第3章:(タイトル未定)

第23話:「死のうと思ったときすぐに死ねるように」

「夏には魔物が住んでるの」

 二〇一四年の夏、渚碧海は俺にそう言った。

 それは撮影が半分程終わったある日の午後のことだった。

 渚は口数が少なく、自分から話しかけてくるようなことは滅多になかったからそのときのことはよく覚えている。渚があんなに長時間話をしたのはあれが最初で最後だった。

「えっ? 魔物? 魔物が夏に住んでるの?」

 あまりにも突然のことだったので俺はオウム返しのような問いを発してしまう。

「そう」

 渚は手に持った棒アイスを眺めながらつまらなそうに答えた。アイスは溶けかかっており、ぽたぽたとその甘い汁をコンクリートに染み込ませていた。そこに数匹の蟻が群がっている。

「それで? その魔物はなんでまた春でも秋でも冬でもなくて夏に住んでるの?」

「あげる」

「あげる?」

 渚との話が噛み合わないのはいつものことだった。渚は必要最低限の単語しか発しないし、また、文脈というものとも無縁のようだった。

 目の前にすっと棒アイスが差し出される。どうやらアイスをあげるということのようだった。俺はアイスと渚を見比べる。当然、このアイスは先程まで渚が口にしていたものだ。思わず渚のくちびるに目がいってしまう。それを誤魔化すように乱暴に渚の手からアイスを奪い取って、俺はなんでもないことみたいにそれを口に入れる。

 それを見届けてから、渚は再び口を開いた。

「魔物は暑いのが好き」

「暑いのが好きってまた変わってるな」

「あれ」

 渚は道路の先を指差した。

「陽炎」

 確かにそこにはゆらゆらと揺れる陽炎が見えた。

「魔物はあれと一緒に現れる」

「陽炎と一緒に?」

「陽炎と一緒に」

「どうして?」

「知らない」

 渚は右手首に巻いた赤い毛糸を左手でもてあそびながら言った。

 いつだったかどうしてそんなものを手首に巻いているのか訊いてみたら、

「死のうと思ったときすぐに死ねるように」

 と回答が返ってきた。真顔で。そのときは渚でも冗談を言うんだなと思っていた。だって、そんな細い紐ではいくらなんでも人の体重を支えきることはできないだろう。でも、もしかしたらあれは本気だったのかもしれないと、今では思う。

「魔物は人の心を食べるの」

「心を食べる? それは何かの例え話?」

 渚の頬がほんの少しだけ膨らむ。最近気づいたんだけど、これは渚の怒っているときのサインだ。

「ごめん。そうか、魔物は心を食べるのか。それで心を食べられた人はどうなっちゃうんだろう?」

「人じゃなくなる」

「その人も魔物になっちゃうってこと?」

「違う」

「じゃあどうなっちゃうの?」

「わからない」

 渚は困ったように眉をひそめた。それから、絞り出すような声でこう言ったのだった。

「わからないけど、人じゃなくなるの」

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