第8話:いつかのレオス・カラックス
家に着くと、芽衣子はまだ帰って来ていないようだった。きっと部活だろう。あぁ見えて芽衣子はテニス部に所属しているのだ。しかもかなり巧いらしく、リビングには大会のトロフィーが並んでいる。その脇に立てかけられたフォトフレームにはユニフォーム姿の芽衣子が。芽衣子は爽やかな笑顔でこちらにピースサインを向けている。
「この頃は可愛かったのになぁ……」
そう、何年か前までは可愛かったのだ。芽衣子も。昨日のように兄を見下すこともせず、まるで本当の兄のように慕ってくれていたのだ。いや、本当の兄なんだけど。それが、いつの間にか怨み節を口にするようになってしまった。いや、梶芽衣子自体は大好きなんだけど。女囚さそりシリーズとかアツい。
ともあれ時間が過ぎれば人も変わる。生々流転。仕方のないことだ。むしろ変わらずにいるほうが不自然とも言えるだろう。
二階へと続く階段を見上げる。見慣れた景色。だが、いつしかそれも懐かしい景色に変わるのだろう。
ゆっくりと二階にあがり、呼吸をひとつしてからノブをひねる。ドアは、キィ、と小さな音を立てて俺を迎え入れた。
父の書斎に足を踏み入れるのは随分と久しぶりのことだった。
歩を進めるにつれて床に落ちたほこりがふわっと舞う。
厚手のカーテンが窓一面を覆っているせいか、まだ夕方にもなっていないというのに室内は薄暗かった。
壁に立てかけられた白いラック。年季の入った木目調の机。床に散らばるたくさんの書物。
それらは以前と変わらず息をひそめるようにしてそこにあって、でも、なんだか以前来たときよりも窮屈に感じる。
最後にここに入ったのっていつだっけ?
そう考えて、思い当たる。
ちょうど、一年前だ。
俺はここでレオス・カラックスの『ボーイ・ミーツ・ガール』を観て、それからいても立ってもいられなくなってビデオカメラを手に街に飛び出した。寺山修二じゃないけど、ビデオテープを止めて街に出たわけだ。街に出なければ見えない景色は確かにあるだろう。でも、街に出ることで見なくてもいい景色を見てしまうのも事実だ。別にどちらが正しいとか間違ってるとかいう話じゃない。俺は街に出て、そして見なくてもいいものを見てしまったってだけだ。
剥き出しの柱にはナイフでつけられた切り跡がいくつもあって、触るとぼこぼこした。父がいなくなり、この部屋に忍び込むようになってから、俺はときどき自分の身長をこの柱に刻むようになっていた。どうしてそんなことをしたのかはよくわからない。勝手に父の書斎に入り浸っていることの理由が欲しかったのかもしれない。
俺は机の引き出しの中にあるナイフを手に取り柱に新しい傷をつけた。その横に自分の歳と今日の日付を入れる。ひとつ前の傷の横には「十四歳 夏」とあった。去年のものだ。さっきつけた傷との間は指四本分くらいある。十センチくらいだろうか。
自分の思い通りにならないことばかりだ、と俺は思う。放っておいても身体は大きくなって、髪は伸び続ける。無邪気にスクリーンの向こう側を信じていたあの頃の俺はもういない。
父のコレクションを選定しようと押し入れに向かう途中で何かが足の先にぶつかった。ミニDVテープだった。
「こんなところにあったのか……」
腰をかがめてそれを拾う。コーヒーを飲んだわけでもないのに、口の中に苦みが広がった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます