笛の音響くこの空に・四




 見つけてしまったかもしれない。

 月村月人つきむらがつとは嘆息した。

 財団派中枢、オーチェからは要注意敵性戦力について通達が一つ来ている。

 背格好、二人組であること。判別はその程度でしかできないが、まず間違いない。この陸橋からおよそ100メートル向こう、駅ビルを出て、どこかへ行こうとしている。いや、立ち止まった。誰かに声をかけられているようだ。

 月村月人は平穏な暮らしを望んでいる。財団派を選んだのはまさに高校に通い直して学生生活を謳歌したかったからであり、争いごとになど巻き込まれたくはなかった。ましてやこんな形勢不利な状況で、自分では処理できるはずのない巨大な脅威に近づくなど。

 幸いなのは監視の必要もないことだ。見つけたならばその旨を連絡だけして退避すべしとなっている。

 早速ポケットから携帯端末を取り出し、もう一度標的を確認しようとして目を剥いた。

 視線を外したのは一瞬のことだったはずだ。それなのに片方の姿が消えている。それも危険な方が。

 視覚、聴覚を更に強化。本能が全力で危機を喚き立てる。脂汗が浮いた。ほんの少しの異変も逃してはならない。こんなところで死ねない。まだやりたいことがある。

 僅かに、風を切る音。上だ。しかし暮れたばかりの夜空には何も見えない。

 見えないまま、首が宙を舞った。

 陸橋に人の姿は幾つもある。なのに誰も気付かない。

 死した<魔人>は消えてなくなるとはいえ、その前に血はしぶいた。そして人の姿が一つ消えた。なのに誰も気付かない。

 ただ紅い風が吹き抜けた気がして、訝しげにあたりを見回した者があったくらいだ。それでも気付けない。

 まるで、認識することを許されていないかのように。

「よし」

 淡く輝く刃を消し去り、清々しい笑顔で俊介は頷いた。





「……なんだありゃ」

「こっちにもよく分からん。詮索しない方がいい」

 呆気にとられた風の相手に、烈火はそう告げてから軽く頭を振った。

 知人、と言っていいのだろうか。当てはまるには違いないが、気分としてはしっくりこない。

 有り体に言ってしまえば人身売買の商売敵だ。二度、出し抜きあった。

「何の用だ? いや、とにかくちょっとだけ離れよう。いくらなんでも人の流れのど真ん中はまずい」

 顎で駅ビルの壁際を指す。夜はまだ浅い。雑踏はざわめきに満ちて、少し離れただけでもただの人間ではまともに聞き取れまい。

 <竪琴ライラ>の襲撃は大丈夫だ。この人群れの傍で仕掛けてくる可能性は万に一つもないし、もしそれが起こっても今のように俊介が片付けてくれるだろう。

 <魔人>の気配が分かるのだと言っていた。400メートル程度まで感知できて、近づくほどに正確性が増してゆくのだと。目の前のこの商売敵と向こうにいたらしき<竪琴ライラ>、二人の<魔人>が敵であるか否かをどのように弁別したのかまでは不明だが。

