第17話 永遠の誓い③

 あれから、僕と彩愛は二言三言だけ言葉を交わして、すぐに解散した。

 家に帰って、部屋にひとりきりになって。

 じっとしていると、考えこみそうになる。様々な苦悩が一挙に押し寄せる……が、僕はそれらを、ひとまず横に置いた。


 どうせ、逃げ道なんてないんだ。そんなふうに開き直って。

 僕はおそらと彩愛、それぞれにチャットを送った。

 時間は明日の朝早く、場所は学校の空き教室。三人で集まって話がしたいと、端的にそれだけを伝えた。

 彩愛からはすぐに、了承の旨を伝える返信があった。おそらのほうは、返信はおろか、既読にもならなかった。……ブロックされてないだけマシか。


 僕はスマホを傍らに放り投げると、目を閉じて、ベッドの上に仰向けに倒れこんだ。

 思考をめぐらせる。

 これからのことについて。

 これまでのことについて。

 おそらのこと……彩愛のこと……

 一晩じゅう。考えて考えて、考え抜いて。

 そして僕は――ひとつの誓いを立てた。


 スマホを確認すると、午前六時を過ぎていた。相変わらずおそらからの返信はなかったが、既読だけはついていた。



     ♥ ♥ ♥



 約束の時間より三十分早く到着した。

 扉を開ける。

 そこには、予想外の先客がいた。


 教室の隅のほう、壁にもたれかかるようにして、おそらが立っている。

 おそらはちらりと僕を一瞥すると、すぐに視線を逸らした。

 いつにも増して、無表情に見えた。いつも以上に感情が読み取れない。

 僕はおそるおそる、おそらに近寄った。


「あの、おそら……」

「…………」

「昨日はその、なんていうか……ごめん」

「…………」

「それと、来てくれてありがとう。来てくれないかと思った」

「…………」

「それで……えっと、話があるんだけど、」

「聞きたくない」


 小さな声で、けれどハッキリと言って、おそらが僕を見る。


「比呂弥の口からは、なにも聞きたくない」


 どこまでも虚ろな表情で、まっすぐな瞳で、僕を射抜く。表情から感情が読み取れなかったとしても、推察することはできる。

 おそらは、怒っているのだ。当然だ。彼氏と友達のあんな現場を目撃して、なにも感じないわけがない。


「許してもらえるとは、思ってないけど……話だけでも、聞いてほしいんだ」

「だから、比呂弥からは聞きたくないの」


 ぴしゃりと切り捨てるように言って、顔をそむける。


「あの子は?」

「……彩愛も来るよ。たぶんもうすぐ」


 あの子、って……。僕に対してだけじゃなく、彩愛に対しても相当怒ってるみたいだ。無理もない。信じていた友達に裏切られたんだから。


「話は、全員そろってから」


 僕はこれ以上おそらを刺激したくなくて、俯いて黙りこんだ。

 沈黙が続く。まだ登校している生徒が少ないのだろう、喧騒はほとんど聞こえない。

 そうして、ただ、時間だけが過ぎていく……。


 足音が聞こえてスマホを確認すると、待ち合わせの時間ちょうどだった。教室の扉が、開いた。

 向けられた二人分の視線を受け止めて、彩愛は顔を綻ばせた。

 …………え?

 彩愛の口元には、ハッキリと笑みが浮かんでいた。


「馬鹿な人たち」


 僕へ、おそらへ、順に目を向けて。

 嘲るように、彩愛は笑う。


「本当、哀れ。ふふふっ」

「どういう意味」


 おそらの問いには応えず、彩愛は僕を見た。


「…………あや、め?」

「馴れ馴れしく呼ばないで」


 彩愛の口から発せられたとは思えない、鋭くて冷たい声だった。

 僕は突然の出来事に呆気にとられて、声を出すこともままならない。


「まだ理解してないようだから、教えてあげます。先輩は、騙されてたんですよ」

「……誰に?」

「私です」

「なにを、言って……」


 ぐい、と顔を近づけて。その澄みきった二つの瞳で。至近距離から、僕の目を覗きこんで。

 蕩けるような甘い声で、そっと囁いた。


「だって私……先輩のこと、本当はこれっぽっちも好きじゃないですから♥」


 耳を疑うような、彩愛の言葉。

 理解できない。なにが、どうなってる?

