第26話:呪いのビデオ
階段をのぼって自室のドアの前に立つ。ノブに手をかけたところで、ふいにその手を止める。耳をそば立てると、中からすすり泣くような声が聞こえた。
俺はゆっくりとノブから手を離し、その場に立ち尽くした。
あかりが泣いている。
親父のクラスメイトとはいえ、今は俺と同じ高校生なのだ。さっきはきっと精一杯強がっていたんだろう。自分の未来を、それも希望していたのとは異なる未来を突き付けられたあかりにかけてやれることばを今の俺は持ち合わせていなかった。
静かに踵を返し、気持ちの赴くままに歩く。
足は自然にそこに向かっていた。
ドアを開ける。真っ暗な部屋の奥の方で目印のようにぼおっと光るものがある。テレビだ。あの日、あかりが現れてから、なんとなく電源を切ることが出来ないでいた。このブラウン管の映像を消してしまうことは、あかりという存在をも消し去ってしまうような気がして、結局そのままにしていたのだ。液晶に触れると指先に薄くほこりがついた。画面はあの日のまま、からっぽの廊下を映しつづけている。試しにそばにあったリモコンをいじってみた。早送り、巻き戻し、再生。でも、結局どのボタンにも画面は反応しなかった。まるで――
「呪いのビデオだな」
口に出してみて、同じように自分の中で止まったままのそれを連想する。
そして、ゆっくりと目を閉じた。
それを見るまで呪いは解けないし、それを見たら呪われる。前に進むためには呪われる覚悟でビデオを見ないといけないのだろう。呪いの解き方はそれから考えるしかない。
深呼吸をする。心臓の脈打つ音が次第に加速していく。まるで耳元で鳴っているようだった。瞳を開く。しばらく閉じていた目は闇に慣れたようで、灯りをつけなくとも物の配置がわかるようになっていた。
机の引き出しの奥。そこにはかつて強引に押しこんだminiDVテープがあって、八月二四日、渚碧海の最後の姿を収めたものだ。一度も見返したことのないテープを今てのひらの上に乗せて、しかし俺はすぐ途方に暮れた。
「ビデオ、深大寺が持ってんじゃん……」
握りしめた拳から力が抜けていく。
そのときだった。
ドアが二度、ノックされた。
「アニキ、いる?」
こちらの出方をうかがうような声。
こういう訊き方をするときの芽衣子は決まって俺に何かお願いがあるときだった。
「あのさ、文化祭の出し物でテニスの女王様っていうミュージカルやることになったんだけど、練習風景をカメラに撮っておこうと思ってて……」
思ってて、何だ? というかテニスの女王様ってまさに芽衣子のためにあるようなタイトルだな。ラケットで玉を打つっていうことばが別の意味に聞こえてくるから不思議だ。
芽衣子は歯切れの悪い調子で続けた。
「でね、ちょっとカメラの使い方を教えて欲しいんだけど……っていないの?」
俺は返事をせずにてのひらの中のテープを見つめた。今それどころじゃねーっての。そう思って気づく。
「お前、今カメラ持ってんの?」
「あ、うん。学校から借りたやつがあるけど……っているんなら返事くらいしろ!」
渡りに船とはこのことだ。俺はドアをそろそろと開け、芽衣子の持っていたビデオカメラをひったくった。
「これ、ちょっと借りるぞ!」
「えっ!? ちょっとアニキ!?」
再びドアを閉めて鍵をかける。がちゃがちゃとノブが回され扉がどんどんと叩かれる。ドアにもたれかかっている背中にその音が響くが、俺はそれを無視して芽衣子から奪ったビデオカメラにテープをセットした。巻き戻しボタンを押すと、キュルキュルと磁気テープが擦れる音が聞こえた。
ごくりと唾をのみこみ、意を決して再生ボタンを押す。画面にはノイズが走りやがてあの日が再生された。
喉の奥にコーヒーを飲んだあとのような苦みが広がる。懐かしさでもない、悔しさでもない、哀しさでもない、情けなさでもない。それらすべてをミキサーに入れて混ぜ合わせたような感情。
ただひとつ言えるのは、これは過去で、だから一時停止も早送りも巻き戻しだってできるけれど、行きつく先はあらかじめ決められてしまって変えることはできないってことだった。
「……アニキさ、映画撮るの?」
一枚板を挟んだ向こう側から控えめな声が届く。
「あかりちゃんから聞いたよ。でも、アニキしぶってるって」
芽衣子がしゃべるたびに、薄いドアは小刻みに震えた。
