第4話 恋の始まり②

「えっと……それは、どういう……?」


 佳月さんの顔に疑問が浮かぶ。

 そりゃそうだ。僕だって、僕がなにを言い出すのかわからない。

 それでも、もう後戻りはできないし、する気もなかった。


「なんていうのかな……お互い、もっとこう、軽い気持ちだったんだ。確かに付きあってはいるんだけど、ちゃんとした交際よりもだいぶフランクっていうか……」

「それって、いわゆる……お試し期間、みたいな感じですか?」

「そうそう、お試し期間。まさにそんな感じ。おそらのほうも、別に本気で僕のことが好きなわけじゃないと思うんだ。本人だって言ってたし、僕と付きあおうと思ったのは興味本位だって。だから……だからおそらとは、正式な恋人ってわけでも、ないんだ」


“お試し期間”――そんなフレーズが、僕とおそらのあいだで使われたことは一度もない。


 わかってる。

 たとえどんな動機であれ。

 おそらが告白して、僕がOKした。


 それだけが、事実だ。

 それがすべてだ。


 仮に軽い気持ちだったとしても、おそらの想いを、僕が踏みにじっていい道理はない。

 僕が勝手に、栗羽おそらという人間を規定していいわけがないんだ。


 わかってはいる。

 それでも。


 それでも今は……おそらの尊厳よりも優先したいものがあった。


「先輩、今……」


 こんな話をしたら、告白を受けた僕こそが軽薄な人間だとみなされて、軽蔑されてしまうのではないか。

 そんな考えがふいに浮かび一瞬にして冷や汗が噴き出たが、佳月さんが反応したのはそこではなかった。


「『おそらのほうも』って、そう言いましたけど……それって、その、おそらのことは……」


 しまった。うっかり本音が漏れてしまっていたようだ。

 ここは観念して、本心を打ち明けるしかないだろう。


「いや、もちろんおそらのことは好きだよ? ただ……恋愛対象として見られるかっていうと……ね。正直言って、これがなかなか難しいんだ。なにしろ僕たちは、ずっと幼なじみとして過ごしてきたわけだから……」


 難しいのは本当だが、できないとは言っていない。本当に無理なら、そもそもOKしようなんて思わない。


「あ、だからといって、適当に付きあおうとかそんなことは思ってないけどね」


 軽い男だとは思われたくないので、フォローも忘れずに入れておく。


「……わかるかも」


 佳月さんが、独り言のようにぽつりと言った。


「私も、男の子の幼なじみが何人かいますけど……恋愛対象として見るのは、ぜったい無理ですから」

「あ、そうなんだ。やっぱり、そういうものなのかな」

「はい、そういうものだと思います」

「……じゃあ、さ」


 意識すると言えなくなる。だからあまり深く考えないようにしながら、僕は訊いた。


「佳月さんの恋愛対象――好みのタイプって、どんな人なの?」


 佳月さんは、


「えっ、え、好みっ……ですか……?」


 明らかに動揺した様子で、視線をあちこちへせわしなく動かし始めた。


「うん。あ、変な意味じゃなくて。ただ純粋に気になって……」

「わ、わかってます…………え、っと……………………」


 最終的には下を向いてしまい、そのまま黙りこんだ。

 変な空気になる。

 しばらくして、佳月さんは蚊の鳴くような声で言った。


「よく……わからない、です」


 顔をあげた佳月さんは、いつの間にか真っ赤になっていた。


「わからない?」

「私、彼氏とかいたことないので」


 思わずガッツポーズしそうになったのを、グッと堪えた。


「へぇ、そうなんだ、意外。佳月さんモテそうなのに」

「い、いえ、そんな……」


 恐縮したようにふるふると首を振る佳月さんは、やっぱり可愛かった。


 こんなに可愛いのに彼氏がいないどころか、できたことすらないなんて……

 と、そこまで考えて、ある可能性に思い至る。


「もしかして、男嫌いだったりする?」


 そういうことなら納得だ。

 だが、佳月さんはどこか慌てたように、さらに激しく首を振った。


「いえっ、全然そういうのじゃないです! ただ、機会がなかっただけでっ。むしろ……きょ、興味はあるんです。もし、素敵な人にめぐり逢えたら……そのときは、お付きあいできたらいいなって……そう、思ってます」


