第8話 はじめてのキス③
まずはまっすぐに家に帰って、シャワーを浴びた。
本当は直接栗羽家に顔を出すつもりだったけど、濡れたままというわけにもいかない。それ以上に、時間が必要だった。心の整理をする時間が。
あれは。あのキスは。
意味を考えるまでもない。
彼女が僕に好意を寄せているということが、決定的になっただけ。つまりあれは、告白のようなものだ。
頭からシャワーのお湯をかぶりながら、じっくりと考えた。
考えて、考えて、そして僕の中でひとつの結論が出た。
――佳月さんの気持ちを、受け入れる。
もう、それしか考えられない。僕の心は完全に佳月さんに傾いていた。
そうと決まれば、今やることはひとつだけだ。
着替えを済ませ、家を出た。雨はもうやんでいた。
ポケットから合鍵を取り出し、隣の家の鍵穴に挿しこむ。
玄関にあがると、鍵を開ける音が聞こえたのか、呼びかけるよりも早く足音が近づいてきた。
「やっと来た」
「おまたせ、おそら」
制服から部屋着に着替えたおそらが、いつもの読めない表情で出迎えた。
「それで、用事って?」
「とりあえず、部屋に来て」
おそらに連れられ、二階へ。青空と雲の背景に「おそら」と書かれたプレートがぶら下がった部屋に、二人で入った。
僕はベッドの
よし。
おそらの用事とやらが終わったら、言おう。
切り出そう――別れ話を。
「ねぇ、比呂弥……」
隣に腰を下ろしたおそらが、僕を見る。
ようやく本題に入るのだろう。
小さな口が動いて、言葉を紡いだ。
「キス」
……心臓が止まるかと思った。
つい先刻の出来事を、唇に残る感触を思い出す。
まさか、見られていた?
真意を推しはかるようにじっと目を見つめ返すと、おそらはどこか恥ずかしそうにしながら視線を逸らした。
……この反応は、違う。
佳月さんとのことを言ってるんじゃなくて、要するにこれは、おそらが、
「キス……してみない?」
「…………」
おそらの目は、本気だった。おそらは本気で言っている。
……いや、なにもおかしなことじゃない。僕たちは恋人同士なんだから。むしろ遅すぎたくらいだ。
「嫌?」
「嫌……じゃないけど。もしかして、用事ってそれ?」
「うん、まずはね」
まずはって……まだ、なにかあるのだろうか。
「おそらのほうこそ、嫌じゃないの?」
「嫌だったら、こんなこと言わない」
「おそらって、そういうことには興味ないのかと思ってた」
「そういう雰囲気になるの、避けてた部分はあると思う。なかなか、勇気が出せなくて。それはごめんなさい」
「いや、そこは僕も似たようなものだから……」
「でも、これだけは信じて。比呂弥とそうなるのが嫌で避けてたわけじゃないの。本当にただ、わたしが臆病だっただけ。そもそも付きあう前、比呂弥とのそういうことを想像してみて、嫌じゃなかったから告白したんだもん。比呂弥だってそうでしょ? わたしとそういうことするの、嫌じゃなかったから付きあってくれたんだよね?」
表情に若干の不安をにじませて、おそらは問いかけてくる。
僕はおそらの目を見て、言った。
「もちろん、したいよ」
「……うん。して?」
おそらはそっと目を閉じて、軽く顎を持ちあげた。
僕は躊躇なく顎に手を添え、ゆっくりと顔を近づけ、唇を奪った。
「ん……」
おそらが小さく声を漏らす。
「……」
おそらの唇は柔らかかった。
だけど、それだけだった。
いまいち感動が薄い。すでに一度経験しているから、当然といえば当然か。
佳月さんの唇よりも小さいかも? とか、そんなことを考えながら十秒数えて、顔を離した。
「……しちゃったね」
ほんのりと頬を赤くし、照れたように言うおそらに、僕は曖昧にうなずいた。
「ちょっと待って」
おそらはそう言って立ちあがり、とてとてと学習机に駆け寄った。
なんだろう。
引き出しを開け、なにかを取り出して戻ってくる。
指先に、なにかをつまんでいた。
正方形をした小さな包みのようなそれを、
「はいこれ。……しよ?」
おそらは、僕に差し出した。
「…………」
唐突に。
すうっと、僕の中から理性が消えた。
「おそら……っ」
気がつけば僕は目の前の華奢な肩をガッシリと掴んで、身体ごとベッドに押し倒していた。
目が合う。
おそらが表情もなく、じっと僕を見つめている。
とたんに我に返った僕は、肩から手を放して顔をそむけた。
「ご、ごめん……」
いつかのおそらの言葉が、また脳裏に蘇る。
『恋人ってことになったら、なにされるかわかんないし、なにされても文句言えなそう』
『わたし、ただでさえ女で非力なのに、そのうえチビだから。無理やり襲われたりしたら絶対抵抗できないし』
『だけど比呂弥なら、わたしの嫌がることは絶対にしないし、人として信用できるから』
「ごめん、おそら」
もう一度言ってから、助け起こそうと手を伸ばした。
その手を――おそらは掴んで、強い力で引き寄せた。
「いいよ」
耳元で、囁くようにおそらは言う。
「比呂弥になら、なにをされても平気。全然怖くない。信じてるから」
僕の心の内を見透かしたようなおそらの言葉に、
「おそら……」
僕は今度こそ我慢が利かなくなって、
「来て、比呂弥」
再び、その小ぶりな唇に自らの唇を押し当てた――。
夜になって、おそらの両親が仕事から帰ってくるまで、僕たちはずっと一つの部屋で、一つになって過ごした。
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