八戒の憂鬱

矢口 水晶

ある日の昼下がりにて



「さあ、やってみろ、八戒! 全身全霊の気持ちを込めて、龍になりたいと思うんだ!」


 ある日のことだ。昼餉を終えて師父が松の木の下で休まれている間、俺は悟空に原っぱへ連れ出され、変身の術の練習をさせられていた。

 少し離れたところで、草の上に寝転んだ悟浄が俺たちの様子を眺めている。


「いいか、心の底から本当に、本当に集中するんだ。全部の雑念を捨てて、とことん、本気になるんだぜ」

 悟空は拳を振り上げながら、原っぱに響き渡るような声で怒鳴った。この気合いと生命力にあふれた猿は、妖怪との闘いだって、変身の術の指導だって、とことん本気だった。


「よし!」

 俺は両目をつぶり、教えてもらった通りに印を結んだ。そして全身の神経を統一させる。すると、俺の身体がぶるぶると水面のように震えだして、瞬く間に形が変わった。


 眼を開けると、俺は五尺ばかりの青大将になって草の上を這っていた。それを見ていた悟浄が、「ぶふっ!」吹き出した。


「なんだあ、そりゃ! そんなもんにしかなれないのか、お前は!」

 悟空は呆れたように言って、手で目元を覆った。

「おかしいなあ、言われた通りにやっているんだけどなあ」集中が切れると、俺は元の姿に戻った。


「駄目だ駄目だ、てんで気持ちがこもっちゃいない。いいか、本当に真剣に、龍になりたい龍になりたいって、思うんだ。お前という存在自体が消えてしまうくらい、真剣にそう思うんだぜ」


 よし、と俺はもう一度印を結ぶ。そして、さっきより真剣に、さっきよりも本気で、龍になりたいと思いつめた。

 それなのに、俺が変身したものは、さっきよりももっと奇妙なものだった。


 頭は錦蛇なのだが、腕が小さな前足に変わって、出来損ないの大蜥蜴のような姿になっていた。おまけに、腹はブヨブヨと膨れたまま。

 頑張って短い足を動かして這ってみると、陸揚げされた山椒魚のような格好になって、何とも情けない気持ちになった。

「ブハハハハ!」

 そんな俺の姿を見て、悟浄が腹を抱えて笑い出した。


「もういい、止めろ!」

 悟空の怒声が轟いた。


「まったくなっちゃあいない! お前の龍になりたいという気持ちが、中途半端だからそんな不格好なものにしかなれないんだ! だからお前は駄目なんだ!」


「そんなことないさ。俺は、一生懸命やっているぞ」

 俺は元の姿に戻って、ぼりぼりと頭を掻いた。


「だったら、どうしてちゃんと龍になれないんだ? なれていないということが、お前が精神統一できていない、何よりの証拠じゃないか」

「そりゃあひどい、そいつは結果論だ。変身できないからって、俺のひたむきな気持ちまで否定されちゃあ、堪らないよ」

 俺は、ふん、と拗ねて鼻を鳴らした。


 俺は、悟空の言いようが気に食わなかった。

 俺はちゃんと集中している。龍になりたいと一生懸命に考えている。それでも龍になれないのは、俺の気持ちが足りないからじゃなくて、技術とか経験とか、もっと別なところに原因があるはずなのだ。


 そもそも、俺は悟空の教え方に問題があると思っていた。

 この猿ときたら、「本気になれ」とか「集中しろ」とか、言う事は精神論ばっかりで、技術的なことは何一つ教えちゃくれないのだ。

 こんな奴は、指導者としては失格だと思う。


「何が結果論だ、この馬鹿。一人前に反論したかったら、結果をだしてからにしやがれ」

 そう言って、ぼくん! と悟空は俺の脳天に拳を叩き落した。

 悟空は俺を殴るにしても全力だ。その衝撃たるや、大岩を断ち割る雷が落ちたようだった。

「ふぎゅう!」

 俺は堪らず、草の上にひっくり返った。


 眼前に広がる蒼天は、雲一つなく澄み渡っていた。ぽかぽかと優しく微笑むお天道様。花を追って舞い飛ぶ春の蝶。さわさわと青草を撫でる、爽やかな風の匂い。季節は春の盛りだった。

 どうしてこんなにも気持ちのいい昼下がりに、法術の練習などしなければならないのか。

 昼餉の後といったら、昼寝に決まっているのに。我が身が受ける理不尽な仕打ちに、俺は悲しくなってきた。


 見ろ、師父だって松の木陰で、こくりこくりと櫂を漕いでおられるではないか。春のぬくもりに包まれて、現と夢の境目に揺蕩う姿の、なんと気持ち良さそうな事か。


 嗚呼、俺も辛いばかりの練習なんか放り出して、草の上に寝そべりたい。小鳥のさえずりに耳を澄ませながら、暖かな日なたの中で微睡みたい。春の午睡の、なんと喩えようのなく、素晴らしい事だろう。これで美しい女人が膝枕などしてくれたなら、それこそ天にも昇る心地で――


「おいこら、八戒! いつまで寝ているつもりだ!」

 今度は強烈な蹴りが、横尻に入った。

 俺は「きゅうっ」と子豚のような悲鳴を上げて、草の上を転がるのだった。

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