Anima linguaー舌魂ネバーエンディング

夕星 希

第1話


―――平成元年 夏

路面電車が通る城下町、松山。

城が建つ城山を借景にした瀧上庭園には、樹齢300年の槙の木が旅館の周囲を護るように植栽されている。四季折々の木々の合間を鳥たちは飛び、羽を休め、そのくちばしで幹の虫を追う。天真爛漫な蜂たちは花々や、こぼれ落ちる琵琶の実や、葡萄の周りをせわしなく飛び回る。その同じ敷地には、旅館がある。古くは松平定行が松山城の天主を改築した際には、ここで酒席が設けられた話も伝わる由緒ある旅館である。盛り塩を両脇に供え、家紋が染め抜かれた紫の玄関幕は、洗い張りを重ねた今もなお、偉容を保ってゆかしい。軽く打ち水のされた埃ひとつない三和土たたきはさらに光沢を増して、来る客をねぎらう。透明の花器には、女将の母が生けた向日葵が葉蘭の間に顔をのぞかせている。そんな中、瀧上旅館の門前に重厚なタクシーが横付けされた。従業員全員が建物の正面玄関に揃って立ち、宿泊客を出迎える。俺、瀧上颯たきがみはやては噺家の師匠たち一行を貴賓室とされている一階奥の「黒松の間」に案内した。渡り廊下からは松山城が窺える。その凛とした風格のある佇まいが目に飛び込んでくると宿泊客たちは決まって感嘆の声を挙げる。俺はちらちらと背後の客の様子を見る。しかし彼らは城に興味を示すことなく、能楽師のようにさっさと歩いて行く。細面でいかにも頼りなさそうな少年は見習い弟子だろう。師匠の右隣につく若い男は師匠の一番弟子だろうか。そんな好奇心丸出しの俺に「前を向いて歩け。危ないぞ」と一番弟子は声をかけた。その後俺は、わずかな段差に足を取られよろけた。

「こちらがお客様のお部屋でございます」俺は母に言われた通り丁寧に挨拶をした。襖を開けると、まず目に飛び込んでくるのが、数奇屋風書院造りと言われる格式のある床の間だ。掛け軸の中縁ちゅうべりは控えめに、それを取り囲むようにして草色の中廻しが見える。師匠は、小さく書かれた掛け軸の書に目をとめた。そして一番弟子は俺に、「何と書かれているのか」と聞いた。

「えーと、これは、在原 業平……いや紀貫之の……」それ以上言葉が出てこない。

「ちはやふる 神代もきかず 竜田川 からくれないに 水くくるとは」

「あー!!」

「あぁ?」

「それ、それです。それ」

「何がそれなんだ」

「ちはやふるです。在原 業平」

「あんた、さっきお客さまをご案内しますって言ったろ?」

「言いました」

「さっぱりご案内できてねえじゃねぇか」師匠は座椅子にもたれると言った。

俺は気を取り直して「お食事とご入浴、どちらを先になさいますか」と聞いた。

「……検番」

「……は?」

「だから、松山」

「松山?」

「おい、誰か兄ちゃんに通訳してやってくれ」

「松山検番。芸妓さんは呼べるのか」一番弟子は呆れたように言う。

「……申し訳ありません。当旅館は作家の方も常連で」

「だから……?」

「執筆活動に支障がでるため、当旅館での芸妓さんのご利用は控えていただいております」

「……!?」

「……お前、それ本気で言ってるの?」

「……はい」

「ふざけんじゃねぇ。だったら、ちはやふるなんて掛け軸を最初から飾るなってぇの」

師匠は吸いかけのタバコをもみ消した。

「お前じゃ話にならん、しっしっ」師匠は俺を手で追い払うとそう言った。

少しして、女将がやって来た。

「何かお気を悪くされましたでしょうか」

「気を悪くした! もう、この案内係がね、ここに芸妓さんは呼んじゃダメだってボクたちにいうんだ」今年で五十四歳になる師匠は子どものように駄々をこねた。

「このたびは従業員の教育が行き届いておりませんことを心よりお詫び申し上げます」女将はやんわりと謝罪した。そして芸妓は呼べないが、大女将と自分が宴席に興を添えることを約束した。

「女将たちが? 本当に?」

「はい、お約束をいたします。それまでにご入浴はお済ませになりますか?」

「済ませまーす!」師匠はたちまち上機嫌になった。

見習い弟子は脱ぎ散らかした師匠の羽織を畳み、ちょうど良い飲み頃の日本茶を差し出す。師匠がその茶をひとくち含むころには、彼は扇子で心地よい風を送っている。あらゆる所作に無駄がなく、また、その動きは控えめで、押し付けがましいところがまるでない。

呆気にとられている俺を見て師匠は「案内係」と手招きする。

「お前も少しはコイツを見習え。案内係。お前、年は幾つだ」

「……18です」

「18ねぇ。この小太郎は16だ」

「じゅ、16?……が、学生さんですか?」

「んなワケ、ねぇだろ。高校を辞めて、この世界に入って来たんだったな、小太郎?」

少しして顔を赤くした弟子はコクリと頷く。

「案内係っていっても、ただ客を部屋に通せばいいってもんじゃねぇ。部屋の採光、匂い……ありとあらゆる物が五感を通して俺たちに届く。その点、この部屋は最高位だ」

「き、恐縮です」

「……しかし」

「……?」

「残念なことに、お前さんがそれをぶち壊しているんだなぁ」

「……!?」

「ど、どういうことでしょうか」

俺はその答えを早く聞きたくて煙をくゆらす師匠の顔をじっとみつめる。

「……まだ分かんねぇのかい?」

あわいさ」

「あ、あわい?」

あわいがあるからこそ、この瀧上旅館は350年も続いてきたんじゃねぇのかい?」

「……」

「物と物のあわい、人と人のあわい、時間と時間とのあわい。この絶妙な距離感なくしては、一流のおもてなしは出来ねぇと思うね。俺は」

「ま、よーく考えてみて」

師匠は、急に猫なで声になり「あー、早く女将の舞が見たいね」と言った。


大学受験を控えた俺は、この師匠のひと言で人生を棒に振ることになるのだった。

                                              ― 完 ―




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Anima linguaー舌魂ネバーエンディング 夕星 希 @chacha2004

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