転車をYの家に運ぶ、と言うのは何やら軽いデートのようで心が弾んだ。

 僕はその相談を快諾し、車でYの大学最寄りの駅まで走った。最寄り駅までは数十キロある。駅で車を降りた。季節はもう秋で、僕はお気に入りの黒のミリタリージャケットを羽織っていた。Yは僕を見ると、自転車を押しながら、小走りに近寄ってくる。あらかわいい、と思いながら、僕は車のハッチを開けた。

「すいません、わざわざ来てもらっちゃって。入ります?」

「ああ、大丈夫だわ。そういうの入れたことあるし。」

 僕は自分の車がわりと大型だった幸運を少しだけ喜んだ。自転車を積むと、僕らはYの家まで車を走らせることにした。

「Tさんありがとうございます。あの、今度なんかでお礼しますね。」

「あー、いいよ。適当で」

「ダメです。ちゃんと何かでお礼します。」

Yは白い顔を少し紅潮させて言った。そうすると彼女はますますあのアイドルに似てくるのであった。

「じゃあそのうちメシでも」僕はさらりと言った。「E市においしいピザ屋あるらしいじゃん。あそこに行こうよ。この建物の側当たりの。」

「あ、いいですねー、そこ行きましょうか」

「うんうん」

僕は軽い笑顔でそう言った。ふと、Yが思い出したかのように聞いてきた。

「あ、でも、Tさん。彼女さんとか大丈夫なんですか?」

Yは手を太ももの上でパッと開いた。大丈夫?の意がボディーランゲージに出たようだった。指が案外細くて長いのを見て、僕は少し自分の胸のあたりの血流が早まるのを感じた。

「あー…うん、いるけどまあ、食事ならいいっしょ。ていうかそっちはどうなの?」

聞いた僕に、Yは心持ちはにかんで返す。

「あ、私も彼氏いるんで、大丈夫ですよ」


                                    続く






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