Anima linguaー舌魂ネバーエンディング
夕星 希
第1話
―――平成元年 夏
路面電車が通る城下町、松山。
城が建つ城山を借景にした瀧上庭園には、樹齢300年の槙の木が旅館の周囲を護るように植栽されている。四季折々の木々の合間を鳥たちは飛び、羽を休め、その
「こちらがお客様のお部屋でございます」俺は母に言われた通り丁寧に挨拶をした。襖を開けると、まず目に飛び込んでくるのが、数奇屋風書院造りと言われる格式のある床の間だ。掛け軸の
「えーと、これは、在原 業平……いや紀貫之の……」それ以上言葉が出てこない。
「ちはやふる 神代もきかず 竜田川 からくれないに 水くくるとは」
「あー!!」
「あぁ?」
「それ、それです。それ」
「何がそれなんだ」
「ちはやふるです。在原 業平」
「あんた、さっきお客さまをご案内しますって言ったろ?」
「言いました」
「さっぱりご案内できてねえじゃねぇか」師匠は座椅子にもたれると言った。
俺は気を取り直して「お食事とご入浴、どちらを先になさいますか」と聞いた。
「……検番」
「……は?」
「だから、松山」
「松山?」
「おい、誰か兄ちゃんに通訳してやってくれ」
「松山検番。芸妓さんは呼べるのか」一番弟子は呆れたように言う。
「……申し訳ありません。当旅館は作家の方も常連で」
「だから……?」
「執筆活動に支障がでるため、当旅館での芸妓さんのご利用は控えていただいております」
「……!?」
「……お前、それ本気で言ってるの?」
「……はい」
「ふざけんじゃねぇ。だったら、ちはやふるなんて掛け軸を最初から飾るなってぇの」
師匠は吸いかけのタバコをもみ消した。
「お前じゃ話にならん、しっしっ」師匠は俺を手で追い払うとそう言った。
少しして、女将がやって来た。
「何かお気を悪くされましたでしょうか」
「気を悪くした! もう、この案内係がね、ここに芸妓さんは呼んじゃダメだってボクたちにいうんだ」今年で五十四歳になる師匠は子どものように駄々をこねた。
「このたびは従業員の教育が行き届いておりませんことを心よりお詫び申し上げます」女将はやんわりと謝罪した。そして芸妓は呼べないが、大女将と自分が宴席に興を添えることを約束した。
「女将たちが? 本当に?」
「はい、お約束をいたします。それまでにご入浴はお済ませになりますか?」
「済ませまーす!」師匠はたちまち上機嫌になった。
見習い弟子は脱ぎ散らかした師匠の羽織を畳み、ちょうど良い飲み頃の日本茶を差し出す。師匠がその茶をひとくち含むころには、彼は扇子で心地よい風を送っている。あらゆる所作に無駄がなく、また、その動きは控えめで、押し付けがましいところがまるでない。
呆気にとられている俺を見て師匠は「案内係」と手招きする。
「お前も少しはコイツを見習え。案内係。お前、年は幾つだ」
「……18です」
「18ねぇ。この小太郎は16だ」
「じゅ、16?……が、学生さんですか?」
「んなワケ、ねぇだろ。高校を辞めて、この世界に入って来たんだったな、小太郎?」
少しして顔を赤くした弟子はコクリと頷く。
「案内係っていっても、ただ客を部屋に通せばいいってもんじゃねぇ。部屋の採光、匂い……ありとあらゆる物が五感を通して俺たちに届く。その点、この部屋は最高位だ」
「き、恐縮です」
「……しかし」
「……?」
「残念なことに、お前さんがそれをぶち壊しているんだなぁ」
「……!?」
「ど、どういうことでしょうか」
俺はその答えを早く聞きたくて煙をくゆらす師匠の顔をじっとみつめる。
「……まだ分かんねぇのかい?」
「
「あ、
「
「……」
「物と物の
「ま、よーく考えてみて」
師匠は、急に猫なで声になり「あー、早く女将の舞が見たいね」と言った。
大学受験を控えた俺は、この師匠のひと言で人生を棒に振ることになるのだった。
― 完 ―
Anima linguaー舌魂ネバーエンディング 夕星 希 @chacha2004
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