第6話 はじめてのキス①

 約三十秒。

 それがこの一か月で、僕が佳月さんと接触した時間の合計だ。

 ……もっとも、「目が合った」のを接触にカウントするのであれば、だが。


 おそらが突発的に部活を辞めたあの日以来、佳月さんとは一度も言葉を交わせていない。おそらの目がある中で、とてもじゃないがそんな余裕はなかった。


 目が合って、それだけ。

 一日一秒。

 僕が教室の中を覗きこんでからおそらを呼ぶまでの、ほんのわずかな時間。

 僕たちはその一瞬だけ、互いの想いを確認しあうかのように視線を交わらせた。


 当初おそらは「恋人らしく校門前で待ち合わせしたい」と言っていたのだが、僕の「迎えに行ったほうがむしろ恋人らしい」という主張に、「一理あるかも」と納得してくれた。


 そして今日も、僕はいつものようにおそらたちのいる一年三組の教室まで出向いて。

 扉の陰から顔を覗かせて、佳月さんと目が合って。

 僕に気づいたおそらが、すぐにやってきた。


「比呂弥、傘忘れたでしょ?」


 顔を合わせるなり、おそらはそんなことを言った。


「うん。雨降るなんて知らなかったし」


 窓の外はやむ気配のない本降りの雨。今朝、家を出るときはあんなに晴れていたのに……。


「わたしは知ってたよ。天気予報で言ってたから」


 言いながら、おそらは鞄から折り畳み傘を取り出した。


「……いや、知ってたなら教えてよ。僕が傘持ってなかったの、気づいてたんでしょ?」

「うん。比呂弥折り畳み傘なんて持ってないもんね?」

「じゃあなんで」


 意味がわからない。


「わたしの傘があれば充分だと思ったんだけど、だめだった?」

「……」

「そのほうが恋人らしいでしょ?」


 いたずらっぽく言って、おそらは笑った。


「……確かに」

「ね? じゃあ行こ」


 おそらが僕の手を取り、教室を出ようとした――そのときだった。


「ね、ねぇおそらっ!」


 駆け寄ってきた女子生徒が、おそらを呼び止めた。

 ……佳月さんだった。


「彩愛? どうしたの?」

「あの……私も、一緒に行っていいかな?」


 どこかおそるおそるではあったけど、その両の澄んだ瞳からは確固たる意志が感じ取れた。

 勇気を振り絞って声をかけた……そんな感じがした。


「え? でも彩愛の家って、全然方向ちがくない?」

「うん、だから、校門までってことなんだけど……」

「うん、別にいいけど……?」


 真意をはかりかねているのだろう、おそらは若干戸惑った様子ながらも、特に拒んだりはしなかった。

 佳月さんは、おそらから僕へと視線を移した。


「えっと……逢海先輩も、いいですか?」

「うん、もちろん」

「ありがとうございます」


 そんな、本当になんでもないやり取りだったけど。

 一か月ぶりの会話は、一瞬にして僕の心を満たしたのだった。



 二年の下駄箱で靴を履き替えると、僕は足早に二人のもとへ向かった。

 出入口のそばで、傘を携えて佇んでいる佳月さんを見つけた。その横ではおそらが外に向かって傘を広げている。


「…………」


 このままいけば。

 僕はまず間違いなく、おそらの傘に入れてもらって、おそらと一緒に帰ることになるだろう。家が隣同士で、おまけに恋人同士なのだから、そうなるのが自然だ。

 当然、家が別方向だという佳月さんとは校門で別れることになる。


 ようやく……言葉を交わすことができたのに。

 明日になったら、またこれまでどおりの日常が続いていくのだろうか?

 ――それは。


 それは、嫌だ。


 そう強く思った、瞬間。

 僕の頭の中に、あるひらめきが駆けめぐった。

 心臓が跳ねる。

 ……いいのか?