 彩愛は僕から距離を取ると、再び底冷えするような声で言った。


「だから金輪際、私に話しかけないでください」

「…………」


 僕が言葉を発せずにいるあいだに、彩愛は今度はおそらに向き直った。


「とまぁ、そういうわけだから」

「なにが、そういうわけなの」

「わからない?」

「全然わからない」


 おそらは無表情のまま、まっすぐに彩愛を見つめて。


「つまりね、おそら。今回のことは、ちょっとした冗談みたいなものなの」


 彩愛も臆することなく、おそらを見つめ返した。


「先輩とは、ただの遊び。おそらに彼氏ができたって聞いたから、どんな人なのかなって思って、ちょっとちょっかいかけてみただけ。それに、彼氏を寝取られたおそらがどんな顔するのか、見てみたくて」

「どうだった?」

「わかんないよ。だっておそら、無表情なんだもん」

「なんで今になって、言うの。関係がバレたから?」


「もちろんそれもあるけど、いい加減ふたりともかわいそうに思えてきたから、そろそろネタバラシしてあげてもいいかなって。あぁそれと、先輩で遊ぶのも飽きてきたところだったから、ちょうどいいタイミングだったの。それにしてもおそら、実際にエッチしてるとこ見るまで関係に気づかなかったなんて、いくらなんでも頭の中お花畑すぎるよ? もうちょっと警戒心持ったほうがいいよ?」


「……だって、彩愛のこと、信じてたから」

「ありがと。うれしいな」

「比呂弥のこと、弄んでたの?」


「もう、人聞き悪いなぁ。たしかに私から誘ったのは事実だけど、先輩だって悪いんだからね? おそらっていう素敵な彼女がいるのに、ちょっと誘惑しただけでコロっとなびいちゃうんだもん。いくら私が美人だからって、節操なさすぎだと思わない?」


 おそらは心の内を見透かそうとするように、じっと彩愛の顔を見つめている。


「――とはいえ、私はお似合いだと思うけどな、おそらと先輩。ほら、騙されてた者同士、傷を舐めあったらいいよ。だからおそらも、いつまでも怒ってないでさ? 浮気の一回や二回、広い心で許してあげたら?」

「もう、黙って」


 静かな、けれど有無を言わせない力強い声に、彩愛は視線を外して顔を俯けた。

 おそらは、そして――まっすぐに僕を見あげた。


「比呂弥」


 今すぐ逃げ出したい、そんな気持ちをぐっとこらえて、おそらの目を見つめ返す。


「詳しいことはなにも聞かない。そんなの、聞きたくないから」

「……うん」

「だけど、ひとつだけ、お願い」


 おそらは言う。


「誓って」


 ただまっすぐに僕の目を見て、どこか懇願するように。


「もう二度と浮気はしないって。そしたら、比呂弥のこと、許してあげられると思う」

「…………」

「だから、比呂弥……お願い」

「…………僕は、」


 そうだ。

 僕は誓った。

 心はもう、ここに来る前から決めている。

 あとはただ、その想いを貫き通すだけでいい。

 迷うな。言え。

 ――信じろ。


「おそら……僕は……」


 そして僕は、誓いの言葉を口にした。



     ♥ ♥ ♥



 私はじっと顔を俯けたまま、すべてが終わる瞬間を待っていた。


「もう二度と浮気はしないって。そしたら、比呂弥のこと、許してあげられると思う」


 顔はあげない。あげられない。おそらの顔も、比呂弥先輩の顔も、最早まともに見ることができない。大好きな友達――友達だった女の子が私に向ける、その眼差しに。これ以上は耐えられそうにない。

