あの夏の巻き戻しボタンをぼくはまだ押せない

黒埜創

第1章:シネマボーイ・ミーツ・ビデオガール

第1話:スクリーンの向こう側

 人生。


 目の前にずらっと並べられたそれのひとつを手に取り、俺は大昔のことを思い出す。小学校にあがるかどうか、という頃のことだ。だからまぁ、十年くらい前ってことになる。十年を大昔と感じるか、ついこの間と感じるかは個人差があるだろうが、少なくとも俺はあれから小学生になって中学生になって高校生になった。九九を覚えて初恋をして、そして人生を失った。


 人生。


 そう、確かに俺はそれを失ったんだろう。

 人は生きながらにしてそれを失うことが出来る。ドストエフスキーだって言ってるだろ? 『希望を持たずに生きることは、死ぬことに等しい』って。

 それでも。

 それを人生の一部とするように俺はここでバイトを始めた。

「……んだよやっぱパクリじゃねーか」

 中身を返却しようと手に取ったパッケージの裏を見て思わず眉をひそめる。

 かつて父がよく口にしていたことばがそこには書かれていた。

『映画は人生で、人生は映画だ』

 いつだったか父と観た映画。

 内容はほとんど覚えていない。唯一覚えているのは、その映画の中ではブラウン管が向こう側とこちら側の通り道のようになっており、登場人物が自由に行き来をしていたってことくらいだ。

 もちろん、どちらの世界もフィクションなわけだが、そこには現実と虚構が入り混じったような不思議な高揚があった。まるで手品を見せられているみたいだった。どきどきしながらテレビの液晶に指先をそっと伸ばしてみると、ばちっと電流が走り、俺は声をあげて飛び上がった。

 その様子を見て父は笑った。

 当時の俺は静電気の存在を知らなかったから、そのときは異世界への扉に触れたような、そんな風に感じて興奮したんだ。

「……映画は人生、か」

 もし本当にそうなのだとしたら、ここは人生をレンタルしてるってことになる。毎週毎週懲りずに人生をレンタルしては返却しに来る人は、やっぱりどこか普通の人間とは違うんだろう、独特のオーラを放っていた。さながら人間を求めて彷徨うゾンビだ。しかし、求めても求めても彼らはもう人間に戻ることは出来ないのだ。だからこそ次から次へと新しい獲物へと手を伸ばしてしまう。かつて俺がブラウン管にそうしたように。

 だが、人生は映画じゃない。こっちの人生には早送りも巻き戻しも存在しない。ただ、現在が流れるように再生されていくだけだ。

「すみませーん」

 レジの方から声が届く。

届いた声に「少々お待ちくださーい」と返して、俺はのそのそと立ち上がった。 

 レンタルビデオショップ「キックオフ」は、今日もいつも通りの現実を再生している。


                  *


 父が姿を消したのは、俺が小学校にあがるかどうかという頃だった。

 ふらっと、本当に近所に買い物にでも出かけるような気軽さで父はいなくなった。

「ちょっとスクリーンの向こう側に」

 俺が最後に聞いた父のことば。

 それは、父が映画を観に行くときの口癖だった。

 もしかしたら父は本当にスクリーンの向こう側に行ってしまったんじゃないか。父の帰りが遅い夜、子どもの頃の俺はそう考えて、恐怖でしばらく映画を観ることが出来なくなった。でも、同時にどこかで羨ましさも感じていた。

 小さな頃、身体の弱かった俺は学校の友達と外で遊ぶこともあまり出来ず、だから映画の中で起こるスペクタクルが唯一の楽しみだったのだ。

 いつしか俺はスクリーンの向こう側に憧れるようになった。でも、そう思えば思うほどそれは遠くなっていった。当たり前だ。スクリーンの向こう側なんて存在しないんだから。

 結局父とはそれきりだ。なんの連絡もないし、だから会ってもいない。どこかで生きてるのか、それとももう死んでいるのかすらわからない。もしかしたら、父という存在自体が俺の作り出したフィクションだったのかもしれない。いや、さすがにそれはない。

『こうなったからにはちゃんと責任とってよねっ』

 シフトの時間が終わり休憩室のドアを開けると、テレビにかじりつくようにして丸まった後ろ姿がそこにはあった。遅番の栞さんだ。

 栞さんは近所の大学に通っている女子大生で、日本文学を専攻しているらしい。日本文学、という響きで連想されるのは黒髪、和服、清楚、といった単語だろう。少なくとも俺はそうだった。店長の大谷さんに「栞さんって日本文学を専攻してる女子大生がもう一人アルバイトで働いてるからよろしくな」と言われたとき、密かに妄想を膨らませてしまったのも仕方ないと思う。

 さて、改めて栞さんを見てみよう。

 栞さんはぼさぼさの金髪、グレーのパーカー、猫背というスタイルでテレビの液晶と向かい合っている。

 返せ! 俺の期待に膨らだ胸を返せ!