「それで、何の用なんだ?」

 問いを繰り返す。一月ぶりに会うが、やつれた印象がある。<魔人>が痩せた例など聞いたこともないから、それは姿勢や表情に起因するものなのだろう。

 果たして商売敵は卑屈な笑みを浮かべた。

「そっちはうまくやってるか?」

「……仲間は三人ともやられた。ボロボロだよ」

 おそらくは何か面倒ごとを持って来た。そう烈火は推測して壁を作っておく。

 だが、相手はそれを踏み越えて来た。

「頼みがあるんだ」

「こっちもぎりぎりなんだよ」

「いい話なんだ」

「ならお前だけで独り占めしてろよ」

「お前、金はあるのか?」

 詰め寄って来るのを烈火は押し返し、しかしそこで力が緩んだ。

 好機と見て相手は更に捲し立ててくる。

「逃げてるんだろ? 持ってても精々数十万くらいだろ? 今はよくてもそれでいつまでやってけるんだ?」

「余計な世話だ」

 強気にもう一度押し返してみたものの、言われたことは烈火自身の危惧でもあった。

 いくら稼いでみたとしても、年齢に加えて自分を証明する手段に乏しい以上、銀行に口座を開設するわけにもいかない。現金はどこかに隠しておくか持ち歩く必要がある。そしてスーツケースに入れて仲間が持ち運びしていた金はあの夜に<竪琴ライラ>の手に落ちただろう。今所持している金額はもう三万円を下回っている。

 誰かから手っ取り早く強奪することはもちろん可能なのだが、問題は俊介である。戦いに一般人を巻き込むことをよしとしない彼がそんなことを許すとは思えない。

 無難に金を手に入れる手段があれば願ったり叶ったり。だがそもそも今持ち掛けられようとしているのは強盗の方が遥かにましな手段であろうことは想像に難くない。懐が心許なくとも、結局は受け入れられるはずがないのである。

 ところがまだ拒絶が伝わってくれないのか、なおも押して来た。

「必要なのは十代前半の女の子だ。一人でいい。供給が激減してるおかげで単価が跳ね上がってる。いや、それ以上に買い手がいいんだ。一人だけで一億近く貰える」

「一億だと!?」

 驚愕よりも怖気が走った。

 金額が示すのは文字通りの価値である。受け取る金の重みは差し出す商品の質量、そして仕事の責任だ。

「論外だ、100パーセント厄ネタじゃねえか!」

「お前が八割、いや九割でもいい。頼むよ、これに賭けてんだ」

 ぎょろりと剥いた目に尋常ならざる気配。

 そうだろうと思える。この男の<魔人>としての力量は平凡だ。人間相手ならともかく、同じ<魔人>を相手取って腕っ節で状況を切り抜けてゆくのは難しい。組織立って動く騎士派と個々の能力に優れる剣豪派が出張ってきている今、見つかるだけでもう終わりを免れない。

 とはいえ逆に、そうでありながらかつては商売敵をやっていられただけの器があるのだ。その器を形成する要素がここで爪を閃かせた。

「先方にはもうお前の顔と名前を伝えてある。この仕事を下りれば契約違反でお前も消されるぜ? 賭けだったがな、生きててくれて助かったぜ」

 引き攣った、下卑た笑み。

「厄ネタ、厄ネタだよ、ああ認めよう。なにせ依頼主は<スィトリ>だ。この商売やってるなら聞いたことくらいはあるだろ?」

「てめっ!?」

 息を詰まらせ、胸倉を掴み上げていた。

 <スィトリ>、それはヨーロッパに拠点を置くとされる売春組織だ。広く根を張り、各国がやっきになって摘発しようとするも成せないでいる。警察組織はおろか、領分を越えて派遣された軍隊さえも壊滅させられたという。

 理由は二つ。<スィトリ>の影響は政府の中枢まで深く浸透しており、駆逐しに出たはずが罠に誘い込まれているに等しいということ。そして、そもそも<スィトリ>は<金星結社パンデモニウム>の下部組織であるということだ。

 遠く離れ、<竪琴ライラ>が目を光らせている日本だからこそ、侵蝕を許さなかったのだ。

 それが依頼主であるという。しかも特定個人ではなく十代の少女などという大雑把な指定で桁の違う大金を払うというのである。意味が分からない。

「分かってんのか? 引き渡した瞬間に消されてもおかしく……いや、消されるぞ」

「落ち着けよ、注目されるぞ、おい」

 ふてぶてしい笑み。無理は見えるが今や媚びはない。

 視線が集中しているのは分かる。言うとおり、注目されるのは避けたい。煮え立つ腹を宥めながら、言葉だけを繰り返す。

「消されるぞ、お前も俺も」

 高過ぎる報酬は、そもそも払うつもりがなければ何らおかしいことではない。<スィトリ>ともなれば自分たちを容易く屠れる人材を抱えているだろう。商品と引き換えに渡されるのが死であると想像することは容易い。 

