笛の音響くこの空に・三
狭苦しい部屋だった。
床の面積ということなら二十畳はあるだろうが、鰻の寝床である上、天井はある程度の背丈があれば腰を屈めなければならない程度の高さしかない。
「ひどいもんだな」
足を踏み入れた光次郎は、こびりついてまだ残る饐えた臭いにまず眉を顰めた。
打ちっ放しのコンクリートに窓の類はなく、換気用なのか壁に数箇所の細いダクトは見られる。奥には剥き出しのトイレが一つだけ、手前にはこれも剥き出しの洗面所が一つだけ。
真新しい二十階建てのビル、その最上階と屋上との間に密かに作られた空間。入り口は階段の裏に隠されている。
屋内からは幾つもの扉で封じられ、また屋上には何もないため、この素っ気ないコンクリートの階段を使用する者すらほぼ皆無なのだが、たとえ日常的に通る者が多かろうともちょうど出くわさない限り見つかることはまずないだろう。
最後の踊り場から屋上へと向かう一段目には、指を挿し入れるべき窪みが存在する。そして最上段の位置で縦にスライドし、階段そのものを持ち上げることが可能なのだ。その奥に内開きの扉が存在している。
無論のこと、重量は数トンにも及ぶ。人間では到底為しえず、<魔人>でもある程度膂力に優れていなければならない。恐ろしいほどに原始的で、ある意味頭の悪い、しかし極めて有効な隠し方、閉じ込め方ではある。
この部屋は人身売買のための、言わば保管庫として利用されていた場所だ。昨夜追い詰めた輩とはまた別件で、こちらの方がより悪質と言えるだろう。
「このビルの所有者とはグルか」
「建設会社も、である可能性は高いでしょう。あるいは脅されていたのかもしれませんが」
この唐繰りは建てられた時点からのものに違いない。<魔人>が利用することを前提に仕込まれている。
連絡から一人、そのまま付いて来た小早川玲奈は小さく溜息をつき、続けた。
「いえ、むしろ脅されていたのでしょう。それで年に何十億、何百億という利益を得られるのでもなければリスクに見合いませんからね」
「人間の値段ってことになると見当つかんが、ちなみにどれくらいで売り買いされてるのか知ってるのか?」
「……一人あたり数百万です」
口にするのも不愉快なのか回答する前に眉根を不穏に寄せ、感情を押し殺した声で告げる。
光次郎は唸った。
「安いな。もっと値段を吊り上げそうなもんだが」
社会人の平均的な年収で買えてしまいかねない値段だ。違和感を禁じえない。最低でも桁がもう一つ上になりそうなものである。
しかし返って来たのは否定だった。
「結局は需要と供給です。財団派領域では目が行き届かないせいかこの手の人攫いを行う<魔人>が多く、誰かが安く売ればそれに合わせざるをえない。押し売りもできるでしょうが、それくらいならいっそ強盗をした方が早いですからね。あとは……金銭感覚の問題もあるのかもしれません」
玲奈が冷ややかに僅かな笑みを浮かべる。
「人を殺すこと、あるいは浚って来て売ることはできても、数千万、億の取引をする度胸はないというのだからおかしな話です」
「なるほど、分からないでもない」
年齢的に、それまでは一万、二万程度でも大金だったはずだ。腰が引けてしまうことは充分にありえるだろう。また、金額こそが己の犯した罪の大きさとして圧し掛かってくるのかもしれない。
「となると、そのアホを企業側がうまく乗せて利益を得ていたという可能性もそれなりに残るわけだ」
腕力だけが全てではない。ただの人間の方が余程始末に負えないことはある。侮ってはならないのだ。
「そのあたりの判断は下の警察がやってくれるでしょう。我々が今こうして現場を見ていられるのも、彼らが封鎖してくれているからですし」
財団派は警察機構との繋がりが強い。こちらの正体は明かさぬまでも、ある程度は都合のいい舞台を整えては貰える。
とはいえ、それほどゆるりとしていられるわけでもない。
「それよりも
「ああ」
二人は青い空を見上げた。
