孫悟空について



 孫悟空は実によく動く猿だ。


 悟空は一瞬たりとも止まっていない。ひと時も休まない。奴の身に流れる血は、常に溶岩のように熱く滾っていて、活躍と冒険を欲していた。

 悟空はいつも日の出と共に目を覚ます。朝日が地平線を照らすと共に悟空の身体には力が湧き始め、早くも全身の細胞がうずうずと疼きだす。そして朝の美しい陽光、澄んだ空気をいっぱいに取り込んで、ぴょん、と飛び起きるのだ。


「やあ、なんと気持ちのいい朝だ! こんな日にいつまでも寝ているなんて、実にもったいない! さあ起きろ、寝坊助ども。今日も天竺を目指して行くぞ!」


 そう言って、まだ寝床にしがみ付いていたい俺を暴力的に叩き起こそうとするのである。

 愚かな猿め。よく晴れた日ほど朝寝が気持ちいいというのに。それを味わおうとしない奴の神経が、俺にはいつも理解できない。


 とにかくいつも元気一杯な孫行者であるが、殊に彼を興奮させるものが、妖怪たちとの戦いだった。

 孫行者の戦いは、それはそれは壮大だ。牛魔大王、太上老君、金角・銀角大王――今まで数々の強敵が悟空の前に立ちはだかったが、そのことごとくを打ち破ってきた。彼はまさに武闘の天才、戦の申し子だ。

 しかも、立ち向かう敵が強ければ強いほど、彼は体毛の末端まで、歓喜に震えるのである。


 悟空はこの困難な旅路の中で、一度として弱音を吐かず、泣き言も言わなかった。どんなに危機的な状況に陥り、困難と苦痛の豪雨に打たれようとも、彼の勢いは止まらない。

 それどころか、益々両目の輝きが増していくのである。そんな時の悟空ほど、無邪気で、爽快で、勇ましいものはなかった。


 俺は戦うことは嫌いだ。

 多少武術に覚えはあるが、決して戦いは好きじゃない。

 何故なら、戦いは痛い思いをさせられるし、第一、疲れる。出来ることなら辛くて苦しい戦いなんか避けて、のんびり昼寝でもしていたい。


 そう考えるのが全生物の共通の感覚だと思うのだが、孫悟空はそうではなかった。

 彼は怠惰を嫌い、刺激を好む。それもとびっきり危険な刺激を。


 まだ互いの事をよく知らない頃、俺はそんな孫行者が不可解でならなかった。

 何故、進んで困難の中に飛び込んでいくのか。何故、喜んで苦痛を受け止めに行くのか。さっぱり意味が分からない、と。


 だが近頃、何となく分かってきたことがある。

 孫悟空は、そういう俺が疎ましく思う事柄に、ある種の快楽を見出しているのではないか、ということだ。


 俺はこの世に存在する、多くの楽しき事、気持ち良い事を知っている。

 夏の木陰での午睡。晩秋に味わう月見酒。宴の席での歌と踊り。四季折々の食べ物を食らう楽しみ。そして、どんなに味わっても味わいつくせない、女人の美しさ――


 自慢ではないがこの八戒、この世のあらゆる事物の楽しき事、その探究心は誰にも負けないと自負している。極楽に生まれ変わって霞を食って暮らすくらいなら、多少の苦しみがあってもこの世の方がましだ。そう思うほどに、深くこの世を愛している。


 しかし、そんな俺でも知らない未知の快楽を、孫悟空は知っている。


 悟空は決して美男ではないが――いやむしろ、ひどい不細工と言っていい――先述した手ごわい妖怪変化どもに挑む時、彼の姿はまことに美しい。

 内なる興奮に躍動する筋肉、芸術的とも言える洗練された体捌きと、卓越した法術の数々。彼の肉体は喜びの声を上げ、躍動し、その瞬間の生を謳歌する。戦いの中に身を投じる悟空の姿は、俺の貧弱な語彙ではとても表現することができないくらい、まぶしく輝いている。


 そんな時、悟空の顔は汗ばみ、赤い顔をさらに赤く火照らせていることに、俺は目ざとく気が付いた。

 それはある種の、陶酔の表情だった。


 純粋で無垢な高揚。美食を味わうのとも、女人を抱くのとも異なる、高次元の爽快感――輝く彼の瞳の中には、確かにそれがあった。

 それは戦いの中で至る、無我の局地でしか味わうことのできない、高貴な快感であった。

 そしてそれは、俺がまだ味わったことのない快感だった。


 俺はとてもじゃないが、悟空のように戦いにのめり込むことは出来ない。やはり苦痛は恐ろしいし、戦いは面倒だ。己の身を死の危険に晒してまで、彼の境地に到達しよう、とは思わない。


 しかし、悟空が垣間見せる快感の表情、あの全身で生の喜びを甘受する姿を目の当たりにすると、何だかひどく、彼が羨ましくなってしまうのだ。



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