第14話 恋人の時間
休みの日とか、学校が終わったあとなんかに、二人で待ち合わせをして会ったりもした。
それはそれでもちろん楽しいんだけど、どこか物足りなさを感じるのも、また事実だった。
思えば、僕たちのそばにはいつも、おそらの目があった。
おそらの目をかいくぐって、障害を乗り越えて……そうしてはじめて、愛の言葉を囁きあうことができる。
だからこそ燃えたし、そこに刺激があったのだと、あとになって気づいた。
彩愛も口には出さないが、きっと僕と同じように感じていたんだと思う。
――だから。
最近はあえて、学校で会うことにしている。
ギィィ、という蝶番の軋む音とともに、鉄扉が開く。
昼休みの屋上。
僕はひとりフェンスのそばに立って、彼女が駆け寄ってくる姿を眺めていた。
「ごめんなさい、お待たせしました」
「ううん、全然待ってないよ。それより、うまく抜けてこられた?」
「はい……今日は、男子にラブレターで呼び出されたって言ってきました……」
黙って教室を出てもいいが、そればかりではおそらに怪しまれる。
だからこうして、それらしい理由をつけて抜けてくることが最近は多い。
「なるほど。それなら、僕は告白したほうがいい?」
「……してもらえるなら、ぜひ聞きたいです」
半分冗談で言ったのだが、彩愛は上目遣いに僕を見つめ、熱っぽい視線を向けてくる。
仕方ない。
僕は軽く咳払いすると、まっすぐに彩愛の目を見つめ返した。
「佳月彩愛さん、ずっと前から好きでした。はじめて会ったあの日から、ずっと……。お願いします、僕と付きあってください」
絶対に振られないとわかっている今だからこそ、堂々と言える。
仮に僕が完全フリーの身だったとして、それでもこんなふうに告白できていたかといえば、かなり怪しいだろう。
「はい、喜んで」
彩愛はつま先立ちをして、僕の唇にキスをした。
僕がちゅうと唇を吸って応えると、彩愛はさらにちゅっ、ちゅとついばんで応えた。
「先輩、少しかがんでください……そのまま、上向いて……」
彩愛が僕の顎に指先を添え、上を向けさせる。
最近は唇を合わせるキスもやり尽くし、刺激を求めて新しいキスを模索している。
今、僕たちのあいだで流行っているのが……“唇を合わせないキス”だ。
「お口も……開けてください」
「…………」
やや変態チックだが、これがどうしようもなく興奮を掻き立てる。
二つの澄みきった瞳が、まっすぐに僕を見下ろしている。垂れ下がる髪の毛が頬をくすぐり、彩愛の匂いに包まれている。
彩愛は無言のまま口を開け、えー、と舌を出した。
健康的できれいな赤色をした舌の上に、白く濁った唾液が溜まっているのが見える。
彩愛は素早く片側の髪をかきあげると、耳元で押さえた。僕がちゃんと見えるようにという配慮だ。
羞恥か興奮か、耳も頬も真っ赤で、瞳はほのかに潤んでいる。
舌先から、ゆっくりと、糸を引きながら唾液の塊が落ちた。
次の瞬間には、僕は口内に生ぬるい温度を感じていた。
「もっとたくさん、飲んでほしいです」
そう囁いて口を閉じ、一分弱の沈黙。
「ん……」
ちょん、と顎がノックされたので、僕は再び口を開けた。
さっきよりもずっと近くへ、彩愛の顔が迫る。
唇が触れあう直前で、ピタリと止まった。
そして――
さっきとは比べものにならない量のどろりとした液体が、僕の口内へと流しこまれた。
か細い指先によって、僕の口は強制的に閉じられて。
自然、喉が鳴る。
彩愛の唾液を嚥下する。
「私の唾、おいしいですか、せんぱい……?」
熱に浮かされたような顔をして、彩愛が言う。
僕に唾液を飲ませて興奮しているのがわかり、それでまた、僕も興奮する。
「うん、おいしいよ」
実際は味なんてないんだろうけど、本当においしく感じる。
口の中いっぱいに、幸せの味が広がるのだ。
「せんぱいっ……」
「彩愛」
唇を合わせる。
舌全体を使って、彩愛のすべてを味わい尽くす。
彩愛もまた、口の周りをベトベトにしながら、ひたすらに僕を求めてくる。
