第2話:勝手に逃げろ、人生

 ぼんやりと夜道を歩いていると、街灯に照らされた街路樹の青々とした葉が目についた。それは、あれから一年が経とうとしていることを俺に告げるように静かに揺れていた。

 去年の夏、俺は一本の映画を撮っていた。生まれて初めて撮る映画。つまり処女作ってやつだ。どこの中学も大体同じだとは思うが、うちの中学もご多分に漏れず映画部なんてものはなかった。サッカー部とバスケ部と野球部がヒエラルキーのトップに君臨し、その下にテニス部、バレー部あたりが続く。あとは活動してるのかよくわからない柔道部、剣道部、卓球部が形だけ存在しているくらいだ。文化部なんてせいぜい吹奏楽部と美術部があればマシな方だろう。

 だから、映画は「観る」もので、「撮る」ものなんかじゃなかった。

 当たり前だ。部活がなければ機材だってない。顧問だっていない。

 だけど。

 だけど、俺にはカメラがあった。父の残していったカメラが。

 そして気づけば中学生になっていた俺は、スクリーンの向こう側を無邪気に信じられるほど幼稚でもなければ、こちら側の現実を淡々と受け入れられるほど大人でもなかった。そんな宙ぶらりんな状態で、俺が手を伸ばしたのは第三の選択肢だったわけだ。

 スクリーンの向こう側がこの世界にないのなら、自分で作ればいい。

 今考えれば中学生が何をいきがってるんだって感じだけど、目の前がぱっと明るくなって、視界が開けた気がした。正直その考えに興奮すらした。かつて自分が焦がれていたあの世界を、自分の手で作る。その考えは俺に前に進む勇気を与えた。もちろん、ただ闇雲に歩けばいいってもんじゃない。犬も歩けば棒に当たるし、歩く足には泥がつく。でも、俺が見てたのはカメラのファインダーの向こう側だけで、だから自分の足についていた泥なんて目に入らなかったんだ。

 結局、映画は完成しなかった。

 そして、俺は色んなものを失った。

 残ったのはビデオカメラと、断片が詰まったビデオテープだけだった。

 つまり、第三の選択肢に手を伸ばした俺は、案の定それをつかみ損ねて底に落ちちまったってわけだ。

 顔をあげると、月が綺麗な円を描いて空に浮いていた。その輪郭がゆっくりと歪んでいく。まるで、海の底にいるみたいだった。

 ――がしゃん!

