第5話:夏休みのはじめかた
俺が通うこの県立溝口高校の校舎は築六十年の歴史を持つらしく、壁面はところどころ塗装が剥げており、雨風を受けつづけてきた鉄筋にはサビが目立った。風が吹くたび金網は不気味な音を立て、足下のコンクリートには大きなひび割れが幾重も伸びている。
「ウサギ探しはいいのか?」
ファインダーを覗き込んだ深大寺がカメラをこちらに向けて言った。
「探し物と殺人事件はどっかの探偵に任せておけばいいんだよ。それに、宿題なんて最後の日にまとめてやればいい」
俺は深大寺におごってもらったメロンパンをほおばりながら返す。
「でも、本当にいいのか?」
「だいたい見つけようと思ったって見つかんねーよウサギなんて」
「いや、そっちじゃなくて」
深大寺はファインダーから目を離しカメラを持った手を上にあげる。
俺がメロンパンと、それからコーヒー牛乳×一週間分と交換したビデオカメラ。
「あぁ、俺はもう使わないからな」
「でも、撮ってたんだろ? 中学のとき。もう撮らないのか?」
「撮らない」
「なんでだよ。俺、手伝うぜ?」
俺と深大寺はときどきこうしてとりとめのない会話をするようになっていた。
話をするのはだいたいがここ、屋上だ。
公衆の面前で話をするのはやはり角が立つ。同じサッカー部の大野とか、俺と深大寺が話してると露骨に嫌な顔するしな。余計な荒波を立てないためにも教室の中では基本的に口を聞かないのが一番だ。だが、深大寺はそういうのに疎いようで、
「なんでだよ。俺がお前と話したいんだから別に問題ないだろ」とか言ってたけど。
「お前はよくても他のやつらにとってはよくないんだよ」
「他のやつらは関係ないって。俺はお前が好きなんだよ!」
深大寺はそう叫んで、ダンっと勢いよくトイレのドアを開いた。その先では廊下を歩く生徒たちが数名凍りついたように静止してこちらを見つめていた。
なんてこともあって人目につかない場所、つまりここ、屋上とかに集まるようになった。
それに、俺たちは屋上が好きだった。映画といえば、やはり屋上だろう。
『青い春』に『贅沢な骨』。『アクロス・ザ・ユニバース』なんかもいい。
屋上の名シーンを挙げていけばキリがない。
そういえばラブホテルの屋上が公園になってる映画もあったな。
ちなみに屋上には普段鍵がかかっているのだが、それは自前のあんなものやこんなもので開けている。小さい頃病弱だったおかげだな。外を自由に駆けまわることが出来なかった少年はせめて誰もいない屋上の広い青空の下で寝ころぶくらいのことはしたかったのです。まる。
ともあれ深大寺はサッカー部みたいなカースト上位のやつには珍しく、階級意識というものがまったくないやつだった。
まさに
深大寺がそんなやつだったからだろう、俺はついぽろっとこぼしてしまったのだ。
中学のとき、俺が映画を撮ったことを。
それを聞くや否や、深大寺は「すげーなそれ」と目を輝かせた。
「いいんだ。やっぱ映画は撮るもんじゃなくて観るもんだわ」
俺はそう言って、メロンパンをコーヒー牛乳で喉の奥に流し込んだ。
「でもお前こそサッカーやってて映画なんて撮ってる暇あるのかよ?」
さすがに夏休みが一日もないってことはないだろうが、ほとんどの日に部活はあるだろう。それに、自主練という名の半強制的イベントとかもあるって聞く。ブラック企業の温床ここにあり、って感じだ。
しかしそんな俺の心配をよそに、深大寺はけろっとした顔で言った。
「サッカーは好きだけど、別にプロになりたいわけでもないしな」
「じゃあなんでサッカーやってるんだよ」
「いや、だから好きだからだって」
好きだから。
深大寺との付き合いは四月から始まってまだたかだが四カ月経たない程度ではあったが、こいつはすこぶるシンプルな男だった。きっと今までの人生、シンプルに生きてこれたってことなんだろう。嫌味でもなんでもなく、それは素直に羨ましかった。
「でも好きだったらプロになりたいとか、そういうもんなんじゃないのか?」
「それとこれとはまた別だと思うけどな。たとえばアキラ、パズル好きだろ?」
「あぁ」
確かに、俺はパズルが好きだった。あの、バラバラなものを一つの物に組み立てる快感。あるいはそれを再びバラバラにする愉楽。あそこには人生のすべてが詰まっていると言っても過言ではない。いや、それは過言だ。
「じゃあ、そのプロになりたいって思うか?」
俺が黙っていると、深大寺はわが意を得たりといった様子で「だろ?」と笑みを浮かべた。
「あれだ、純ちゃんは夏休みは終わりがあるからこそ夏休みなんだ、って言ってたけど、俺から言わせれば夏休みは始まりがあるからこそ夏休みなわけだ」
なぜか得意気だが、別に何も上手いこと言ってないよ深大寺くん。
「そのためには、こいつが要るってこと」
太陽の光がレンズに反射してきらりと輝いた。
レンズの先には雲ひとつない青空が広がっていて、その空の下、体操着姿の生徒たちが実験室のマウスのように校庭を駆けまわっていた。
視線をもう少しだけ上げる。
肩を寄せ合うようにして並ぶアパートが見える。その奥では工事中のマンションがときおり赤い火花を散らしていた。それから、高層ビルやデパート。駅に向かって、背の順のように立ち並ぶ建物たち。
その風景に俺はまだ少し慣れなかった。
この街は大きく分けて四つのエリアに分かれている。
田畑が広がり、夏は緑が眩しい田園エリア。
工場の煙突が屹立し、喧騒が絶えない無秩序エリア。
団地が集合しているベッドダウン的郊外エリア。
それから、この駅近くの繁華街エリアだ。
それぞれのエリアの境には蛇の抜け殻みたいな細い川が流れていて、その川には小さな橋がかかっている。まるで古いRPGみたいだった。
だけど、別に橋を越えたからって新しい物語が始まるわけでもない。
「よくわからんが、まぁ頑張れ」
俺は深大寺に返した。
ちなみに余談だが河瀬先生本人の前で「純ちゃん」と呼ぶと顔を真っ赤にして「バっ、バカ! 先生をちゃんづけで呼ぶやつがあるか!」とマジ照れする。
もちろん、俺が言ったら間違いなく殺されるだけなので口にしたことはないが。
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