第18話:気づくのはいつも手遅れになってから
数回のコールののち、通話口からは不機嫌な猫のような唸り声が聞こえた。
「すみません、先生、黒沢です」
「あぁ、黒沢か。どうした? もうわたしのことが恋しくなったのか?」
「あいにく恋しくなるほどの愛を感じてないんで」
思わず心の声が口から出てしまった。
「ほう……それは残念だ。ところで黒沢、夏休みを終わらせない方法を特別に教えてやろうか?」
電話の向こうで何かがミシミシ軋む音が聞こえるんですけど! 蝉じゃないよね!? 蝉ってミシミシ鳴いたりしないよね!?
殺される前に本題に話を移す。
「あっ、そうだ先生、委員長に聞いたんですけど、俺に何か用事があるとか」
「あぁ、そのことか……」
やや考えるような間があったのち、通話口から河瀬先生の声が届く。
「まぁ別に大した用ではないんだがな。どうだ? 今から来ないか? お前のことだし夏休み初日から退屈を持て余していたところだろう?」
「……先生、申し訳ないんですが俺はまだ自由を謳歌していたいのでご遠慮します」
人生初の「うち来る?」がまさか河瀬先生からになるとは……。嫌ってわけじゃないけどね! でもなんか行ったら最後婚姻届に判を押すまで帰してくれない気がする。あるいはそのまま二度と家に帰れない可能性まである。
「む、何を言ってるんだ? 自由はまさに謳歌しているところだろう。わたしもちょっとばかり退屈していたんだ。ちょうど先程会議が終わったところでな。お前の家からだと少し時間がかかるかもしれないが、学校まで出てきたまえ。茶くらい出してやろう」
「なーんだ学校か。そりゃそうですよね」
「当たり前だろう。お前、いったいどこだと思っ……」
そこまで口にして河瀬先生は黙ってしまった。なんとなく、赤面した河瀬先生の顔が浮かぶ。
「……黒沢、いい話を教えてやろう。戦時下、特攻隊はその特攻機に行きのガソリンしか入れていなかったそうだ。お前の買う切符も片道でいいぞ」
「死ぬとわかってて行く馬鹿がどこにいる!」
言い終わらないうちに電話は一方的に切られてしまった。行くも地獄行かぬも地獄、同じ地獄なら、
「まぁ、早いうちに片づけちまった方がいいか」
学校は自宅から電車を二本乗り継いだところにある。最寄駅の改札を抜けてから学校までは歩いて約十分。ドアツードアでだいたい一時間程度だ。もっと近くの高校ももちろんあった。だが、あえて遠くの高校を選んだのには理由があった。あの日、八月二四日に起こった事故以来、周囲の目の色が変わったように見えた。もちろん、彼らにそんなつもりはなかったのだと思う。ただ、態度のはしばしに俺は自分が糾弾されているように感じた。責任なんて大袈裟な言葉、あのときは理解できていなかったし、今もまだできていないと思う。でも、俺は責任を感じずにはいられなかった。俺のせいで。最初はただただ怖かった。次に深い後悔に襲われた。それから強い怒りがやってきて、最後はどうでもよくなった。どうでもよくないのにどうでもいいとしか思えない自分が情けなくて泣けてきた。すりむいた膝の傷口にはかさぶたができて、やがてそのかさぶたが剥がれて何事もなかったような姿を見せるのに、心にできた傷はいつまで経っても化膿したままで、だから忘れることができない。
気づくのはいつも手遅れになってから。
本当にその通りだと俺は思う。
たぶん、俺は好きになってしまっていたのだ。
そして、俺の心はあの夏に置き忘れられたままだ。
「次は~××~次は~××~」
車内アナウンスが高校の最寄り駅の名前を告げている。
生きていると嫌でも次がやってくる。止まっていることはできない。現実にあるのは再生ボタンだけなのだ。
隣で口を開けたまま眠りこけているあかりを起こし、改札へと向かう。
「あれ? 深大寺くんは?」
まだ半分夢の中にいるのか、あかりの口調はどことなく頼りない。
「今日の撮影分を編集するって言って家に帰ったよ」
「そっか。しかし深大寺くんってばほんとに委員長さんのことが好きなんだね。くーっ、いいなぁ青春だなぁまったく」
おとなしく眠ったかと思えば今度はこれだ。まるで子どもだ。
「ねね、アキラは好きな子とかいないの?」
あかりは小走りに駆けてきて、俺のシャツの裾を掴んだ。くいっ、くいっと二度引く。振り向くと顔中に好奇心を貼りつけた笑顔に迎えられた。
「い、いねーよ別に」
「あーっ! その反応はいるね! おてんと様は騙せてもあかりさんは騙せないもんね!」
「いねーよ」
「いるね」
「いねーっての」
急ぎ足で改札を抜ける。裾を掴んでいたその手が離れて、かすかに感じていた体温が遠くなる。
改札の向こう側、あかりは立ち止まってある物をこちらに向けていた。何を? カメラを。
「何撮ってんだよ」
「記録」
「なんの」
「わたしが未来に来たっていう記録よ。徹、これ、誰だかわかる? あんたの息子だよ! もうびっくりしちゃうよねーしかし。しかも好きな子がいるらしいよ。きゃーっ! 破廉恥!」
「それ八ミリなんだし音入んねーだろ」
「で、好きな子の名前は?」
「だから」
「ほら、音入らないんだからいいじゃん」
少し考えてから俺は口を縦に広げ、その後でくちびるをすぼめた。
「え、なに? アオ? アオちゃん?」
そのままあかりを置いてすたすたと歩き出す。ばーか、正解は「アホ」だ。
「ちょ、ちょっとアキラ待ってよー!」
あかりの声を背中に、俺は学校へと足を速めた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます