第22話:渚碧海

 渚碧海が死んだのは、去年の八月二四日のことだった。その日は朝から快晴で、真夏日を更新する程の気温だとテレビのアナウンサーが伝えていた。絶好の海日和ってやつだ。

 だから、俺たちは意気揚々と海へ向かった。向かったのは千葉の九十九里浜だった。浜辺の砂は白くさらさらしていて、砂というよりも粉のようだった。

 九十九里浜に来たのには理由があった。映画のラストシーンを撮るためだ。

 映画の筋書きはこうだ。


 少年(みつる)はある日、放課後の教室で見知らぬ少女(水麗すみれ)と出会う。

 水麗は充のクラスメイトではなく、また、校内でも見かけたことのない顔だった。

 水麗は言う。自分は実は海から来たのだと。人間の世界を見てみたいと思って陸にあがった人魚なのだと。

 充はそれを聞いて不審に思う。人魚なんておとぎ話の中だけの存在だと。しかし、よくよく見ると雨が降っているわけでもないのになぜか水麗の制服はびしょぬれで、それに、明日から夏休みだというのに充の夏の予定は見事に白紙だった。充は水麗に人間の世界を見せてやることにした。なんせ夏休みは始まったばかりなのだ。

 そうこうしているうちにやがて水麗に迎えがやって来ることになった。海に帰ることになったのだ。水麗に恋心を覚え始めていた充は水麗にここに残ることを勧めるが、水麗は首を縦には振らない。

 そして、ゆっくりと水麗は海へと帰っていくのだった。

 

 ラストシーンの撮影をする頃には現場の連携もスムーズに出来るようになっていた。渚は相変わらず口数が少なく表情も乏しかったので、どう感じているのかはわからなかったが、少なくとも俺は高揚していた。自分自身で映画を作っている。いなくなった父親にこの姿を見せつけてやりたかった。俺はスクリーンの向こう側に行くんじゃなくて、今ここにスクリーンの向こう側を作りだしているぞと、そう伝えたかった。

 俺は満ち足りた想いでいっぱいで、だから渚の変化に気づけなかったのだ。

「今日で終わりだな」

「終わり」

「撮影だよ。クランクアップってやつだ。長かったような、短かったような、不思議な時間だった。でも、渚が参加してくれて本当に助かったよ。ありがとう」

「まだ終わってない」

 その言葉がいったい何を意味するのか、当時の俺にはわからなかった。

「ん? そうだな。ラスト一カット残ってるな。海、冷たいと思うけどちょっとだけ我慢してな。なるべく一テイクで終わるようにするから」

「監督、水麗はどうして海に帰ったの」

 きっと、渚は終わらせたくなかったのだろう。

「どうして、って……まぁ人魚だったら海に帰るのが自然だからなぁ」

「でも、もしかしたら水麗は人魚を止めて人間になりたかったのかも」

 もしかしたら渚は人間を止めて人魚になりたかったのかもしれない。

「うーん、わからないけど、充は人魚の水麗が好きだったんじゃないかな」

「そう……」

 だから――。

 陽が落ちかけた海辺でのラストカット。

 鮮やかな橙の光が青い海を包む込むように照らして、その中に渚は一人進んで行く。ちょうど水位が腰のあたりまでになったところで俺はカットの声をかけた。しかし、渚はその足を止めなかった。水位が腰から胸の位置になったところで狂ったように心臓がばくばくし出した。俺はもう一度カットの声を上げた。それでも渚が踵を返すことはなかった。慌てた俺は急いで海へと飛び込んだが、そのときにはもう渚の姿はどこにもなかった。渚はまるで本当に人魚だったかのように静かに、ゆっくりと海の中へと消えてしまった。

 だが、当然渚は人魚ではない。だから、事は警察沙汰におよんだ。どれくらいの期間と人員がその捜査にかけられたのか、俺は知らない。俺が知っているのは結局死体は見つからなかったという事実だけだ。

 葬式は行われなかったと聞く。行われていたとしてもきっと俺は怖くて参列出来なかっただろう。

 俺はしばらくの間父の書斎にこもって映画ばかり見ていた。この世界にスクリーンの向こう側なんてなかった。結局、スクリーンの向こう側は文字通りスクリーンの向こう側にしか存在しないのだ。灯りの消えた部屋の中で俺は後悔していた。渚に映画に出てもらったことを。映画を撮り始めたことを。