栞さんはそんな俺の胸中なんて無視して、

「日本文学なんて専攻してるような連中はみんなこんなもんよ」

 と言っていたが、日本文学を専攻している人がみんなそんなだったら日本文学はもうおしまいだ。

「だーかーらー。日本文学なんてとっくに終わってるっての。あるのは日本文学っていう幻想だけよ。わたしたちは結局幻想しか愛することが出来ないのね。あんたもそうでしょ? だからこんなところで働いてる」

 違うの? と言いたげな瞳で見つめられると、返すことばがなかった。

「あ、今日は何観てるんですか?」

「いいとこー」

 視線はテレビに向けたまま、独り言を呟くような声音で栞さんは言う。

 くそっ……気を使って話しかけたのになんなんだよその態度は……。

 もちろん「いいとこ」ってどこかの昼番組みたいなタイトルの映画があるわけじゃなくて、「今いいとこだから邪魔すんな」ってことな。

 まぁ、今日は返事が返ってくるだけマシだ。この前なんてシフト交代の時間になっても頑として椅子から立とうとしなくて、その映画が終わるまで泣く泣く俺がシフトを延長したもんな……。

 悲劇を繰り返さぬよう、俺はいそいそと帰る支度をする。

「じゃ、お先です」

 そう言って頭を下げると、栞さんの後頭部の向こう、テレビの液晶の中でうっとりとした表情で見つめ合う男女の姿が見えた。

 ぞぞぞっと全身にじんましんが広がっていくのがわかる。

「ちょ、栞さん、ラブストーリーはここでは観ないでくださいって言ったじゃないですか」

 俺は慌てて目を逸らした。

「……」

 無視。

「栞さん!」

「あーもーうっさいなー。あんたのラブストーリー嫌いなんて知らないっての。あんたが嫌いだろうがなんだろうがこの世はラブストーリーで溢れてんのよ。わかる? 世界はラブで出来てんの。好き好き大好き超愛してんの。源氏物語読んだことないわけ? 光源氏がどんだけの女とあんなことやこんなことしてると思ってんの? だいたいじゃなきゃあんただって今ここにいないっつーの」

「……世界がラブで溢れてるんならわざわざフィクションの世界にまでラブを求めなくていいじゃないですか」

 俺がぼそりと言うと、小さな部屋には再び沈黙がやって来た。沈黙の方もいい迷惑だろう。この短時間に二度も呼び出されたんだからな。

「……溢れてるからってね、誰の手の中にも、いつまでもあるわけじゃないのよ……!」

 あ、なんか地雷踏んじゃったっぽい。背中が小刻みに震えてる。

「それに」

 栞さんはきっと顔を上げてこちらを振り向いた。

 肩まで伸びた長いぼさぼさの髪が宙を舞って、羽を広げた鳥みたいだった。

「だいたいこれラブストーリーじゃないんで! ラブコメなんで!」

 知らねーよ。子どもかよ。


 外に出て肩を伸ばす。腕時計は午後の十時を少し過ぎたところを指していた。辺りはすっかり真っ暗で、大きく息を吸うと夏の夜特有の湿った草の匂いが鼻をくすぐった。そこに少しだけ、煙草の匂いが混ざる。

 店長の大谷さんだ。

「お疲れ様です」

「おー、お疲れさん」

 大谷さんが振り返る。もうすぐ五十になるという割には年齢を感じさせない快活さが大谷さんにはあった。

「今日もあんまり人来なかったですね」

「まぁなー。やっぱ駅前にツダヤが出来たのが痛いなー」

「店、大丈夫なんですか?」

 大谷さんはわざとらしく目を見開いた。

「お前みたいなガキんちょにまで心配されちまったらおしまいだな」

 そう言ってがははっと豪快に笑う。

「や、新しいバイト探すのも面倒なんで」

「おうおう現代っ子は一も二も三もてめーのことばっかだなーおい」

 大谷さんはがくっと肩を落とし、ふっとため息をつくように紫煙を吐いた。少し間をおいてから、思い出したように続ける。

「そう言えば親父さんが残してったっていうビデオ、今度持って来いよ。DVD化されてないようなやつがあれば高値で買い取ってやるからさ」

 父が失踪してから、俺は初めて父の書斎の戸を開いた。それまでそこはなんとなく入ってはいけない場所のような気がしていたのだ。

 父は朝スーツを着て出かけることもなかったし、出かけるとしてもそれは映画館であることが大半だった。だから幼い頃、俺は父がなんの仕事をしているのかわからなかった。

 初めて足を踏み入れたその部屋には、大量のビデオテープとメモ書きのような紙きれが散乱していた。たぶん、映画を観ながら書いたメモだと思う。だが、そのメモを手に取ってみても、そこに父の失踪の手がかりを見つけることはできなかった。

