第9話 美しくも蒼い薔薇は枯れてしまう
ナリディスがワインをすべてかぶっていた。
咄嗟のことで気づけなかったけれど、立ちふさがり阻止してくれたのだ。
さすがわたしの弟、と褒めるより先に令嬢をみやる。令嬢はナリディスではなく、わたしを見ていたのか視線がぶつかった。
「あ、あの……わ、た、私、なんてことを……」
みるみる内に真っ青に顔色を染め、手にしているグラスを落としそうになっていた。これ以上の失態は避けるべきだと判断しする。彼女の手からグラスを受け取り、近くにいた給仕に渡した。
一連の流れを近くにいた貴族たちは見ている。
好機の視線、同情の視線など無神経な目を向けられるだけでも彼女にとってプレッシャーだろう。取り出したレースのハンカチをナリディスに渡しながら、彼女の背を押し壁際まで連れていった。
「大丈夫ですから落ち着いてください。あなた様が気になさる必要はありませんわ」
「で……ですが……っあなた様はアヴェリー様で……お、王太子殿下の……わ、私、明日には命を……? せ、せめて、父には……うぅっ」
できるだけ優しく言葉をかけるけれど、あまり効果はみられない。
魔王の所業を聞いたことがある深層の令嬢からしてみれば、わたしも恐怖の対象なのだろう。似たようなことは何度もあったせいで、先ほどの公爵令嬢の態度が新鮮で少しうれしくもあった。
「レディ、本当に気にしないでください。姉にはかかっていませんから」
横からナリディスが努めて優しい笑顔と声音で話しかけはじめた。
ここは任せたほうがいいだろうと判断し、彼女の視界から消えることにする。
「ですが……っ、あの方はお許しにならないと……」
「私の勲章を見せれば王太子殿下といえど、何もしませんよ。ましてわざとではないのですから」
「うぅ……っ」
泣き崩れてしまいそうな彼女の背中を支えるナリディスに、視線で連れて行くように指示する。
あちらも意を得たのだろうが、慌てて首を横にふり無理だと伝えてきた。しかし、彼女をこのままにするわけにはいかない。
力を込め睨みをきかせば、姉に逆らうことができないお人よしなナリディスはしぶしぶ引き下がった。
「まったく、すべてが過剰なのよね。これは……試されているのかしら」
タイミングが良すぎる上、あの令嬢の泣き崩れ方は少々常軌を逸している。背中だけで見破れというのは難題だ。わたしとは知らず、ワインをかけてこいとこの場で指示されたと考えれば納得がいく。
高位の貴族もしくは――
国王たちのいるほうへ視線を向ければ隣国の王の姿はなく、魔王は先ほどの公爵令嬢に絡まれ中。
「その通りだ、と言えば答えになっているだろうか?」
「戦のことばかり考えているせいなのかしら。令嬢の独り言に返事をするなんて、マナーを学びなおしてはいかがですか?」
背中を壁に貼り付けるようにして立ち、視線は変わらず魔王だ。
「これは失礼。あなた方がこちらに来られないと知ったので、出向くことにしたのですよ」
「……先日、ご挨拶はしたはずですが?」
魔王の瞳が一瞬こちらをとらえ、次いでランディに何かを目くばせする。その姿を目の端でとらえながら、ゆったりとした動作で体を横に向け、隣に立つ男を仰ぎ見た。
「ねえ、付属物様?」
そう告げると彼はフッと口元を歪め、満足げにうなずいた。
「噂と違わぬ人物のようだ。危険を犯してでもこうして足を運んだ価値はあったな。少し話がしたい」
了承するとわかっているのか、背中を向け歩き出す。簡単に背中を向けていいのかと思うものの、彼は戦うことを知っている男。わたしが何かするより先に取り押さえられてしまうだろう。
面倒な男につかまってしまった。
溜息を吐き出し、隣国の王の後ろをついていくことにした。
男の迷いない足取りを見る限り、事前にこの場所を知らされていたことは明白だった。
月明りはごくわずか。
庭園を照らすには物足りない代わりに、会場から漏れる光りや音楽が不思議と夜の静寂を感じさせる場所につり合いがとれ、体からふっと力が抜けていく感覚を味わう。
そう、ここには人の視線がなさすぎるのだ。
あって然るべき見張りの姿がなく、視線も感じない。
公爵家が一手を担うと聞いていたけれど、何を考え――いや、自分の娘を王太子の嫁にしたいがために、こんな愚かな真似をするだろうか。。
呆れて言葉を失っていると、少し離れた場所で隣国の王が笑い出した。
「先に言っておくが、公爵家は自身の娘を私の妻にあてがうためにこの場を作ったのだぞ?」
「……盲点でしたわ」
なるほど、疑問がひとつ消えた。
公爵ともあろうものが危険を犯すのかと不思議には思っていたのだ。
苦笑しながら見上がれば、何度も見た蒼い瞳とカチリと視線が交わる。
「荒野に咲く蒼い薔薇のようですね……」
