第24話:逃げた先にあるもの

「出来た……!」  

 額から噴き出た汗を首に巻いたタオルで拭ってから時計を見ると、ちょうど開店十五分前になるところだった。

「なんとか間に合った……」

 ふー、と大きく息を吐く。店長の大谷さんから電話が来たのが昨日の昼過ぎ。そこから材料を買い集めて、お題に合ったタイトルを選定。設けたエリアに手作りPOP等で装飾を施していく。それがようやく今終わったのだ。

 数歩後ろに下がって全体を見てみる。

「うん、いい感じいい感じ」

 そこには大きく縁取られた文字で『夏こそ観たい! サマームービー特集』と掲げられている。

「おー、いいじゃねぇか。上出来上出来」

 そこに、ちょうど大谷さんがやって来る。

「上出来上出来、じゃないですよ大谷さん。すげー苦労したんですから」

 頼むだけ頼んでおいて、大谷さんは一切手伝ってくれなかった。どう考えてもブラック企業の所業。もし秋にもやることになったら絶対に断ってやる。

「でも満足げな顔してるぜ? ニヤけたツラしやがって」

「べっ、別にニヤけてなんかないですよ……俺看板出してきます」

 でも、妙な達成感があるのは事実だった。それはここ数日、出口のない同じような問いを繰り返し繰り返ししていたからなのかもしれない。

 渚碧海とそっくりな少女――渚深青――と出会ったあの日から、もう五日が経っていた。その間していたのは出口のない問いだけだった。あれはいったい誰だったのか? いや、答えは出ている。渚深青という女の子だ。あれだけ顔が似ているということは、恐らく渚には双子の姉妹がいたということなのだろう。だが、同じ学校に通っていたのは偶然なのだろうか? 偶然ではないとしたらどういうことなのだろうか? 疑問は疑問を呼び、気づけば朝になっていることもあった。

 そして何より一番の問いは、俺は何をそんなに考え込んでいるのかということだった。

 渚碧海には渚深青という双子の姉妹がいて、俺と同じ高校に通っている。どうしてその事実だけで完結しないのか。俺はあの日、いったいどうして渚深青を追いかけて走ったのか。

 絶対に解けないパズルをやらされている気分だった。だが、そんなものはもうパズルではなく、ただの拷問に等しい。

 大谷さんはそんな俺の表情を読み取ってあんな作業を命じたのだろうか。確かに昨日からは余計なことを考えている暇はなくただただ作業に没頭できた。

「……まぁ、そんなわけないか」

 俺は独りごちて看板を表に出してシャッターを開けた。


 サマームービー特集キャンペーンの効果か、客入りはいつもの倍近かった。あっという間に夕方のシフト交代の時間がやって来て、休憩室に転がりこむ。すると、室内はいつもと様子が違い、まるで葬式みたいに静かだった。

「あれ、今日は映画観てないんですか?」

 煙草を吸いながら一人呆けているその横顔に訊ねる。

 振り向いた栞さんの瞳はどこか憂いを帯びていて、俺は思わずどきっとしてしまう。

「アキラさ、愛ってなんだろうね?」

「……あ、愛、ですか」

「そう、愛よ愛」

「いや、まだちょっとわかんないですね。俺には壮大すぎて」

「じゃあ教えてあげる」

 栞さんはそう言って腰を上げ、もたれかかるようにして俺に抱きついてきた。

 香水の甘い香りに混じって煙草の残り香が鼻をくすぐる。それからかすかなアルコールの匂い。密着した栞さんの身体は女性特有の柔らかさを持っていて、それは考えるよりも速く俺の感覚を刺激する。後ずさる俺の背中はやがて壁にあたり、こつ、と小さな音を立てた。

「ちょ、酔ってるんですか栞さん!?」

 瞬間、全身が痺れるような感覚に陥って、小さく声をあげてしまう。

 何をされたのかわからない。膝から力が抜けていく。

「これが、愛よ。人には誰でもどこかにスイッチがついていて、それは人によって場所も違うし、大きさも違う。スイッチボタンがすごく硬い場合もある。何回も押さないと反応しないこともある。だけど、一度それが反応してしまうと抗うことができないもの、それが、愛よ」

 甘噛みされた耳が火照ったように熱を帯びている。それはやがて顔全体に広がっていった。目の前がくらくらする。まるで酔っぱらってしまったみたいに。そしてちょっとだけ懐かしいような感じがした。何かに似ている。でも、何に?

「でもそれって先に反応しちゃった方が負けってことよね。結局愛しちゃったあたしの負けってことなの? ねぇそうなの? うっ、うっ、うえーん」

 俺の混乱をよそに、栞さんは今度はうずくまって泣き始めた。

 泣き崩れる栞さんをなだめつつ話を聞いていると、どうやら栞さんには今好きな人がいて、そしてその人には別の好きな人、というか結婚している人がいて、だけど栞さんとも付き合っていて、とどのつまり栞さんは今絶賛不倫中ということなのだった。

「でもね、あたしだって最初はそんなつもりなくて、だって結婚してる人だし、不倫がいけないとは思わないけど、でもその先に幸せが待ってる可能性はすごく低いじゃない? だから、そんなつもりなかったんだけど」

 つもりはなかったけど、でも好きになってしまった。栞さんがラブストーリーを好んで観るのは、苦難を乗り越えたカップルたちの姿と自分とを重ね合わせていたからなのかもしれない。

 だけど、結局現実は現実だ。

 栞さんは今日出勤する道すがらでその彼を偶然見つけたらしい。声をかけようと上げかけた手をすぐに下げたのは、その彼が一人ではなかったからだ。彼は奥さんと小学生の娘とともに商店街を歩いていた。その顔は幸せに満ちていて、普段自分に見せる笑顔とは異なる種類のものだったという。

「だからってあたしは退いたりしないよ。退けば老いるぞ臆せば死ぬぞ、ってね。それに、逃げたからって楽になるとは限らない。もし逃げた先がことごとく辛い場所だったとしたら、残った道は結局それと立ち向かった先にしかないんだよ」

 涙をパーカーの袖で拭い、栞さんは立ち上がる。

 俺は呆然とその姿を見送る。

 いったいなんだったんだ。ひとりで落ち込んでひとりで泣いてひとりで立ち直ってる。

 誰もいなくなった室内で俺はさっき栞さんに優しく噛まれた耳に触れてみた。

 それはまだ少しだけ熱く、まるで自分とは別の生き物の一部のようだった。

『もし逃げた先がことごとく辛い場所だったとしたら、残った道は結局それと立ち向かった先にしかないんだよ』

 俺は、栞さんの言葉を思い出していた。

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