 だが、返って来たのは不思議なほど確信に満ちた否定だった。

「それはない。<スィトリ>は日本に進出するつもりだ。最初から信用を投げ捨てる真似はしない」

「<竪琴ライラ>がやらせると思うか?」

「<竪琴ライラ>は近いうちに潰れる。お前も追われてるんだろ? それで<竪琴ライラ>に期待すんのかよ? 笑えるな」

「潰れる……?」

 追手としても、あるいはかつて在籍していた組織としても強固としか思えないあれが崩壊するなど、烈火には想像できなかった。

「どうやって?」

「知らねえよ。こちとら底辺の雑魚だぞ? 上の方のことなんざ分かるわけねえだろ。ただ……」

「ただ?」

「<スィトリ>が日本に進出しようと考えたのは、<竪琴ライラ>が弱体化したからだ。もう割に合わないわけじゃあないってことなんだからなあ?」

 まだ掴んだままだった手が振り払われる。

「こいつは賭けだ。本当に<竪琴ライラ>がくたばるかどうかなんて、蓋を開けてみなきゃあ分からない。だが震えて暮らしたっていいことなんざ何も起きるわけがない。そうだろ? そんな腰抜けを誰が省みるんだ? 俺は弱い。弱いからこそ一歩先に進んでおく必要がある。いつだって賭けなきゃいけない」

 ぎらぎらとした眼差し。野心と欲望に満ちて、心に抉り込んで来る。

 理解はできた。今のまま<竪琴ライラ>から逃げ続けるにも限度がある。破滅の時を棒立ちで待つよりは、敵方に賭けた方が遥かにましだろう。

 それでもなお、飛びつく気にはなれなかった。

「<スィトリ>がましだとでも? 上手くいけば今の状況からは逃れられる。だがその後を誰が保証してくれる? 代わりに<スィトリ>で犬にされるのがオチだ。俺は自由でいたいんだよ」

「勘違いするなよ、烈火。お前に都合のいい選択肢はないんだ。さっきも言った通り、既に向こうには伝えてある。お前は俺のいうことを聞いて生きるか、話を蹴って死ぬかだ。それとも腹いせに俺を殺してみるか? それこそ<スィトリ>を敵に回す行為だがな」

 あくまでも強気の恫喝。おそらく成功の暁には<スィトリ>の末席でも用意されているのだろう。そこにどれほどの信憑性があるのは分からないが。

「時限は明後日……いや、三日後なのか? 午前零時、要するにあと五十三時間くらいか。まあ、好きにしろよ。伝えることは伝えた。俺を道連れに死んだってお前の自由だ」

 その言葉を最後に背を向ける。去り行く足取りにも、腹立たしいほど迷いはない。本当に、腹いせで嫌がらせでもしたくなるほどに。ここで叩き潰してしまえばどれほど爽快だろう。

 だが、烈火の理性が勝った。<スィトリ>のことをさて置いても、衆人環視の中、<魔人>の力を振るうわけにもいかない。

「クソが……」

 忌々しい。面倒などという言葉で済まされるものではない。

 この<竪琴ライラ>に目をつけられている状態で人を浚って来いというのだ。そればかりではなく俊介の問題もある。このことを知っただけでも激怒する可能性が高い。今、おそらくは<竪琴ライラ>を見つけて始末しに行ってくれていたのは僥倖だった。

 やるなら俊介を一度遠ざけなければならない。上手く説得できればいいが。いかに子供じみているとはいえ、容易く誤魔化されてくれるとは思えない。ほんの四、五歳であってすら不合理を見ない振りをしながら様子を探るくらいはやってのけることがあるのを知っている。