入り口近くの天井には今、巨大な穴が開いている。比較的綺麗な円形をして、元々天井を構成していたのであろう物質は床に砂塵として散らばっているのだ。
「あくまでも証言からの推測に過ぎませんが、
「そして姿を消した、と」
「繰り返しますが、推測です。我々は姿自体は確認していません。ただ、この季節にロングコートという出で立ちであったらしいことと、この破壊の痕からすると……」
玲奈が言葉を途切れさせた。
その横顔に隠し切れぬ怯えを光次郎は見た。
実のところ、<
解説、見解を述べる口調が堂に入っている。つまりは慣れているということだ。こういった役割をいつも果たしているのであろうことは想像に難くない。だから今回の連絡役にも任じられたに違いない。そして残る二人も、同様であるかどうかはともかく、きっと何らかの形で有能なのだろう。
しかしそんな彼女でも恐れを堪え切れないでいるのだ。
「……壊すだけなら珍しくはない。けれど、どうすればこのようになるのか」
物理的に壊したのではなく、まるで破壊の意を此処に顕した結果、コンクリートが砂塵と化すしかなかったかのような。
ただの空想なのに、それを否定する気が起きない。
「この程度でおたつくなよ。同じ芸当は無理だが同レベルのことならできる」
落ち着かせるためにそう告げる。嘘ではないが、そう耳にして思い浮かべるものは事実とは異なるだろう。
警戒する必要はあるだろう。今のところ<
小さく息を吐く。
何にせよ、考えるべきは次である。
「それで、俺に何をして欲しい?」
切り込んだ。
「オーチェに何か言われたか」
「いえ、我々の独断です。オーチェは、今は放置、と」
「お前ら……? ああ、<
どういうことなのかと惑いかけ、それから思い出した。財団派は各構成員の裁量に任せられるところが多いのだ。人数が多く、かつ地域ごとの独立性が強いためである。それがゆえの連携の脆さを突かれ、今こうなっているわけではあるが。
「何を考えている?」
「
声は淡々と玲奈は告げる。その横顔の怯えを拭えぬままで。
それほど恐れながらなぜ、と疑問を抱く。
「別にアプローチなんて大したもんじゃない。ただの勘を当てにされてもな」
「本当にそうでしょうか? 勘で当てた、という展開は剣豪派では決して稀ではないそうですね。それは偶然や当てずっぽうではなく、自覚していないだけで一つの知覚力、探査能力なのでは?」
「どうだろうな」
光次郎は小さく笑った。玲奈の推測を否定はし切れない。
「強い奴、斃すべき奴を求め過ぎたせいで生じた超感覚だとしたら面白いと俺も思うが、そんな曖昧なものに期待されても困るのは本音だ。しかしまあ、仮に見つけて、接触できたとしてどうする? こっちから仕掛けたらただのアホだぞ」
「敵対行動はとっていませんからね。聞いた話では、おそらく反撃に一切の容赦はないでしょうが。心配ありません。我々は戦いたいのではなく、話がしたいのです」
声にはやはり淀みはない。滔々と流れ、しかし一つだけあった偽りを光次郎は的確に見抜いた。
「……我々、な?」
「……何を言いたいのですか」
「それは<
いかに玲奈に背丈があるといっても光次郎の方が高い。ぎろりと見上げて来た眼差しを、射抜き返す。
<
「
「やめとけ」
玲奈の言うことがおかしいわけではない。名和雅年との対話は成立するだろう。この綺麗な穴は余計な物を壊さず、被害者を無意味に死なせないために行ったものだ。標的を殺すだけならばビルごと粉砕してしまってもよかったのだから。
だが同時に、それを利用しようなどとすれば一帯全てを巻き込むことを厭わぬ男であることも分かっている。
「俺の勘を当てにするというのなら、会うのはやめておけ。碌なことにならんぞ」
「……あなたの勘がそう告げているということですか?」
声は今もって冷静だ。しかし目は口以上に苛立ちを叫んでいた。
それを光次郎は平然と受け止める。
「俺はお前の後押しをしてるはずなんだがな」
<
