第21話:それはまるで品のいい黒猫のような

 ミゾコーには校舎が二つ存在する。一つは普通科の生徒が授業を受けている本棟、もう一つが音楽や美術を専攻する芸術科が入っている別棟だ。昔は現在の別棟だけだったのだが、少子化が進む過程で新たに芸術科を設け、それにあたり校舎を新設したというわけだ。新しくできた芸術科の方が古い校舎を使っている理由は、赴任した教師陣が「こちらの方が落ち着く」と口を揃えて言ったからだという。

 別棟は本棟に対して南に直角に伸びる形で建てられている。芸術科が入っているだけあって、廊下の壁のところどころにペンキの色が染み込んでいたり、廊下に写真が吊る下げられたりでにぎやかだった。俺の通う普通科とはまた違う印象があって新鮮だ。

「いやー、こっちの校舎は随分と賑やかだね」

 どうやらあかりも俺と同じことを考えていたようだ。

「あかりが通ってた頃はどうだったんだ?」

「あたしが通ってた頃は……って今も通ってるんだけど、もっと普通だね。その分部室の中はすごいけどね。部員がみんな私物持ち込んじゃって、知らない、だけどすごく気の合う誰かの部屋、みたいになっててさ。顔出せばいっつも誰かしらいて、近所のビデオ屋から借りて来たビデオ見てたりマンガ読んでたり、ほんとそんな感じで。だけど最近はあんまり行けてないなぁ。こう見えてもあたし受験生なんで」

 忘れていたれけどあかりは三年生で、だから俺より二つ年上だった。

「受験生なのに映画なんて撮ってていいのかよ?」

「まぁ高校生最後の夏だしさ、やっぱ三年間の集大成ってやつ? 作っておきたいじゃん」

 話しながらあかりは階段をのぼっていく。まるで自分の庭を歩いているような軽やかさだ。

「どこ向かってるんだよ」

「ロケ地」

「ロケ地?」

「そ。ロケ地巡るって言って結局今日どこにも行けてないから、せめて一か所くらいはって思って」

 そういえばそんな話もしたっけ。ロケ地に行けば何か思い出すんじゃないかとかなんとか。学生が撮る映画なんてきっと似たりよったりなんだろう。そんなことがわかるのは俺もかつてその場所を使ったからだ。放課後、教室、窓から差し込む夕焼け、湿った草の匂い、振り返る少女。ちょっとだけ思い出してしまって俺は頭を振る。

 あかりは三階まで来たところで一度足を止め、それから廊下を左折した。迷いなく歩いて行くその背中はとても小さくて、二歳も年上なのが嘘のようだった。気丈に振る舞ってはいるが、あかりだって不安なのかもしれないとふと思った。 

「さて、着いたわ」

 あかりは廊下の奥から二番目の教室の前で足を止めた。顔がほんのりと上気している。少し興奮しているようだった。

 見上げると、教室札には1‐Cと書いてある。どうやら一年生の教室のようだ。

「そっか。今は一年生の教室になってるのか」

 同じように顔を上げてあかりはぽつりとこぼした。やはりここはあかりが通っている教室なのだろう。

「じゃ、開けるわね。失礼しまーす」

 がらがらと勢いよくドアを開く。途端、窓から差し込む夕日が目に飛び込んでくる。眩しさに一瞬手で目を覆った。そしてその手を降ろしたとき、次に俺の目に飛び込んできたのはありえないはずの光景だった。

 放課後。

 教室。

 窓から差し込む夕焼け。

 湿った草の匂い。

 そして。

 振り返る少女。

 どくん、と心臓が脈打つのがわかる。

 少女の顔には見覚えがあった。いや、見覚えがあったなんて生易しい言葉は適切じゃない。忘れることができない、できなかった顔だった。いや、顔だけじゃない。俺はこの場面シーンを知っている。かつて現実に存在して、今やスクリーンの向こうに消えてしまった場面シーン

 放課後。

 教室。

 窓から差し込む夕焼け。

 湿った草の匂い。

 振り返る少女。

 そこで少女はこう呟くのだった。

「はじめまして」

 俺は一瞬ここがどこなのかわからなくなる。

 ブラウスの白を際立てるような黒い髪は腰にかかるほど長く、窓から吹き込む風でさらさらと揺れていた。前髪は瞳の上に重たくのしかかっていて、その下に見える瞳は小さな顔には不釣り合いなくらい大きい。じとっとした目つきとゆるくカーブしている背筋。

 そう、それはまるで品のいい黒猫のような――。

 ごくり、と俺は唾をのみこむ。 

 そこに立っていたのは、死んだはずの渚碧海なぎさみうだった。

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