 上目遣いに、まっすぐに僕を見つめて。

 かと思えば、すぐに恥ずかしそうに視線を逸らして。

 佳月さんは言った。


「…………」


 さっきから、何度も、感じていることがある。

 だけどそのたびに、そんなわけないと、心の中で否定してきた。


 でも。

 やっぱり。

 明らかに。


 佳月さんは、僕のことを…………


 いや、でも。

 やっぱりそんなわけ、


「『モテそう』っていうなら……先輩のほうです」

「…………え? 僕?」

「は、はい、だって先輩……すごくかっこいいですし」

「……………………」


 跳びあがりそうになるくらい、一瞬で気持ちが高揚した。

 必死に抑える。

 喜ぶのは後だ。今は冷静に応対するのが先だ。


 些細なチャンスも逃すわけにはいかない。

 もっと自分をアピールして、もっと距離を縮めて。

 そしてできれば、佳月さんの気持ちを知りたかった。


「はは、僕なんて全然モテないよ。なんたって、おそらがはじめての彼女だからね」

「そうだったんですか? とてもそうは見えないです……」

「まぁ、そのおそらとも恋人らしいことはなにひとつしてないわけだけど……」


 佳月さんは本当に信じられないといった顔で、まじまじと僕を見つめる。


「先輩みたいな素敵な人、女の子は放っておかないと思うのに……」


 と、そこまで言ってから、ハッとしたように顔の前でわたわたと手を振った。


「い、今のはあくまでっ、一般的な女子の立場から見た一般的な意見でしてっ……別に深い意味はなくて……っ」


 ――ここしかない、と思った。

 踏みこむなら、今だ。

 行ける。言える。

 心臓が狂ったように早鐘を打ち始める。

 肺から無理やり絞り出すように、僕は声を発した。


「佳月さんの立場から見たら?」

「……えっ?」

「佳月さんから見た僕は……どう映ってる?」

「…………」


 まるで永遠のような、長い長い沈黙があった。

 恐怖で顔を直視できない。

 逃げ出したい衝動を、殺して、殺して、殺し続ける。

 それでも耐えきれなくなって、話題を変えようと口を開いたそのとき――


「……とても魅力的で、すごく素敵な男性ひと……だと思います」


 真っ赤な顔を持ちあげて、潤んだ瞳を僕に向けて。

 佳月さんは、そう言った。

 そして続けざまに、


「私からも、訊いていいですか?」

「……なに?」

「先輩は……逢海先輩は……私のこと、どう思いますか?」


 そんな質問をぶつけてきた。

 僕は迷うことなく即答した。


「すごく、素敵な女性ひとだと思う」

「……っ」


 佳月さんはなにも答えず、ただまっすぐに僕を見つめ続けた。


 この時点で、僕はようやく確信に至った。

 佳月さんは僕に、異性として興味を持っている。

 そして僕が佳月さんに向ける感情も、おそらく伝わっているだろう。

 だから。

 この瞬間、僕たちはきっと、認識を共有していた。


 僕たちは――両想いなのだと。


 沈黙の中、視線だけで繋がりながら、確かにそれを感じていた……。


「あの、すみません先輩……私、今日はこれで失礼します」


 ふいにそう言って、佳月さんは頭を下げた。


「え? あ……うん」

「すみません」


 もう一度断ると、鞄を取りに行ったのだろう、教室に戻っていった。


「…………」


 両想いだと。

 そう確信したばかりなのに、急速に自信がしぼんでいく。


 やっぱり、僕の思いあがりだったんじゃないか。

 勘違いだったんじゃないか。

 急速に不安が膨らんでいく。


 佳月さんはすぐに鞄を持って出てきた。

 そして僕に背を向けて、急ぎ足で逃げるように数歩歩いたところで、ピタリと静止する。

 直後に方向転換し、とてとてとまた僕のそばまで近づいてきて、


「先輩、明日も、来ますか」


 僕の顔は見ずに、小さな声でぼそりと言った。


「う、うん……また来るよ。おそらを待たなきゃいけないからね」

「そ、そうですか。……じゃあ、また会えるかも」


 それは、ともすれば流してしまいそうな、独り言じみたつぶやきだったが。


「うん、そうだね。たぶん会えるんじゃないかな。佳月さんさえよければ、また話し相手になってくれるとうれしいんだけど……どう、かな?」


 前のめりで強引に返事をすることで、無理やり会話として成立させた。

 佳月さんの表情に、みるみる笑みが広がっていく。


「……はいっ、私なんかでよければ、喜んで!」


 笑顔の佳月さんは、信じられないほど可愛くて、眩しかった。

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