 ひとつ残らず、ぜんぶがぜんぶ自業自得。わかっていても、苦しいものは苦しくて。それでも今は、じっと耐えるしかない。


「だから、比呂弥……お願い」


 だって私は。私の使命は。


「…………僕は、」


 ふたりを、元の健全な恋人同士に戻すこと。

 それが、大切な友達を裏切って……すべてを壊してしまった、どうしようもなくクズな私にできる、せめてもの罪滅ぼしだと思うから。


「おそら……僕は……」


 そして彼は、誓いの言葉を――


「僕はもう二度と、浮気をしない。誓うよ」


 ――口にした。

 わかってた。

 私は二番目の女。こうなることは最初からわかってた。

 わかってたはずなのに、こんなにも胸が苦しいのは、きっと心のどこかで期待していたから。

 先輩がおそらじゃなくて、私を選んでくれる、そんな未来を。

 本当にどうしようもない。救いようがない。骨の髄まで腐ってる。


「ほんとう?」

「うん、約束する」


 視界がぼやける。

 目の前の景色が一瞬のうちにぐちゃぐちゃに歪む。

 聞きたくない。

 嫌。

 聞きたくない、聞きたくない、聞きたくない!

 熱いものが頬を伝っていく。


「おそらの大切な友達に、おそらと同じ思いを味わわせることだけは、絶対にしないって。約束する」


 嫌!

 嫌!

 やっぱり私っ、比呂弥先輩のこと、諦められな…………い?


「そういうわけだから……ごめん、おそら」


 え……?

 なに……? ごめん、って……なんで……?


「僕と別れてほしい」


 …………。


「やっぱり。そうだと思った」

「……気づいてた、の?」

「なんとなく。幼なじみ、だから」


 先輩とおそらが、別れる……?


 ――僕はもう二度と、浮気をしない。誓うよ


 だったら、その言葉は。


「どうしても?」

「ごめん。やっぱり、僕は。僕が好きなのは……」


 私は考える前に、顔をあげていた。

 ――比呂弥先輩と、目が合った。



     ♥ ♥ ♥



「彩愛、だから」


 僕はまっすぐに彩愛を見つめながら、想いを言葉にした。


「僕みたいなクズの言葉、もう信用してもらえないかもしれないけど……」


 彩愛は涙に濡れた顔で、どこかぼんやりと僕を見つめている。


「それでも、誓うよ。僕はこれから先の人生で、もう二度と浮気をしない。彩愛を悲しませるようなことは絶対にしない。だから――佳月彩愛さん」


 僕は一歩、踏み出して。そして、言った。


「正式に、僕と付き合ってください」

「…………せん、ぱい」


 彩愛はぽつりと、涙声で言って。

 それから、僕のもとへ駆け寄ってくる。


「……好きですっ。好きですっ、比呂弥せんぱい……っ!」


 僕はその細い背中を、そっと抱きしめた。

 温かいものが、胸の内側に広がっていく。

 これでよかった。

 心の底から、そう思える。


「よかったね、彩愛」


 その声に。

 彩愛は僕の胸から顔をあげ、振り向いた。


「おそら……」


 つられるように、僕もおそらの顔を見て。

 そして、悟った。


「……彩愛は」


 僕はずっと、おそらは僕たちに対して怒ってるんだって、そう思ってた。

 だけど、違ったんだ。

 …………おそらは。


「彩愛だけは、比呂弥の言葉を信じてあげて?」


 おそらはいつもの無表情のまま。

 両の瞳から、ぽろぽろと大粒の涙をあふれさせながら。

 ――僕たちふたりに、背を向けた。


「おそらっ……!」


 おそらの背中に追いすがるように、彩愛が声をあげる。


「ごめんなさいっ……! ごめんなさいおそらっ……! 本当に……本当にごめんなさい……っ!」


 扉が閉まる。

 僕たちだけが、取り残される。

 僕はその場に泣き崩れそうになる彩愛の肩を、しっかりと抱き留めた。


「せんぱいっ……! せんぱいっ……!」

「なにも言わなくていいよ」


 僕は彩愛の身体を、きつく抱きしめた。

 彩愛も僕の背中に腕を回して、しがみついてくる。

 僕と彩愛は、ただ、愛を確かめあうように――

 いつまでも、互いの身体をきつく抱きしめ続けた。

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