そのさなか――僕の耳に馴染み深い音色が届いた。
予鈴だ。
僕は最後に彩愛のふっくらとした唇に思いきり吸いついてから、顔を離した。
「……予鈴、ですね」
名残惜しそうな顔で僕を見つめながら、彩愛が言う。
「うん……」
もう時間切れなんて、早すぎる。
正直言って、物足りなかった。まだキスしかしていないのに。
「先輩、あの…………提案が、あるんですけど」
僕の胸元に両手を置いたまま、彩愛は言って。
「……その、えっと」
言いづらそうに、視線を逸らす。
「やっぱりなんでもないです……ごめんなさい、忘れてください」
なにを言おうとしたのかは、すぐにわかった。
僕も同じ気持ちだったからだ。
たしかに、彩愛の口からは言いづらいことかもしれない。
だから、僕は言った。
「次の授業、一緒にサボっちゃおうか?」
一時間もあれば、いろいろできる。
彩愛はもたれかかるように僕の肩に頬を寄せ、
「……はい」
安心しきったような声で、そう言った。
「あの、比呂弥先輩……」
潤んだ瞳が、至近から僕を見あげる。
「今度は、私にも飲ませてほしいです、先輩の……」
「うん……」
ご要望に応え、僕は口内に唾液を溜め始め……
扉の軋む音が聞こえた瞬間、すべて飲みこんだ。
反射的に彩愛から距離を取り、慌てて手の甲で口元を拭う。
その直後、屋上の入口から一人の女生徒が顔を覗かせた。
その顔を認めた瞬間、さあっと血の気が引いた。
「……彩愛?」
首をめぐらせるおそらと、目が合った。
沈黙。
たった数秒の沈黙が、恐ろしくてたまらない。
おそらは微塵も顔色を変えないまま、ゆっくりとこちらへ近づいてきた。
心臓が暴れている。
どうする? なんて言い訳すればいい?
「比呂弥」
「えっと、なんでおそらがここに?」
なにか言おうとしたおそらを遮って、僕は平静を装いながら言った。
「それはわたしの台詞。どうして、比呂弥が彩愛と一緒にいるの?」
おそらの感情が読めない。
怒っているようにも見えるし、怒っていないようにも見える。
わからないから、恐い。
「えっと……」
「わたしは、彩愛が心配で様子を見に来ただけ。告白されるなら、たぶん屋上だと思って。……比呂弥は?」
「いや……僕は……」
焦る。
声が出ない。
焦る。
唾を飲みこむ。
焦る。
焦る。
言葉が出ない。
頭が働かない。
焦る、
焦る、
焦る、
――だめだ、終わった。
そう思った、そのときだった。
「先輩はね、伝言を伝えに来てくれたの」
隣で、彩愛がきっぱりと言った。
「伝言って?」
「それがね、私にラブレターをくれた人が、先輩のクラスメイトだったらしくて。そもそも私を知ったのも、私と先輩とおそらが一緒にいるところを見かけたからなんだって」
「そうだったんだ?」
「うん。だけど急に来られなくなったって……ですよね、先輩?」
「……あぁ、うん。そうなんだ」
助かった。
彩愛の機転のおかげで、どうにか最悪の事態は回避することができた。
本当によかった……。
僕は心の底から安堵して、
「ふぅん? でもその人、なんで来なかったんだろ?」
だから――油断した。
「なんか、直前になって怖気づいたみたいだよ。まあ、彩愛可愛いから、緊張するのも無理はないと思……」
「彩愛?」
冷や汗が、どっと噴き出す。
「比呂弥って、彩愛のこと名前で呼んでたっけ?」
「……おそらがいつもそう呼んでるから、うつったんだよ」
内心の動揺を見抜かれないよう、努めて平然と返す。
「ごめんね佳月さん、急に馴れ馴れしい呼び方しちゃって……」
僕は彩愛の目を見て、本気の謝罪をアイコンタクトで送った。
彩愛は柔らかく微笑んで、
「いいですよ、彩愛で」
「……え?」
「せっかくですので、これからは私のこと、名前で呼んでください。先輩はおそらの彼氏なわけですから、これからなにかと長い付き合いになりそうですし……」
「…………」
あえて、ということなんだろうけど、本当に大丈夫だろうか?
