第10話 愛の告白②

「…………いや、別れなくていいって、」


 いい、わけがない。

 だって、それは。明らかに。


「それって、浮気なんじゃ……?」

「はい」


 大真面目な顔をして、佳月さんがうなずく。


「私は、二番目で構いません」

「…………」


 澄みきった二つの瞳が、僕を捉えて放さない。

 本気で言っているのだと、わかった。


 ――惜しい。


 一度は振りきったその気持ちが、にわかに湧きあがってくる。


 惜しい。

 嫌だ。

 佳月さんとの関係が、こんなところで終わりになるなんて……嫌だ。


「これでダメなら、諦めます。だけど、もう一度だけ言わせてください。どうか、お願いします――私を先輩の女にしてくださいっ……!」


 頭を下げる、佳月さん。

 ……………………僕は。


「佳月さんは……本当にそれでいいの?」


 僕の口から出たのは、そんな“確認”の言葉だった。


「はい、いいです。絶対に文句は言いません。だからっ……」

「わかった」

「……え、」

「付きあって、みようか?」


 ……僕は、言った。


 佳月さんの顔に、じわじわと理解の色が広がっていく。


「ほんとう……ですか?」

「うん、付きあってほしい」

「っ……!」


 佳月さんは人さし指と手のひらで目尻を拭うと、ぎこちない笑みを僕に向けた。


「ありがとう、ございます……先輩っ」

「これからもよろしくね、佳月さん」

「はい……こちらこそ、よろしくお願いしますっ……」


 うれしそうな顔を見ながら、僕の選択は間違っていなかったんだと、自分に言い聞かせる。


「それじゃ、おそらも待たせてることだし、今日のところは帰ろうか? 今後のことについては、追々相談するとして……」

「……せんぱい」

「ん?」

「私は、おそらとは違います。一か月以上なにもしなかった、おそらとは違います」

「…………」

「先輩の彼女としてできることがあるなら、なんでもします。なにかしてみたいことがあったら……遠慮なく言ってみてください」

「…………」


 ゴクリ、と喉がひとりでに音を鳴らした。

 してみたいことなんて、それはもちろん星の数ほどある。

 だけど、まずは。


「昨日みたいに、またキスがしたい、かな」

「……どうぞ」


 佳月さんは目を閉じて、僕がキスをしやすいように顎を軽く持ちあげた。

 潤いのある、きれいな桜色をした唇が、目の前にある。

 手を伸ばせば簡単に触れられる距離で、佳月さんが僕のキスを待っている――。


 ゴクリ。また喉が鳴る。


 僕はその華奢な両肩にそっと手を置いた。

 本当に、今から佳月さんとキスができるんだ。それも、昨日みたいな不意打ちじゃなくて、自分から……。

 あまりの興奮に頭がどうにかなりそうだった。


 僕がもたついているあいだに、佳月さんの顔は真っ赤になっている。

 意を決し、僕はゆっくりと顔を近づけていった。


「んん……っ」


 唇と唇が触れあって、佳月さんが艶かしい声を漏らす。

 僕は下唇を咥えて、その柔らかさを堪能する。


「しぇんぱいっ……だいしゅきれす……」


 恋人になったばかりでがっつきすぎるのもアレだと思って、軽いキスに止めておくつもりでいた。

 だけどその一言だけで、僕の理性は簡単に崩れ去った。


 唇の隙間に、舌を挿し入れる。

 佳月さんはビクンと肩を震わせ、それから、ゆっくりと口を開いてくれた。

 舌を伸ばして、湿った口内に侵入して……そして触れた。佳月さんの舌に、触れた。


 瞬間、背筋が粟立つ。

 脳みそが痺れて、眼球の裏側でチカチカと光が明滅する。


 そんな未知の感覚に襲われているあいだにも、僕は無我夢中で佳月さんを求め、佳月さんも僕を求めた。貪るように、求めあう。

 このまま十分も続けたら、きっと気絶してしまう。本気でそう感じた。


