第9話 愛の告白①
そういえば、別れ話を切り出すつもりでいたんだった。
そのことを思い出したのは、おそらの家から帰宅して、頭からシャワーを浴びている最中だった。
今となってはどうでもいいことだ。
今の僕に、おそらと別れる理由はない。
佳月さんのことは、諦めることにする。
彼女はとびきり可愛くて、僕の好みど真ん中で、話していて楽しくて、一緒にいてとても居心地がいい。
正直、惜しい気持ちがまったくないと言えば嘘になる。
だけど、僕にはおそらがいる。
大切な恋人がいる。
これ以上、不義理を重ねるような真似はできない。
僕は風呂からあがると、スマホにメッセージを打ちこんだ。
――明日の放課後、話したいことがあるんだ
これが最初で最後のやり取りになるかもしれないと思いながら、送信した。
直接会って、そしてキッパリと告げよう。
佳月さんの気持ちには応えることができない、と。
放課後になり、僕はいつものようにいつもの教室に顔を出した。
一瞬だけ佳月さんと目が合って、僕は駆け寄ってきたおそらに視線を移す。
「おそら。帰る前に、ちょっとだけいい?」
「ん、なに?」
「佳月さんを呼んできてもらえる?」
「……え、彩愛?」
おそらは不思議そうに首を傾げた。
「一緒に帰りたいの?」
「じゃなくて、ちょっと話があるんだ」
「彩愛に? ていうか比呂弥って、彩愛と親交あったっけ?」
「実は、そこそこ」
「そうなんだ? いつの間にって感じ。待ってて、呼んでくる」
特に疑念を抱いた様子もなく、おそらが佳月さんのもとへ駆けていく。
これでいい。
あえておそらを経由することで、後ろめたいことはなにもないのだと暗にアピールする。
おそらくは、今日で僕と佳月さんの関係は完全に終わるだろう。
「ど、どうも……」
おそらに手を引かれるようにしてやってきた佳月さんは、微妙におそらの背に隠れるようにしながら会釈した。
その表情には乙女の恥じらいらしきものが浮かんでいて、瞳は妙に潤んでいる。
別れ際にキスをして、それ以来の対面だから……それだけが理由だろうか?
僕の脳裏に、ある懸念がよぎる。
もしかして――期待させてしまっているのではないか。
キスをした翌日に、話があると呼びつけた。
色よい返事がもらえるんじゃないか、そう思わせてしまっていてもおかしくない。
「…………」
だとしたら、かなり心苦しい。言い出しづらいことこのうえない。
それでも、言わなきゃならない。
「その……話というのは……?」
やはりどこか、なにかを期待するような眼差しで、佳月さんは上目遣いに僕を見つめる。
「……うん、ここじゃちょっと話しにくいから、移動しよう」
「はい、わかりました」
「おそらは先に校門で待ってて。すぐ終わると思うから」
「うん、いってらっしゃい」
僕たちは周囲に人の気配がない空き教室に移動した。あまり使われていない部屋のようで、ちょっと埃っぽい。僕は廊下に人がいないことをもう一度確認すると、扉を閉めて、鍵をかけた。
「まず、おそらのことだけど」
僕は切り出した。佳月さんの顔つきが真剣なものに変わる。
「佳月さんは昨日、言ったよね。『おそらは本当に、僕のことが好きなのか?』って」
「はい、言いましたけど……」
「その答えが出たよ」
「……聞かせてください」
おそらは僕のことなんて、これっぽっちも好きじゃなかった。
だから別れた。もしくは、このあと別れる。
佳月さん、僕と付きあってください。
――僕の口からそんな言葉が出ることを、佳月さんは想像しているのかもしれない。
佳月さんの表情は真剣だったけど、警戒しているわけでも怯えているわけでもない。
落ち着いた様子で、僕の話に耳を傾けている。
一か月ものあいだ視線で想いを確認しあった相手に、今から拒絶されることになるなんて、きっと思ってないだろう。
だけど、それでも。
僕は言った。
「昨日、あのあと……おそらとキスをした」
「…………え」
佳月さんは数瞬のあいだ表情を固まらせたが、すぐに取り繕うように口を開いた。
「ようやく、って感じですね。おめでとうございます」
声がうわずっていて、動揺が隠せていなかった。
「それ以上のこともした」
「っ…………」
佳月さんの表情が、一瞬のうちに絶望に染まるのを見た。
「今ならはっきり言える。おそらは僕のこと、なんだかんだ言ってちゃんと好きだし、僕もおそらのことが好きだ。愛しあって、それがわかったんだ」
「…………」
「だから……ごめん。僕は、佳月さんの気持ちには――」
応えられない。――そう、続けるつもりだった。
だけどいきなり、ぎゅっ、と抱きつかれて。
「好きですっ……!」
耳元で、佳月さんが叫ぶ。
言葉が出ない。なにが起こったのかわからない。
「ご、ごめんなさい、私っ……」
すぐに身体を離した佳月さんはおろおろしながら、申し訳なさそうな顔で僕を見る。
感情に突き動かされた、とっさの行動だったのだろう。戸惑いがこっちまで伝わってくる。
「えっと、佳月さん、今のは……」
……今のは、ただの事故だ。
そういうことにしてしまえばいい。
バクバクと暴れる心臓を抑えつけながら、僕は佳月さんの目を見た。
そこにはもう、戸惑いも動揺も浮かんでいなかった。あるのはただ、なにかを決意したような……静かで力強い眼差しだった。
「ごめんなさい、先輩」
佳月さんはもう一度言って、今度はゆっくりと包みこむように、僕を抱きしめた。
密着した胸元に、潰れた膨らみの感触がある。佳月さんはまるで押し当てるように、さっきよりも強い力で僕の身体にしがみつく。
「私は、逢海先輩のことが好きです」
僕の首筋に顔を寄せたまま、佳月さんは言った。
「はじめて会ったあの日から、ずっと好きでした。あの日から今日まで、先輩のことを考えなかった日は一度もありません。それどころか、一日じゅう先輩のことばかり考えています。絶対に、軽い気持ちなんかじゃありません。おそらにだって負けないくらい、私は先輩のことが好きです」
佳月さんの髪の匂いがすぐ近くから鼻腔まで届いて、頭がぼんやりとしてくる。
「だから――先輩。お願いです、私を……先輩の彼女にしてください」
「…………」
佳月さんは、可愛い。おそらよりも可愛いと、僕は思っている。
好きか嫌いかでいえば、それはもちろん、好きだ。佳月さんを異性として見ていることは、最早否定のしようがない。
それでも。
それでも、だ。
「……でも、僕にはおそらがいる」
肩を掴んで、密着した身体を強引に引き剥がして。
荒れ狂う波のように激しく感情が揺れ動く中、僕は、絞り出すようにそう言った。
佳月さんはそんな僕に、
「おそらとは、別れなくていいです」
……そんな、耳を疑うようなことを言った。
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