第7話 はじめてのキス②
「あの、こんなことを言うのは間違っているのかもしれませんが……ありがとうございます、先輩」
絶え間なく叩きつける雨粒の弾ける音が、耳元で響いている。
僕は肩が触れないよう注意しながら、佳月さんの隣を歩く。
傍から見ると、カップルに見えたりするんだろうか? そんなことばかり気になってしまう。
「こうしてまた、先輩とお話できて……一緒に帰ることができて、私、うれしいです」
「僕も、佳月さんと一緒にいられてうれしいよ」
「はい……」
僕の返事を噛み締めるように、佳月さんが顔を俯ける。
勇気を出して行動を起こしてみて、本当によかったと思う。
「あの、先輩……もっと近くへ。濡れちゃいます」
「あ、うん……」
僕は遠慮がちに、ほんの少しだけ距離を詰めた。
……そのつもりだった。
だけど思いがけず、肩と肩はピッタリと密着していて。
気づけば、すぐ近くに佳月さんの横顔があった。
「…………」
「…………」
雨音にまぎれて、かすかな息遣いを感じる。
近い。
十秒が過ぎ、二十秒が過ぎても、不思議と距離が開くことはない。
ちらりと横目で隣を窺うと、佳月さんはほんのりと頬を赤くしていた。……確信犯だ。
そんな態度を見せられると、どうしようもなく意識してしまう。
意識すればするほど、動悸が激しくなっていく。
「傘、持つよ」
「あ、はい……ありがとうございます」
じっとしていられなくて、半ば奪い取るように傘の柄を掴んだ。
それからしばらく、沈黙が続いた。
けれど、それはけっして気まずいものではなくて。
ただ肩を寄せあって、並んで歩いているだけなのに、天にも昇るような心地よさを感じる。きっと、佳月さんも同じような気持ちでいてくれてるんじゃないか? そうだったらいいなと思う。
そんな夢のような時間も、長くは続かない。
見慣れた家が視界に入る。二階建ての一軒家が、仲良く隣り合っている。僕とおそらの家だ。
あと少しで、夢から醒める――
佳月さんがふいに口を開いたのは、そんなときだった。
「……おそらとは、どんな感じなんですか?」
声にはどこか、不安がにじんでいるように感じた。
「どんな、って?」
「いえ、その……うまくいってるなら、いいんですけど……」
言葉とは反対に、佳月さんの表情は暗い。
「あー……」
どう答えるべきか。
少しだけ思案して、結局、素直な気持ちを口にすることにした。
「正直、うまくいってるとは言い難い、かな。別に喧嘩してるとか、そういうのじゃないけど……なんていうか、あんまり“付きあってる”って感じがしないんだ」
興味を惹かれたのか、佳月さんがちらりと僕に目を向ける。
「進展がない、ってことですか?」
「うん、まあ……」
『だけどね、もう決めたから――わたしも比呂弥を見習って、もっと彼女らしくなろう、って』
一か月前、おそらはそう宣言していたが……その成果は正直なところ、あまり感じない。放課後は毎日一緒に帰るようになったという、本当にそれだけだ。
「……こんなことを訊くのは失礼だとは思うんですが、その…………おそらとは、どこまで?」
「どこまでっていうか。なにもしてないよ」
「……キスもまだ、なんですか?」
吐息がかかりそうなほどの至近距離で、佳月さんが訊いてくる。
「うん、まだ……」
と、そこまで言ってから、思う。
それは単に、僕に意気地がないだけだと、そう思われてしまうんじゃないか?