 結局映画は完成しなかった。映画の完成が映画の終わりならば、俺の映画は終わらなかったのだ。終われなかった断片たちが、今もまだ俺の中でもがいている。

 行くなと、そう言えばよかったと思った。そう脚本に書いていればと思った。水麗が人魚でも人間でも関係ない。ここにいろと、そう伝えればよかった。


「……アキラ? ねぇアキラってば」

 肩を揺すられて我に返る。気づくと俺は手にした八ミリを構えていた。ファインダーの向こう側にはがらんとした放課後の教室が映っているだけだった。

「あれ……? 俺、なんで……?」

「あれ? じゃないわよ急にカメラ構えてどうしたの……って、えっ!? 泣いてるの?」

 驚いたあかりが俺の顔を覗き込んで言った。自分の頬に触れると湿ったものがそこを伝った跡がある。

 泣いている。どうして? どうして俺は泣いているんだろう。

「さっきの女の子がどうかしたの?」

「……っ! あかりにも見えたのか!?」

「見えたのかって、そりゃ見えたわよ」

 そうだ。さっきまで確かにそこにいたはずだ。渚碧海が。あれは幻じゃなかった。あかりだって見ている。幽霊なんかじゃない。人魚でもない。人間だ。

 教室を駆け出る。

「ちょっと、今度は何!?」

 あかりの叫び声はひとまず無視する。渚渚渚。渚碧海がいる。生きている! 俺は階段を二段飛ばし三段飛ばし四段飛ばしで降りて行く。渚の背中を探して走る。普段運動をしていない身体は早くも悲鳴を上げ始め、吐いた息を吸うだけの単純なことが上手くできないでいる。玄関まで辿り着いたときにはその場にへたりこんでしまった。

 渚の背中はどこにもなかった。

 あの日と同じように。

 行きとは違い重い足取りで教室へと戻るとあかりがどこか不機嫌そうにぼそっと呟いた。

「あの子、渚さんって言うのね」

「……!? なんでそれを!?」

「さっきあの子が立ってた席、ここだもの。ほら、名前」

 そう言って座ってる椅子の背もたれを指差した。

 あかりの背後に回り込んでそれを確認する。

 そこには確かに渚という文字が記されていた。しかしその後に続く文字。それは見知らぬものだった。

 そこにはこう記されていたのだ。

 渚深青なぎさみお

「しっかし全然思い出せないわ」

 くるりと回りながら教室を見渡すあかり。

 そんなあかりを見るとはなしに眺めていると、

「アキラ、あの子は撮るのにわたしのことは撮らないんだね」

 目が合ったあかりにそんなことを言われた。

「深大寺くんは委員長さんに夢中でアキラはさっきの子に夢中ってわけ? はーあたしってば可哀想。孤独だわ」

「別にそういうわけじゃないって」

 取り繕うように笑ってカメラを構える。フォーカスをあかりに合わせようとしたところで異変に気づいた。

 一度、ファインダーから目を外す。

「……?」

 あかりが小首を傾げこちら見つめている。

 俺はもう一度ファインダーを覗き込む。

「おいおいどういうことだよ」

 試しに自分の手元にカメラを向ける。そこには小さなごつごつとした手の甲があった。

「どうしたの?」

 声の主に俺はカメラをもう一度向ける。

 しかしやはりそこには何も映っていなかった。

「なによ、黙っちゃって。もしかしてあたしがカメラに映らないとか?」

 あかりはおどけたように言ってみせた。

 図星だった。言葉に詰まった俺は押し黙ってしまう。

「……ちょっと、冗談のつもりだったんだけど」

「……ごめん」

「ごめんって、別にアキラが謝るようなことじゃないでしょ? でもなんでだろ? もしかしてあたしがビデオの中から出て来たことと関係してるのかな」

 わからない。わからないことだらけだ。

 だけど、そのときの俺はその「わからない」ということを理由に色んなことをうやむやにしてしまっていたんだろう。本当に必要なのは、わかるかわからないかじゃなくて、俺自身がどうしたいのか、だったのに。

 夏には魔物が住んでいる。

 俺は河瀬先生の言葉を思い出していた。

 そしてそれはまた、かつて渚碧海が俺に残した言葉でもあった。

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