「私もこれからは、比呂弥先輩と呼ばせていただきますので。……だめですか?」
いや……彩愛を信じよう。
「いい、けど」
「では、決まりです。おそらも、それでいいかな?」
彩愛はおそらに視線を移すと、確認するように訊いた。
「んん? わたし?」
「こういうの、もしおそらが『浮気』みたいに感じるなら、やめようと思うんだけど……」
……僕はただ、黙って成り行きを見守ることしかできなかった。
おそらはかすかに笑みを浮かべて、言った。
「彩愛、気を使いすぎ。いいよそれくらい、わたし二人のこと信用してるから」
その返事に、安堵と罪悪感を同時に覚えたのも束の間。
おそらは続ける。
「それとも、彩愛……比呂弥のこと狙ってる、とか?」
冗談なのか、本気なのか、判断がつかない。
「まさか……なんて言い方は、先輩に失礼かな。でもほら……私、好きな人いるから」
あの遊園地デートを経て、本番のデートはそれなりにうまくいったが、片想いは依然として継続中。そういうことになっている。
「あはは、だよね。変な冗談言ってごめんね」
「だいたい私なんかが狙ったところで、比呂弥先輩はおそら一筋だから」
「そうなの、比呂弥?」
「彩愛みたいな子に狙われたら、コロっと落ちちゃうかも?」
「ほんとですか? じゃあ、狙ってみようかな?」
冗談めかして言う僕に、彩愛が合わせてくれる。
「ちょっとやめてよ、それで比呂弥が本気にしたらどうするの?」
おそらも楽しそうに、冗談の輪に加わった。
チャイムが鳴るギリギリまで、僕たちは三人仲良く、冗談を言って笑いあった。
五時間目の授業が終わると、僕と彩愛はいつかの空き教室で落ち合った。
さっきはおそらがいた手前、サボることはおろか、ろくに話もできないまま別れてしまった。
それではなにかと不安なので、こうして急遽密会することにしたのだが……
万が一また見つかるようなことがあれば、今度こそ言い逃れはできないだろう。
「さっきは本当にごめん、僕が口を滑らせたばっかりに……」
「いえ、気にしないでください。今回はたまたま先輩が口を滑らせてしまっただけで、私にだってその可能性はありました」
彩愛の優しさが身に沁みる。
「ただ、一度なら誤魔化せても、二度三度と続けばおそらだって疑念を抱き始めるでしょう。それならいっそのこと、おそら公認にしてしまえばいいんです。これでもう、おそらの前で変に取り繕う必要はありません」
彩愛のアシストがなければ、こうしてまた密会することも叶わなかったかもしれない。
本当に助かった。
「先輩、それよりも、問題は……」
彩愛が不安げな眼差しを僕に向ける。
言わんとすることは理解できた。
「さすがにもう、学校内で会うのはやめたほうがいいのかも……」
「はい……」
二度目はない。
このまま学校で会い続けるのは、リスクが高すぎる。
おそらの目を盗んだ逢瀬は刺激的だが、バレてしまっては元も子もないのだ。
そうなれば、選択肢は休日や放課後に限られるのだが。
……だけどそれだと、いまいち燃えない。
そんなことを言っていられる状況ではないんだけど、それでも一度あの刺激を味わってしまうと、簡単には戻れないのだ。
おそらに見つかる心配がなくて、かつ刺激的な。
そんな都合のいい場所があれば――
「…………」
ふいに、
浮かんだ。
妙案かもしれない。
それは、
だけど、
禁断の――
「あのさ、彩愛」
深く考える前に、僕はその思いつきを、彩愛に話した。
彩愛は、
「……それ、大丈夫なんですか?」
不安げな瞳で僕を見て、
「うん、たぶん。どう?」
「…………行ってみたいです」
けれどはっきりと、そう口にした。
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