「お前らが仲良く振舞ってるかどうかは知らねえが、一皮剥けばむしろ犬猿の仲じゃないのか?」
光次郎自身に色恋は分からない。戦友としての感覚と腐れ縁くらいのものである。しかし人間だった頃、周囲の様子を気に留めぬほど無関心でもなかった。
嫉妬を取り繕って作り上げた仮面を着脱する様を横目に眺めていたのは一度や二度ではない。
玲奈は応えなかった。だから光次郎が続けた。
「
「…………ずかずかと土足で。遠慮というものを知らないのですか?」
憮然と、ついには声まで染まった。
光次郎はにやりと笑った。
「死ぬよりましだ。基本的に男はアホだからな、たまにぶん殴って現実を思い出させてやる必要がある」
「素也さんをアホって言いましたね?」
「アホだからお前らを助けられたんだろう。で、お前らが支えてるからやっていけてる。違うか?」
すべて推測に過ぎない。分かっていることと、話していて感じたものから作り出した想像に過ぎない。だが大きく外れていない自信はあった。
玲奈は深い、腹の底のものをすべて吐き出すほどに長い溜息をついた。
「…………
高原清香。小柄で幼く見えるが、逆に四人の中で最年長。
刑部綾。なんとも勝気なトラブルメイカー。
光次郎が知っているのはその程度だったが、当然ながら玲奈は違う。
「『氷河事件』解決も<赤蜘蛛>の討伐も、普通なら成功するはずなんてなかった。成功するなんて、私はまったく思っていなかった。なのにあの二人と素也さんは……本当に凄いんです。だから……」
口調にはほのかな熱。
憧れと、その裏返しの劣等感。
「だから、私の危惧を超えて行ってくれる。今回もきっと」
「そんなわけねえだろ」
潜む偽りを光次郎は遮った。
ここでかけることのできる言葉は幾つもあった。
お前も他の三人に劣らない働きをしているはずだ。お前たちは今や財団派の中心なのだから自分たちのことだけを考えるな。
だが趣味ではなかった。剣豪派の例に漏れず、光次郎も個人主義の傾向にある。自己は律しても、あまり他人の意思に干渉しようとは思わない。
そして何にも増して強く、浮かんでしまった考えがあった。
「お前、この機会にライバルを消す気じゃあるまいな」
「まさか。戦闘に勝って戦争に負ける趣味はありません」
玲奈の歳に似合わぬ冷たい微笑みは、まさに仮面だったろう。
「清香さんも綾さんも、私は好きですよ。困った姉が二人できたみたいで。それは本当のことです。けれど心は単純に割り切れるものではない、と」
これは思った以上に面倒なことに巻き込まれたらしい。きちんと手綱をとっていない<
いざとなれば斬るか、そう心に決めたときだった。
潮が引くように、玲奈の笑みが掻き消えていた。
「それで結局、引き受けていただけるのですか?」
「ついでに探してみる程度はいいぜ」
並の人間ならば気後れするほどの無機質を軽く受け流し、光次郎は頷いた。
流れからして断られると思っていたのであろう玲奈の方が少し目を見開いたくらいだ。
「お前が何を考えてるのかは分からんままだが、見つけられたらオーチェにとっても意味はあるだろう。まずはそっちに報告して、お前にも教えてはやるさ」
今一度、光次郎は目の前の少女を観察する。
憧れの二人に譲る、そんな大人しい性質ではない。涼しい顔のまま策略でもって己が望みを掴み取ろうとする類の女だ。自ら口にした通り、戦争に勝つつもりでいるのだ。
だが同時に、二人のことを好きだと言ったのも嘘とは思えない。
この件に関して今までこの少女に抱いた印象、いずれも外れてはいないが的を射てもいないのであろうことは察せる。
「俺から見たお前で、一番確実なのは処刑人に怯えているということだ。お前は奴に会いたいのか、会いたくないのか。会わせたいのか、会わせたくないのか。正直興味は湧く。さっきも言った通り、やめておけと俺の勘は告げてるがな」
「私にだけ教えてくれるというわけにはいきませんか」
「腹を割って話せよ。こんな曖昧なまま欲しいものを貰おうなんて虫が良すぎるