第3話:きのこの山の棒の部分

 翌日。

「今日が何の日かわかりますか? そうです。今日は米騒動の日です」

 で始まった校長の話はかれこれ十分を超えていた。

 一人また一人とうつらうつら生徒は舟を漕ぎ始め、なんだか本当に巨大な船の上にいるような錯覚すら覚える。

 結局昨日はあれからコンビニでチョコを買ってから帰った。玄関の鍵を開けると芽衣子がもふもふしたパジャマ姿で待っていた。もちろん、兄の帰りを、ではない。眉にしわを寄せた芽衣子は「おっそい」とひとこと言って俺の手からビニール袋をひったくるようにして奪い踵を返す。普段、頭の両端で束ねられている長い髪も今は真っすぐに降ろされていた。それが、吸いこまれるようにしてリビングへと消えていく。

 せめて「おかえり」くらい言ってくれてもいいんじゃないですかね。これじゃただいまのあとのガラガライソジンジンも出来ないじゃないですか……。

 洗面所で手を洗ってからリビングに向かうと、芽衣子はソファの上で膝を抱えながら幸せそうにチョコをほおばっていた。先程までとは打って変わって顔面がゆるゆるだ。目なんかとろんとしちゃってるんですけど。あれ、俺がさっき渡したのってただのチョコだよね?

 チョコを渡すとおとなしくなるとか、お前バレンタインの日の不良かよ。

「アニキさ、今年は映画、撮んないの?」

 冷蔵庫から取り出した麦茶をキッチンで飲んでいると、珍しく芽衣子に声をかけられた。

 別に俺を糾弾しようとしたわけでもないだろう。だが、その言葉は俺の胸にちくりと棘を刺した。

「……いや、撮らない」

 もっと正確に言えば、撮れない。

「ふーん、そう」

 芽衣子は視線をテレビに向けたまま、特に興味もなさそうにそう呟いた。

 俺はその後頭部に向かって自嘲するように笑う。

「ま、どうせまた完成しないしな」

 すると、芽衣子が首から上だけ振り向いた。

「完成しないといけないの?」

 気のせいか少し怒っているようだった。

「当たり前だろ。だったらなんのために撮るんだよ」

「撮るのが楽しいからじゃないの? わたしだって試合に出るためにテニスやってるわけじゃないし。もちろん、試合には出たいし、出るからには勝ちたいけど」

「……どうでもいいけど、お前チョコ、ついてるぞ」

 俺は自分の口元を指差して言った。

「えっ、うそ!」

 嘘です。

 俺はシンクにコップを置いてリビングを後にする。

「ちょ、ついてないし! ふざけんな馬鹿! きのこの山の棒の部分だけにしてやるからっ!」

 芽衣子の叫び声が背中に届いた。

 もしかしたら、こいつ俺のこと心配してくれたんだろうか。そう思って、その考えをすぐに否定する。

 兄を心配してる妹がチョコを買いにパシらせたりしないもんな。

 それにきのこの山の棒の部分だけにするってどういうことだよ。アイデンティティ奪われちゃうってこと? あいつの兄である俺のアイデンティティを奪うってつまり俺を兄としてじゃなく扱うってこと? え、なにその禁断の展開。

 シャワーを浴び、二階へと続く階段をのぼる。自室のドアを開けてベッドにぼふんと倒れ込むと、どっと疲れがやってきた。

 カーテンが開けっぱなしになっている窓から小さな月が見えた。

 俺は今日の出来事を思い出す。

 そして大谷さんの言葉も。

 ――ラッキーアイテムは、ビデオカメラ。

「やっぱ占いなんて全然当たんねーな」

 やがて波が引くように静かに眠気がやってきた。

「……であるからして、きみたちの手の中には、無限の未来が広がっているということです。以上。夏休みを謳歌してください」

 パチパチパチパチパチパチパチパチ。

 まばらな拍手の音で目が覚めた。

 いつの間にか俺も校長の放つラリホーにかかってしまっていたらしい。

 しかしなんで校長の話ってのはあんな長いのかね? 話聞いてくれる人生徒しかいないの? 

「みんな夏が来たって浮かれ気分なのに一人冴えない顔をしてどうしたんだ?」

「なんだ、俺に見せたいものでもあるのか?」

 それともこの長い長い下り坂、俺を自転車の後ろに乗せてブレーキいっぱい握りしめてゆっくりゆっくり下っていくつもりなのか? できれば下り坂じゃなくて上り坂がいい。頂上から見下ろした景色はさぞ綺麗だろうからな。

 体育館から教室に戻る際、爽やかイケメンに声をかけられた。俺が女子だったら即恋に落ちるレベル。だが、俺は女子ではないしそっちの趣味もないのでいつものように軽口を叩く。

 同じクラスの深大寺悠斗じんだいじゆうと。深大寺はサッカー部のエース候補だ。候補なのは今はまだ一年だからで、でも実際の実力ではすぐにでもエースを任されてもおかしくないらしい。

 そんな深大寺とクラスでも一、二位を争う日蔭者の俺がなんでこんな風に軽口を交わしているのかというと、話は四月にまでさかのぼる。

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