 やがて僕たちは、どちらからともなくゆっくりと唇を離した。


「……すごかった、です」


 佳月さんは僕をじっと見つめながら、ぽつりと言った。


「うん……」


 終わったばかりなのに、すぐにでもまたしたいと思ってしまう。

 おそらとの行為の最中よりも、あるいは興奮していたかもしれない。


「ごめんなさい先輩、私さっき、なんでもするって言ったけど……」


 佳月さんは手のひらをうちわにして、自分の顔へぱたぱたと風を送る。


「今日はもう、のぼせすぎちゃって無理です。これ以上は頭の中が沸騰しちゃいます……」


 もう沸騰してるんじゃないかと思えるくらい真っ赤な顔で、佳月さんは言った。


「じゃあ、明日また、しよう」


 僕がそう言うと、


「は、はい……」


 佳月さんは恥ずかしそうに俯いた。


 ……こうして、僕は。

 おそらという恋人がいながら、佳月さんとも付きあうことになった。



     ♥ ♥ ♥



 先輩と別れた私は、夢心地のまま荷物を取りに教室へ戻った。

 一直線に自分の席まで向かおうとして――ギクリとする。

 私の椅子に、おそらが座っていた。


「あ、おかえり彩愛」


 ……落ち着け、大丈夫、別に慌てるようなことじゃない。

 平静を装って、おそらに近寄った。


「ただいま、おそら。まだ残ってたんだね」

「彩愛を待ってたの」


 絶対に、先輩とのことを勘繰られるようなことがあってはならない。

 私はわざとらしくならないよう、細心の注意を払いながら訊いた。


「もしかして、逢海先輩のこと?」

「うん、比呂弥となんの話してたのか、ちょっと気になって」

「そんなに面白い話じゃないよ」


 そういえば、顔の赤みは引いただろうか。指摘されたらどうしよう。


「ちょっと、相談にね……乗ってもらってたんだ」

「相談?」

「実はね、私、好きな人がいるんだけど」

「え、そうなの、初耳」

「その人のこと、今度デートに誘ってみようと思ってて。でも、うまくいくか自信がなくて……」

「それで、比呂弥に相談? だったらわたしでもよくない?」

「男の子の視点から、意見が聞きたくて。先輩くらいしか相談できる人がいなかったの。ごめんね、おそらにも話しておくべきだったよね」


 とっさに思いついた嘘にしては、なかなか説得力があるんじゃないかと思う。


「そっかぁ、それなら納得」

「……不安にさせちゃった?」

「? なにが?」

「私が先輩と、二人きりで会ってて……」


 探りを入れるように言って、反応を窺う。


「そんなの、気にしなくていいよ」


 表情に変化がなくて、言葉の真意は読み取れない。

 ただ、先輩にではなく私に訊いてきた時点で、なにかしら思うところはあったんだろう。

 弁明だけはしっかりとしておこう。


「あのねおそら、勘違いしないでほしいんだけど……私の好きな相手が実は先輩とか、そういうことじゃ、ないから」

「大丈夫、わかってる。わたし、彩愛のこと信じてるから」

「……ありがとう」

「それじゃわたし、もう行くから。比呂弥待たせちゃってるし」

「……私も帰る。校門まで一緒に行こ?」

「うん、行こ」

「…………」


 帰ったらまず、先輩にメールしよう。

 つまらないミスで関係がバレるなんてことは、絶対に避けなきゃならない。おそらとのやり取りは細部まで漏らさず伝えて、完璧に口裏を合わせる必要がある。


 ……それなら、やっぱりメールより電話がいいかも。うん、電話にしよう。

 早く先輩の声が聞きたい。声を聞いて、安心したい。

 先輩……比呂弥せんぱい……


「彩愛」


 前を歩いていたおそらが、ふいに立ち止まり振り向いた。


「どうかした?」


 かすかに口元を綻ばせ、おそらは言った。


「わたし、いいこと思いついちゃった」

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