 それから、俺は父の書斎に忍び込み、夜な夜な父の残したビデオを鑑賞することが日課になっていった。

 でも、結局何もわからなかった。

「そうですね。ずっと置いといてもしょうがないですし、今度何本か持って来ますよ」

「そうだ。俺たちはいつまでも亡くなった人のことばっか考えてちゃいけねぇのよ。生きてる人間が後ろばっか向いてちゃしょうがねぇ。そんなことしてたら今度は自分が前から来た車に轢かれて死んじまう番だからな。生きてる人間は死んじまった人の分までちゃあんと前見て生きてかなきゃならねぇのよ」

「いや、別に親父死んだって決まったわけじゃないんですけど」

 まぁ、行方不明になって七年だったか八年もすると死亡認定出来ちゃうらしいけど。

「……アキラ、認めたくない気持ちはわかる。だがな、認めたくない事実を認める勇気も人間には必要だぜ?」

 いや、だからなんでこの人そんなに親父殺したいの? あれか、ビデオをそんなに自分のものにしたいのか。

ただ、後ろばっか向いてちゃいけない、ってのには同意だ。

 黙っていたって時間は前に進んでいくけど、それは自分が前に進むのとはちょっと違う。

「そうだアキラ、今日の、聞くか?」

 俺が返事をする間もなく大谷さんはズボンのポケットから四つ折りにされた紙を取り出す。

「なんですか? また占いですか?」

「聞きたい?」

「いや、別に聞きたくないです」

「今週のおうし座の運勢っ!」

 聞きたくないって言ってるのに大谷さんは「パンパカパーン」とか言いながら続ける。

 大谷さんは占いが大好きだ。そしてこの通りおせっかいだ。頼みもしていないのに、余計なことをほいほいと押しつけてくる。まるで新聞の押し売りみたいなのだけれど、不思議と不快感はなく、むしろどちらかと言うと俺はこの大谷さんのことがけっこう好きだった。

「好きなものは好き、嫌いなものは嫌いと自分の中の線引きをはっきりさせることで色んなことがスムーズに運びます。自分に嘘はつかないで。ラッキーアイテムはなんと! ビデオカメラだってよ。こりゃあまた映画撮るしかねーな」

 それを聞いて俺は苦笑する。

 でも、大谷さんはこれはこれで気を遣ってくれてるんだろう。

「大谷さん、それって今日の運勢ですよね? 今日、あと二時間で終わりますけど」

「えっ、あ、そうか。いや、これは今日の運勢じゃなくてあれだ、人生、人生の運勢だ。そう、お前の人生のラッキーアイテムがビデオカメラっつーことだ。羨ましいぜちくしょう」

 いや、さすがにそれは強引すぎだろ。

 でも、あながち間違ってないのかもな。

 俺は自嘲するように肩を揺らす。

「じゃあ俺の人生は明日で終わりってことっすね」

「どういうことだ?」

「カメラ、明日深大寺にあげるんですよ。未練がましくいつまでも持っててもしょうがないし」

「明日……ってお前急にどうして……」

「明後日から夏休みっすもん」

 そう言うと、大谷さんは少しだけ哀しそうな目でこちらを見つめ、やがて諦めたように息を吐いた。優しい人なのだ。

「高校生羨ましいなぁおい」

「いやいや、栞さんなんか俺より休み多いんでしょ?」

「らしいな。俺はお前らがほんと羨ましいよまったく。いくらでも無駄なことやれる時間があるお前らがな。じゃあシフト、全部入れとくからなー」

 煙草を揉み消して、大谷さんは自動ドアの中へと消えて行く。

「ちょっと!」

 去って行く背中に声をかけたが、よく考えたら夏休みだからって今年は別にやることもないのだ。

 伸ばした手を降ろして、踵を返す。

 夜道は真っ暗で、十メートル先も見通せないくらいだった。

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