 実行に移して、もしバレたりしたら。

 ……でも。

 次にいつ訪れるかもわからないこのチャンスを、黙って見過ごしたくはなかった。


 佳月さんが、僕を見た。

 その眼差しをしっかりと受け止めてから、僕は声をかけた。


「おそら」


 振り向いたおそらが、僕を見る。

 おそらが口を開くよりも早く、僕は告げた。


「ごめん、急用ができた」


 おそらはまっすぐに僕の目を見つめながら、ちょこんと首を傾げた。


「急用って?」

「うん、クラスの友達に呼び出されて」

「それって、大事なこと?」

「うん……わりと。だからごめん、行かないと」

「そっか……」


 おそらは何事か思案しているようだった。

 大丈夫、嘘だと気づかれてはいない……はずだ。


「あのね、比呂弥」

「うん?」

「実はわたしも、比呂弥に用事があったりするんだけど」

「……それって、大事なこと?」

「うん、かなり。大事な話」

「どんな話?」

「それは……あとで話す。だから、早く用事済ませてきて」

「……もしかして、待ってるつもり?」

「? そうだよ?」


 それが当然とばかりにおそらは言うが、それじゃ意味がない。


「いつ終わるかわかんないし、先に帰っててほしいんだけど」

「それだと、傘入れてあげられなくなっちゃう」

「いいよ、友達か、最悪先生にでも借りるから」

「でも……」

「待たせるのが申し訳ないって気持ち、おそらならわかってくれると思うけど?」


 その一言は、おそらに効いた。


「…………わかった。でも、帰ってきたらまっすぐウチに来てね?」

「了解」

「待ってるからね。行こ、彩愛」


 おそらは佳月さんを促すと、振り返らずに歩き出した。

 佳月さんはちらりと一瞬だけ僕に目を向けてから、すぐにおそらのあとを追った。


 おそらの用事も気になるが――今は、それよりも。

 僕はその場に棒立ちしたまま、二人を見送った。

 遠ざかる後ろ姿を、目で追い続ける。


 一分が経過。

 校門を出た二人が背を向けあって別れたのを、遠目に確認した。


 ……二分三十秒経過。

 振り向いても、互いの姿を視認できないくらいには、距離が開いただろう。


 昇降口に立ち尽くしたまま、三分が経過した。

 僕は動かない。

 信じる。

 気持ちが通じ合っていると、信じる。

 信じて、じっと待ち続ける。


 さらに四十五秒が経過したころ、校門の向こうに人影が見えた。

 下校する生徒の波に逆行して、ひとり、駆け足で近づいてくる。

 傘で顔が隠れていたけど、それが誰なのかは、高鳴る胸の鼓動が教えてくれた。


 校舎の手前で立ち止まった彼女は、顔をあげ、僕の姿を認めた。

 その表情には、安堵の色が浮かんでいて。


「……よかった」


 僕と佳月さんは、五分と経たないうちに再会を果たした。


「いて、くれた……」


 降りしきる雨の中でも、はっきりと聞き取れた。

 佳月さんは、ほかの誰でもなく……僕のために戻ってきてくれたのだ。


「佳月さん……」


 自然と、僕の口から声が漏れる。

 佳月さんはどこかぼんやりとした顔で僕を見つめている。


「せんぱい…………、」


 が、ふいに我に返ったようにハッとした顔になり、取り繕うように口を開いた。


「せっ、先輩は……用事はもう終わったんですか?」


 そうだった。

 いちおう、そういうていになっていた。もっとも、それがおそらを帰すための口実だということは、佳月さんだって気づいていると思う。


 とはいえ、この場は話を合わせるのが自然だろう。


「うん、まぁね。佳月さんは、忘れものかなにか?」

「わ、私は……えっと……」


 しまった。困らせるつもりじゃなかったのに。


 ……もう、いいか。

 僕たちが両想いであるならば、こんなふうに本音を隠したやり取りをする必要なんて、どこにもないんだ。

 僕は、思いきって言った。


「あのさ、佳月さん。よかったら、家まで送ってもらえないかな? 方角、逆になっちゃうけど……」

「…………」


 佳月さんは呆けたように、何度かまばたきをして。

 それから。


「はいっ、ぜひ。一緒に帰りましょう」


 にこりと微笑んで、そう言ってくれた。


「あ、でも……ちょっとだけ時間を置いたほうがいいかもしれないです。その、鉢合わせちゃうかもなので」

「そうだね。じゃあ、もう少し話でもしてようか?」

「はい……それがいいと思います」


 僕たちはそれから、三十分ほど他愛のない雑談で盛りあがった。

 連絡先の交換もした。濃密で、充実した時間だった。

 こんな時間が永遠に続けばいいのにと、心の底から思った。

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