第20話:夏の魔物
「さらに、だ」
俺が読み終わったのを見計らって河瀬先生は続ける。
「部活動は『活動』とあるように何らかの活動報告を行うことが義務づけられている。その提出期限についても九月一日ということになった。まぁ、これは新たに同好会を設立する場合の話だが」
「そんな急な!」
「まぁ……な。ただ本来であればゴールデンウィーク明けには入部届けを提出するのが通例となっているそうだ。わたしも何度かお前に通告したたろう? とはいえ期限が明確ではなかったからわたしもそこまで強く迫ることもなかったがな」
九月一日といえば二学期の始まりだ。ということは夏休みの間にすべてを決める必要がある。宿題がまた増えてしまった。暗澹とした気分でうつむいていると頭上から声をかけられた。
「ん? それはなんだ? カメラか?」
顔をあげると河瀬先生は俺の左手を指差していた。つられて俺もそれを見つける。八ミリカメラだった。どうやら学校に来る前あかりから取り上げてそのままだったらしい。
「あぁ、そうです。さっきのあか……従兄妹が映画が好きなやつで、夏休みの間に映画を撮ろうって言ってて」
「……そうか、お前も映画を撮るのか」
河瀬先生はそう言って窓の外に目を遣った。横顔が夕暮れの橙に染まって、その光が眩しいのか、先生は少しだけ目を細めた。つられるようにして窓の外に目を向けると、グラウンドでは運動部の生徒たちがかけ声をあげならが走っていた。なんとなく、映画みたいだと思った。窓の枠がちょうどスクリーンのように思えたのだ。もしかしたら先生は昔のことを思い出しているのかもしれないと、そんなことを思った。
「それにしたらどうだ?」
「何がですか?」
「部活だ。まぁ、最初は同好会扱いになるがな。生徒五人と顧問が一人揃えば同好会の発足もできる」
「でも、活動報告が」
「さっき自分で言っていたじゃないか。撮るんだろ、映画を。だとしたらそれを活動報告としたらいい。四人くらいならなんとか集められるだろう」
「だとしても顧問が」
「わたしがやろう」
間髪入れずに河瀬先生は返す。
「そもそもこの件は明確に期限を設けなかったわたしの責任でもあるからな。顧問になるくらいのことはやろう。それに、」
にやりと悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「ちょうど先程の会議で夏休み明けからテニス部の顧問を任されることになってしまって困っていたところだったのだ。それではいよいよ土日の休みもなくなりかねない。可愛い黒沢のためにわたしが映画研究同好会の顧問になれば万事解決。と、そういうわけだ」
俺はため息を一つつく。結論はもう出ている。
「嫌です」
もう映画は撮らないと、そう決めたんだ。
撮ってしまえばそれは残って、残ってしまえばそれはいつか重荷になる。過去がいつまでも過去にならずに、一時停止を押されたみたいにずっと目の前にへばりつくことになる。化膿した傷はいつまで経ってもかさぶたができずに、だからいつまでも生々しい傷のままだ。
俺の返事を聞いた河瀬先生は、ふう、と長い息を吐いた。それからベランダを指し、「ちょっと外で話そうか」と言った。
外に出ると、熱のこもった空気と一緒に草の青々とした匂いが鼻をついた。さっき聞こえていた運動部の荒々しいかけ声は一気に間近になった。それは高校生らしい、とても健全な風景だった。
ジッ、という何かが擦れる音に振り向くと、河瀬先生が煙草に火をつけるところだった。
「先生、煙草吸うんですね」
「ん? まぁ、気分転換にたまにな」
そう言って煙を吐き出す先生の横顔は、見慣れた教室でのそれとはどこか異なって見えた。
「なぁ黒沢」
「はい」
「お前たちはきっと全力で反論するだろうが、わたしはときどきお前たちが羨ましくなるんだ。課題を与えられ、そしてそれをこなしていくことで着実に前に進むことができるお前たちのことが。そんな環境、大人になるとなくなってしまうからな。課題は自分で見つけるものになって、すべての選択を自己責任のもとに行わなければならなくなる。そして間違ったと思っていざ引き返そうと思ったときには、もう陽が暮れてしまっていて戻る道がわからなくなってしまうんだ。黒沢よ、わたしはときどき不安になるんだ。もうずっと前から間違った道を歩んでしまっているんじゃないかと。または、ずっと同じところを足踏みしているんじゃないか、とな」
先生はずっとグラウンドの方を眺めながら、独り言を呟くように話を続けた。カキ―ン、と甲高い音が響いた後、怒号のような歓声があがった。
「お前がどうしてそんなに頑ななのかはわからんが、その頑なさには理由があるのだろう。だが、もう一度本当にそれをしないという選択が正しいのか考えてみてくれ。それでもどうしても撮らないというのであれば、そのときは適当な部活に名前だけ貸してやればいいさ」
「……先生がそんなこと言っちゃっていいんですか」
「いいのだよ。なんでもかんでも全力でやる必要なんてないのさ。適当な方がいいときだってある。……さて、」
携帯灰皿で煙草の火を揉み消してから、先生はベランダの窓に手をかける。俺はそれに黙って続いた。
「宿題がまたひとつ増えてしまったな。まぁ、宿題なんて今しかできないから今のうちにたくさんやっておくのも悪くないだろう。話は以上だ」
河瀬先生はそう言ってぽん、と俺の後頭部を優しく叩いた。俺が余計なひと言を言ってしまったのは、そんないつもとちょっと違う河瀬先生の様子に調子を崩されてしまったからなのかもしれない。
「先生はたぶん、間違ってないと思いますよ」
「……うむ、ありがとう」
そむけた先生の顔は窓にぼんやりと映っていて、少し赤味がかっているのがわかる。
頭を下げて職員室を出て行こうとすると、
「気をつけろよ黒沢」
背中に声をかけられた。
「夏には魔物が住んでいる」
知ってますよ、と口には出さずに応えた。
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