 いや、うまくやるしかないのだ。恐れていても始まらない。

「くそ、くそ……」

 壁に背を預け、ずるずると滑り落ちる。

 どうしてこうなる。楽しく暮らしていたいだけなのに、何もかもが狙い済ましたように自分を陥れるべく組み上げられている気がして来た。

 落ち着け。自らに言い聞かせる。一つずつ片付けてゆくのだ。すべてを一度にやろうとしてはいけない。少しずつ、確実に厄介ごとを処理して終わらせる。最後にどんな形になっているかはまだ考えない。

 十代前半の少女でありさえすれば一億円。ありえない。改めて考えても都合のよすぎる条件だ。事実上それは、日本人であることくらいしか意味がない。もちろん平和であるこの国の出身であることは売春組織にとって間違いなく希少性の高い要素だろうが、<魔人>がその気になりさえすれば手に入れることは難しくない。必ず裏がある。

 あの商売敵が嘘をついているのか、あるいは裏の意味を考慮することなく飛びついてしまったのか。

 恨まれているとするなら、嘘をつくことで間接的に殺そうとしているのだろう。それはあり得る。仮にも競合者なのだ、自分たちが彼らにとてつもない不利益を与えたことがあるのかもしれない。だが、生き延びるのにさえ必死のこの状況で拘るほどだろうか。

 大きく溜息をつく。一緒にやってきた仲間たちを思う。彼らがいればもっとましだったろう。決断することに恐怖を感じずに済んだに違いない。

 頭の切れる誰かがいたというわけではないが、三人寄れば文殊の知恵という。一人の人間の思考はどうしても凝り固まって、言われてみれば何故思いつかなかったのか不思議なほどに当たり前の考えにも至らない。しかし三人、四人いたならば、凝り固まったまでも広く網羅できる。検討し合うことで解れさえもする。そうして得た結論ならば自信も持てるのだが。

 もう一度溜息。

 失ったものを嘆いている暇はない。頼れるのはもはや自分だけだ。

「……少なくとも、誰でもいいってのは間違いだろうな」

 本当に<スィトリ>からの依頼だったとして、本当に十代前半の少女だけを条件にしたのだとして、けれどもそれが本意であるとは限らない。日本に進出するために現地の優秀な人材を発掘する目的で、一億の価値を持つ商品を持って来られるか否かを試験しているのかもしれない。

 一億の価値となると、条件は二つ浮かぶ。

 一つは容姿とスター性。一億程度ならば軽く稼ぎ出す者はあるだろう。

 しかしこれを見つけ出すのは難しい。実際には現役のアイドルでも浚って来るしかないに違いない。十代前半となれば至難の業だ。一人しか思い当たらない。

 もう一方は背景である。財力か権力かを有する親あたりを動かすことができればいい。

 こちらは調べさえすれば幾人かは挙げられるのではなかろうか。より現実的だ。

 そして<スィトリ>が日本に進出しようとしているのであれば望んでいるのは後者だろう。財界、政界に足場を作りたいはずなのだから。

 幸い情報屋に心当たりはある。

 決行するならば明後日。浚うこと自体は<魔人>が護衛してでもいない限り容易いが、時が来るまで人間を一人隠しておくのは難しいからだ。

 為すべきことは弾き出せた。

「クソがっ……」

 が、口を突くのは怨嗟の声だ。

 これを実行するということは、<スィトリ>の日本進出の足がかりを作るということであり、この国の敵になるということを意味する。

 そんな大それたことなど望んではいない。ただ楽しく暮らしていたかっただけだというのに。

 だが、こうなってしまった。

 道行く人々は、数百人、あるいは数千人いながら、一瞥する程度で誰も注意を払わない。

 嘆く少年など、社会にとってただの背景でしかないのだ。

 まだ夏を残す大気に全ては埋もれてゆく。

 地の底から酸素を求めて烈火は喘いだ。





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