 そんな俺を現実に呼び戻したのは、静かな郊外の夜道にはおよそそぐわない、荒々しい音だった。

「おいてめぇ、人のバイクに何してくれてんだ! あぁ!?」

 次いで、男の怒号が耳に飛び込んでくる。

 俺は反射的に近くの木陰に身を潜め、声のした方へと目を凝らす。

 視線の先には、詰襟を着たガタイのいい男が三人と、それに対峙するように立っている人影があった。

「ひっ、ご、ごめんなさ……じゃなくてこれはぼぼぼぼくじゃなくてここここの人が」

「……あぁん!? この人だって……? てめぇ以外に誰がいるってんだよ、あぁ!?」

「ひいっ」

 気弱という字を擬人化したらこうなるんだろうな、という感じのいかにも気弱な少年がそこには立っていた。かわいそうに気が動転しているのか言ってることが支離滅裂だ。

 さて、どうしたもんか。と俺は思う。

 映画だったらここで颯爽と主人公が現れ、ヒロインの窮地を救ったりもするんだろう。

 でもこれは現実だし、窮地に陥ってるのはヒロインじゃなくて登場人物Aだ。

 ガタイのいい男三人がいて、それと対峙している少年がいて、その様子を陰から窺っている男がひとりいる。それだけだ。

 後ろめたさがないわけではない。

 だが、俺が駆けつけたところで状況は何も変わらない。俺は空手を習っていたわけでも、ボクシングジムに通っているわけでもないしな。

 だから俺はその場を去るべくゆっくりと腰をあげた。

 細く澄んだ声が聞こえたのは、そのときだった。

「死んで」

 聞き覚えのあるフレーズに、胸がどくんと脈打つ。

「死んで今すぐ土に還って」 

 台本を読み上げているような抑揚のない声。

 踏み出しかけた足が止まる。

 俺は身を翻し、声の方へと振り返った。

 どこから現れたのか、そこには少女が立っていた。

 夜を吸い込んだように黒い髪は後頭部で束ねられ、歩くたび背中で小さく揺れる。この位置からは横顔しか見えないのでその表情は窺えない。だが、それには別の理由もあった。

 彼女は左手にビデオカメラを構えていた。

「おっ、おいなんだお前!? なんだそれ撮ってんのか!?」

 さすがの不良たちも突然現れた少女とその左手に掴まれているビデオカメラに驚いたのか、お互い顔を見合わせ動揺しているようだった。

「参考に」

「参考……ってなんのだコラ!」

 その問に少女が答える前に登場人物Aこと気弱な少年が背を向け駆け出した。どうやら逃げるつもりらしい。まったくもって正しい判断だ。

「ばばばバイクを倒したのはそいつですっ。ぼくはかかか関係ないのでこれで失礼しますっ」

 そう残して恐ろしい速さで闇の中へ消えて行った。

 少女はそれを左手のカメラで丁寧に追ってから、録画停止ボタンを押した。

「さようなら」

 そう言って頭を下げる。

「あ、そうですかお疲れさまでした………………………………ってなるかァ!」

「アニキ、こいつ完全舐めてますぜ」

「舐められっぱなしでいいんスかアニキ!」

「そうだな。おい、お前ちょっと待てコラ」

 不良A、Bからアニキと呼ばれる男は少女の肩に手を乗せた。

「なに」

「なに、じゃねーだろテメーおいコラ。人のバイク倒しておいて詫びもなしに帰れると思ってんのか!?」

 男が少女を見降ろす形になる。

 改めて二人が並ぶと身長差がすごい。まるで小学生と大人だ。

「よく見るとこいつけっこう可愛い顔してますぜアニキ」

「今度はこっちが舐めてやりましょうよアニキ」

 不良AとBが下卑た笑い声をあげた。

「ちょっとツラ貸せ」

 アニキと呼ばれる男が少女の手首を掴む。

 さて、どうしたもんか。

 そう思いながらも俺の心臓は先程とは比べ物にならないくらい速く脈打っていた。

 関係ない。

 先程踏みとどまった一歩を、今度はためらうことなく踏み出せばいいだけだ。

 あの台詞も、きっと何かの偶然だ。

 ごくり、と唾を飲み込む。

 俺はその場を去るべくゆっくりと腰をあげた。

 そして――――――鞄の中にゆっくりと手を伸ばし、大きく息を吸った。


「はい、カットォ!」


 突然の大声に何事かと男たちが振り向く。

「カットカット! いやー、よかったよ。いい演技だった。みんなお疲れさん」

 ビデオカメラを右手に俺は男たちの元へと駆け寄る。

 ぽかんと口を開けている彼らをねぎらうように左手でぽんと肩を叩き、

「じゃあ今日のロケはこれでおしまいだから。ここで解散ってことで! お疲れさん。気をつけて帰れよ!」

 そう言って少女の手を引き、小走りでその場を後にした。

 なんてことはなかった。

 俺が構えたカメラの先で、少女は掴まれた手首を鮮やかに返し、その勢いで自分の倍近くも体重がありそうな男を地面に叩きつけていた。

 男は「ぎゃっ」と尻尾を踏みつけられた猫みたいな声をあげた。

「おっ、覚えてろよっ」

 ベタな悪役のような台詞を吐き捨てて男たちは去って行く。

 俺はファインダーを覗き込んだまま、呆気にとられていた。

 それはまるで映画の中での出来事のようだったのだ。

 そのときだった。

 ファインダー越しに少女と目が合ったのは。

 まるでわしづかみにされたみたいに、心臓がどくんと脈打つ。

 その少女は、彼女によく似ていた。もう二度と会うことのできない、あの――。

 虚をつかれた俺は半ば反射的に駆け出していた。

 月の光が木々の枝葉の形を切り取って、地面に影を落としている。

 踏みしめる地面は昨日の雨のせいか少しぬかるんでいて走りづらい。

 そういえば、あの日もこうやって走っていた。今と同じように、何かから逃げるために。

 あの日から、俺はずっと逃げ続けているのかもしれない。

 胸がばくばくと破裂しそうに鼓動していた。

 と、どこからか『バック・トゥ・ザ・フューチャー』のメロディが聞こえてきた。

 俺はポケットに入れていた携帯を取り出し、通話ボタンを押す。

「ちょっと、アニキ何やってんの? 今どこ? 何時だと思ってるわけ? メール見た? 見てない? チョコ、切れてたから買って来てってメールしたんだけど? メールには五分以内に返信しろって言ったよね? 何回同じこと言わせんの? なんなの? アポロチョコみたいに上と下で真っ二つにされたいの?」

 耳にあてた携帯から矢継ぎ早に罵倒の言葉が飛び込んでくる。

 妹の芽衣子だ。

 芽衣子はチョコレートが大好きで、寝る前に板チョコを一枚食べないと眠れないらしかった。そんなことを信じるほど俺は馬鹿ではないし、だいたいもしそれが本当だとしたらただの病気だ。いや、芽衣子はいたって健康な女の子だから病気ではないのかもしれない。でも異常だ。だいたいこの電話だって、彼氏を束縛するメンヘラ気味の彼女みたいだ。

「えっ? なになになんなの? さっきからはぁはぁキモいし」

 しばらく走っていたせいか、うまく言葉を発することが出来なかった俺は通話口に向かって荒い息を吐いていたらしい。

「いや、ちょっと、たまには、走ったりも、してみようかな、と思って」

 言葉を発すると、思い出したかのように身体中から汗が吹き出してきた。

 辺りを見渡す。

「……って、ここはどこだ?」

 いつの間にか見知らぬ道に出ていたようだった。

「知らないし。いいからチョコ、忘れないでよ」

 芽衣子はそれだけ言って電話を切ってしまった。

「カット」

 呟いてみても人生にカットはかからない。当たり前だ。これは映画じゃないんだから。

 電柱の陰から黒猫が慰めるような目でこちらをじっと見つめていた。

 勝手に逃げろ、人生。

 転がっていた空き缶を蹴飛ばすと、黒猫はびくんと身体を震わせて闇の中へと消えて行った。

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