突拍子もない言葉に瞠目し、王は口元を手で隠し笑い始めた。
そこまで? と思わないわけではないが、自分的にも今がどんな状況かわからないのかと叱りたくなる。
美しい者を前にした瞬間、大切なことが抜けてしまう性格は治らない。
「それで、目的の未来の花嫁は放っておいてよろしいのですか?」
「連れ去ってくるよう大司教が言っていたが、俺はいらん」
何が欲しいのかと問えば、この男は答えてくれるだろう。
けれど、どちらにしろ選択肢は存在しないのだから、聞くだけ無駄だ。
「なるほど、ではお帰りになってはいかがですか? 今なら地位に傷ができることもありません」
「ははっ、自ら飛び込んできたわりには、俺から離れたいようだな」
「あなたの要件がなんだったのか知れましたから。実にくだらない、時間の無駄でしたけれど」
「辛辣だな」
ふふ、と笑いながら近づいてくる鎧の重なる音が聞こえてきた。
隣国の王も気づいたのだろう。立派な体躯をすくめ、わたしへと距離を縮める。反射的に後じさりながら視線は離さない。
「慌てなくとも大丈夫ですわ。あなた様は何もされておりませんもの、捕らえられることはございません」
「わかっているとも。ただひとりでいた令嬢と話をしていただけだ。そして俺はその令嬢ともっと親しくなりたいと望んでいる」
ふっ、と思わず息がもれる。
彼もまた美しい存在であり、魔王をどこか彷彿とさせるのは危うさがあるからだろう。
他者を拒絶する、触れたら壊れる、そんな刹那的な美しさ。
多くの人は魅了され、近づき、そして壊してしまう。
自分の欠点を理解しているからなのか、彼は焦りすぎた。大人しく公爵令嬢を連れ去っていればよかったのだ。彼女ならこちらとて追いかけることはない。
「申し訳ありませんが、わたしはこれで失礼させていただきます」
頭は下げず、わたしは別れの言葉を口にする。
そして背筋を伸ばし背を向ける。
相手同様、これは罠。
やられっぱなしは性分ではない。
ただし食いつけばこの男の末路は決定づけられる。
本人が知ってか知らずかはわからないが――蒼い薔薇は枯れてしまうようだ。
「手ぶらだとは思っていまい。なぜ、それほど悠長に俺に背を向けることができる」
隠し武器だろうか。
わたしの背中に切っ先を当てているのか、硬い何かが当たっている。少しでも力を籠めればドレスは切り裂かれ、想像以上の痛みを伴い、背中に大きな傷を追う。
やはり――こうなってしまうのだと俯瞰し、状況を観察する自分がいた。
「捕らえてほしいと言っているようなものだ」
「……愚かなものですね」
背後から忍び寄りわたしの腕を掴んだ手は、たしかに戦を知る者の手だ。
ランディ以上に鍛えられているそれは、彼の過酷な人生を一端とはいえ感じさせるには十分だった。
「何を言っているんだ?」
「その剣を下ろてもらえますか?」
プラチナの髪をか細い月明りを受け、何者よりも輝きをまとうのは我が国の王太子。
彼はランディたち王太子付きの王宮騎士を立ち止まらせ、颯爽とひとり歩みを進める。その腰には当然、剣などなく彼が武器を隠し持っている可能性はない。
「……手ぶらとは、貴殿は俺を舐めているのか? 我が国にいる狂信者と同じと考えているのなら甘い!」
布が切り裂かれる様子はなく、かわりに風を切る音がした。
王は剣を振り上げたのだとわかり、すぐさま王太子の後ろへと駆け出す。
「ふふっ、僕をここで殺しますか? 同時にあなたは王位を失い、自国に混乱を招く」
いいんですか? と片方だけ伸ばした髪が揺れた。
「……なぜ剣を向けられ、平然としていられるのだ」
「アヴェリーを人質に取られては、僕は何もできませんから。それで、どうします? 殺しますか? それとも――僕を連れ去ります?」
罠だとわかっているだろう。
しかし、男はすでに魔王の手をとるほか、この場を安全に立ち去る道はない。もちろんわたしでもいいのだけれど、彼にとって価値ある存在は、未定の婚約者よりも王太子ただひとり。
「…………誤算ではあるが、王太子をもらいうける」
そう、彼にとってこの場面は早すぎたのだろう。
だからこそ、足元をすくわれた。
「アヴェリー、待っています」
魔王の手がわたしの肩をトンっと押す。
突然のことで、抗うこともできずわたしはかかる力によってその場に倒れた。見上げる魔王の姿は月あかりによく映え、あまりの美しさに手を伸ばしてしまう。
「……ああ、この手を掴めたら僕は世界でもっとも幸せな男になれるのに」
おとぎ話の一幕のようだ。
悪役にさらわれるお姫様。
それをみすみす逃してしまうのちの勇者。
でも、知っていて?
悪役が手中に掴んだものの正体は――魔王だと。
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