「あたしは正直別にアニキが映画撮ろうと撮るまいと構わないけど、今のアニキ見てるのはちょっとしんどいよ。映画は辞めたとか言って、でもキックオフでバイト始めて。結局そうやって映画にしがみついてるだけじゃん。好きなら好きでいいじゃん。お父さんもそうだったんでしょ? あたし、まだ小さかったからあんまり覚えてないけど、映画が好きで、ただ好きで、いい歳してスクリーンの向こう側に行くとか言っちゃうくらい好きだったお父さん、かなり痛いと思うけど、ちょっとだけかっこいいなって思うよ。お母さんも話しながら呆れてたけど、ちょっぴり誇らしそうだった。まぁおかげであたしはこんな迷惑な名前つけられちゃったわけだけどさ」
ははっと芽衣子は笑う。
ビデオカメラの小さな液晶の中で、渚の背中が少しずつ遠くなっていく。指先が液晶にぶつかり、こつっと小さな音を立てた。届かないことはわかっていても、俺はその背中を指で追っていた。
「アニキがあの事故に責任を感じてるのはわかる。だけどそのせいで自分に嘘を重ねていくのは間違ってると思う。その嘘は誰も幸せにしない。嘘は……映画(フィクション)は誰かを喜ばせるためにあるんじゃないの?」
世界で一番優しい嘘。それが映画の中にはあるとかつて親父は言っていた。
画面の中の渚はもう海の中に消えてしまった。ビデオカメラは何事もなかったかのように、寄せては返す波を映しつづけている。
映画は、この映画は渚を喜ばせることができたのだろうか。
答えは出ない。
だって、もう渚はいないから。
だけど、渚はいる。
いないけど、いるのだ。
ぽたり、とその小さな液晶に水滴が落ちた。視界が滲む。
どんなに忘れようとしても忘れられなかった。忘れようとすればするほどその姿はくっきりと瞼の裏に浮かび上がった。
「どうしたらいいんだよ」
思わず声が漏れた。
どうしたら、俺はあの夏を終わらせることが出来るんだろう。
しばらくの沈黙のあとで、芽衣子が意を決したように呟いた。
「あのさ、アニキ」
「どうした?」
「笑わない?」
「何が?」
「いいから。笑わない?」
俺は頷く代わりに、もたれたドアに頭をこつんとぶつけた。
「……あぁ、笑わない」
ドアの向こうで、芽衣子が大きく息を吸うのがわかる。
「あたしね、実は中学でテニス始めたの、あのマンガの影響なんだ。中学生にもなって何言ってんのって感じで恥ずかしいんだけど」
あのマンガって言うのは、王子様が出てくるあのマンガのことだろう。俺も読んだことがある。あまりにも非現実的な必殺ショットの連続で、テニスというスポーツに対する冒涜にすら感じた。いや、面白いんだけど。
「もちろんマンガはマンガだし、現実は現実。あんな魔球みたいなのいくら練習しても打てたりしないしね」
芽衣子はそこでくすりと笑った。
「だけど、新しい世界がそこにはあるって思ったの。あのマンガを読んだとき、あたしはその世界を見てみたいって、そう、思ったの」
「それで、テニス部に入ったと」
「そう。フィクションにはさ、きっとそういう力があるんだよ」
俺は、液晶の中、切り取られたその世界を見つめる。
「嘘を、本当にしちゃうような、そんな力がさ」
背中がじわっと熱くなる。ドアの向こうの芽衣子の体温が伝わってくるみたいだった。
嘘を本当に。俺はあかりのことを思い浮かべていた。
ビデオテープの中から女の子が出てくるっていう、嘘みたいな本当の話。
でも、やっぱりそれは嘘なのかもしれない。幻なのかもしれない。夏には魔物が住んでいる。父が失踪して、渚碧海が海の中に消えて、木下あかりがビデオテープの中から出てきて、渚深青と教室で出会った。
全部、夏の魔物の仕業なのかもしれない。
だけど。
だとしても、少なくとも、それは俺にとっては本当なのだ。嘘でも幻だとしても、俺はその俺の本当をちゃんと本当にしたい。嘘になんかしたくない。なかったことになんてできない。
手の中で巻き戻された過去が再生される。再び、生きる。生きている。まだ、生きているのだ。さよならも出来ずに。
「……芽衣子」
「うん?」
「ありがとな」
「……今度アンリ・ルルーのチョコレートパフェおごってね」
「あぁ」
「ガトーショコラつきで」
苦笑していると、視界の隅で何かが動く気配を感じた。顔をあげて部屋の奥に目を凝らす。気のせいか、ブラウン管の灯りが強くなっているような気がする。
腰を浮かせ、小走りで駆け寄った俺は思わず息を呑んだ。
「……進んでる……」
何をしても停止したままだった画面が、次のシーンを映し出していた。
俺は左隣に鎮座している父の机を見遣った。
それから、もう一度目の前の画面を見つめる。
そこに映っていたのは。
「やっぱり、この部屋だ……」
椅子に座った先生役の父がこちらを向いて不敵な笑みを浮かべている。それはまるで、何かを試すかのような笑みだった。
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