僕としては、おそらがどこまで本気なのか、はかりかねている部分がある。
勇気を出して、一線を踏み越えようとしたこともあった。でも。
『恋人ってことになったら、なにされるかわかんないし、なにされても文句言えなそう』
『わたし、ただでさえ女で非力なのに、そのうえチビだから。無理やり襲われたりしたら絶対抵抗できないし』
『だけど比呂弥なら、わたしの嫌がることは絶対にしないし、人として信用できるから』
おそらの言葉が、信頼が、判断力を鈍らせる。どこまで手を出していいのかわからなくなる――そういう事情がある。
だけど女の子の側から見れば、ただへたれているだけに映るかもしれない。男らしくないと、幻滅されてしまうかもしれない。
あるいはそれが正しいのかもしれない。もっと積極的に攻めるべきなのかもしれない。
経験のない僕にはわからないことだ。
「それは、おそらが悪いです」
ふいにそんなことを言われ、思わず佳月さんの顔を見た。
「おそらのほうから告白しておいて、なにもしないなんて……そんなのキープしているようなものです」
「……」
「私、思うんですけど……」
佳月さんは僕のほうは見ずに、ぼそりと言った。
「おそらは本当に、先輩のことが好きなんでしょうか?」
「…………それは」
「おそらが先輩と付きあおうと思ったのは、興味本位……それは知ってます。でも、その“興味”は、本当に先輩に向けられたものなんでしょうか? 本当はただ彼氏がほしかっただけで、誰でも……逢海先輩じゃなくても、男の人なら誰でもよかったのかも。だって、おかしいです。本当に興味があるなら……我慢できなくて、ぜったい、キスしちゃうと思います」
一息に捲し立てるように、佳月さんは言った。
「……確かに、キスくらいはさせてくれても……」
思わず本音がこぼれてしまい、慌てて口を噤む。今のはさすがに、失言だった。引かれてもおかしくない。
「先輩は……キス、したいって思いますか?」
「……まあ、うん、それは」
「それは、どんな女の子が相手でも、ですか?」
最初は、責められているのかと思った。
お試し期間だとか、恋愛対象として見るのは難しいだとか、散々言っておきながらキスはしたいだなんて、節操がない、不誠実だと。
だけど、そうじゃない。
佳月さんの眼差しはどこまでも真剣で、だから僕も、包み隠さず本心で答えようという気になった。
「その……見た目さえ可愛ければ、誰でもいいからしてみたい、みたいなところは……あるかな……」
いくらなんでも、赤裸々すぎたかもしれない。
「やっぱり、そうですよね。男の人はそういう生き物だって、テレビとかでもよく言ってますし」
「うん……」
「…………」
なにか話に続きがあるのかと思ったけど、どうやらそういうわけでもないらしく。
互いに無言のまま、歩き続ける。
今度こそ、ドン引きさせてしまったのかもしれなかった。
「あ……ここでいいよ。家、そこだから」
「…………」
僕は立ち止まって我が家を指さしたが、佳月さんは足を止めただけで、顔をあげることはしなかった。
「送ってくれてありがとう。本当、助かったよ」
「…………」
やっぱり、目を合わせてはくれない。
「それに、楽しかった。佳月さんと一緒に帰れて本当に――」
「……せんぱいっ!」
佳月さんが、勢いよく顔をあげた。
真っ赤な顔で、澄みきった瞳で、まっすぐに僕を見つめてくる。
急にどうしたんだろうと疑問を抱いた次の瞬間には、佳月さんの顔がすぐ目の前まで迫っていて、
「んっ……!」
…………唇に、唇が。
触れている。
強く強く、押し当てられている。
僕は無意識のうちに息を止めていて、気づけば傘を取り落としていた。
雨に打たれる。
重なりあった唇の隙間に、雨粒が吹きつける。
冷たい。
柔らかい。
……息が苦しい。
どれだけの時間そうしていただろう、やがて、静かに、唇が遠ざかる。
「……ごめんなさい」
びしょ濡れになった佳月さんは、髪の先端から雫を滴らせながら、小さく囁いて。
逃げるように、僕の前から走り去っていった。
ひとり取り残された僕は、呆然と立ち尽くすことしかできない。
「…………」
キスを、した。
佳月さんと。
僕は、恋人以外の女の子と……はじめてのキスをした。
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