第4話:映画秘宝派なの?

 四月。

 それは誰もが新しい生活への期待とそしてささやかな不安を胸に抱いて臨む季節だ。

 始めに二度なしとはよく言ったもので、最初の二、三日である程度のグループが生まれ、一カ月も経つころにはクラス内のカテゴライズも終わり、ヒエラルキーが出来上がった。

 深大寺は「サッカー部の花形」として、俺は「映画好きのオタク」としてカテゴライズされ、それぞれ上位カーストと下位カーストに所属することになった。

 ヒンドゥー教で言うところのバラモンとアンタッチャブル。つまり俺たちは交わることもないし交わっちゃいけない存在だったわけだ。

 じゃあどうして軽口を叩くような、そんな関係になったのか?

 もちろん、俺の方から声をかけたわけじゃない。そんなことをすればせっかくの平穏な生活はおじゃんだ。なんたって俺はミスターアンタッチャブルなわけで、つまり誰からも余計な干渉を受けることのない日々が待っていたわけだからな。大丈夫、泣いてない。

 つまり、声をかけてきたのは深大寺の方からだった。

 ゴールデンウィークが明け、ほどよくクラス内のそれぞれのポジションが確立されたころ。

 俺はいつものように机の上で映画秘宝を読んでいた。

 すると、雑誌にすっと影が落ちた。

「黒沢ってさ、映画秘宝派なの?」

 その頃にはもう俺に声をかけるクラスメイトはいなかったので、俺は驚いて顔をあげた。

 そこに立っていたのが、まさかの深大寺だった。

 俺が声を失っていると、

「いや、それ、いつも読んでるからさ」

 となぜか照れたように頭をかいた。

 深大寺の髪は陽に透けてオレンジ色に輝いていた。

 クラス内を見回すと誰もが固唾を呑むような視線をこちらに向けている。

「なんだ? 罰ゲームか何かか?」

 ようやく声を発すると、深大寺は怪訝そうに眉を寄せた。

「罰ゲーム? なんで?」

「いや、だってお前が俺に声をかける理由がないだろ」

「理由ならあるけど」

 今度は俺が聞く番だった。

「なんで?」

 深大寺はすっと俺の手元の雑誌を指差した。

「俺もさ、映画秘宝読んでんだ。まわりにそれ読んでる奴いなくて、そしたら黒沢が読んでるの見かけて、おっ、こんなとこにいるじゃん、って」

 その声には侮蔑も嘲笑の色も込められていなかった。むしろどちらかと言うと歓迎のニュアンスが含まれていた。

「俺、オーケンのコーナーが毎月楽しみなんだよ」

「………………お、俺も」

「やっぱ黒沢もかー! オーケン面白いよな! パイパニック!」

 俺たちはそこで顔を見合わせて、ぷっと笑い出した。

 遠くにクラスメイトたちの呆然とした顔が見えた。当たり前だ。カースト最上位とカースト最下位の人間が笑いあっているんだから、カースト制の崩壊を目の当たりにしているようなもんだ。

 始めに二度なし。だが、始めは案外そこここに転がっているようだ。

 その日から、俺と深大寺の関係が始まった。


 夏休みを目前に控えた高校生はさながら産卵期の鮭のようで、教室は大変なにぎわいを見せていた。それは担任の河瀬純かわせじゅん先生が教室に入って来てからもしばらくつづいていた。

「ほれ、きみたち発情期じゃないんだからそんなきゃーきゃーわーわー騒がない」

 出席簿をばんばんと軽く二度ほど教卓に叩きつけて河瀬先生は続ける。

「遠足は家に帰るまでが遠足であるように、夏休みは学校に来るまでが夏休みだ」

 突然の説法に静まりかえる室内。生徒たちの頭の上には「?」マークが浮かんでいる。

 嫌な予感がする。俺は視線を机に落とした。

「何が言いたいかわかるか、黒沢?」

 ちょっと待ってなんでこういうときいつも俺をご指名なの? 指名料とかもらってないんですけど?

 身に覚えはまったくないのだが、どこかで恨みを買ってしまったのか入学してからというものの何かにつけて河瀬先生は俺を指名してくる。売れっ子すぎて他の嬢から路地裏で刺されるレベル。

「先生、指名する場合は指名料を」

「ほう……では、」

 ぴくりと眉を動かし、先生はズボンのポケットの財布に手を伸ばす。その中から一万円札を取り出した。

「これを払ってやろう。その分、期待に沿った答えが返って来なかった場合は……わかるな?」

 ビリビリと先生のまわりの空気が震えている。覇気だけで殺されるかと思った。覇王色の覇気使えるとか伊達に四十年独りで生きてないな。

「なにか言ったか?」

「い、いえ何も」

 読心術も使えるとかどこの忍者だってばよ。

 あ、別に独身と読心をかけてるわけじゃない。

 やれやれ、という具合に河瀬先生はこめかみを押さえてため息をついた。

「何が言いたいのかというと、わたしは明日も学校に来なければならない。ちょっと会議があってな。そしてその会議の結果次第では八月もほとんど学校に来る必要が出てくる。つまりわたしには夏休みがないわけだ。だから羨ましい。なんならちょっと憎い」

 いや、だから俺を睨まれても……。

「だが、かつてのわたしは謳歌したわけだ。高校一年の夏休みを。その後、まさか自分が高校の教師になるだなんて夢にも思わなかったがな」

 河瀬先生は遠い目をして窓の外を見つめた。

 室内に吹き込む柔らかな風が、その長い亜麻色の髪を揺らす。

「まぁなんだ、夏休みが終わったら、ちゃんと学校に来いよ、ってことだ。じゃないと夏休みが終わらないからな。夏休みは終わりがあるからこそ夏休みなんだ。遠足は家に帰るまでが遠足であるように、夏休みは再び登校するまでが夏休みってことだ。以上」

 その言葉はなんだか自分自身に向けたもののように見えた。先生に夏休みが来ないのは、もしかしたらいつかの夏休みをちゃんと終わらせることができていないからなのかもしれない。

「あ、そうだ黒沢、先週いなくなったウサギの小津、見つけておくように」

「なっ、なんで俺が」

「帰宅部はお前だけなんだからそれくらいやりたまえ。夏休みの宿題だ」

 前言撤回。

 単に性格の問題だ。

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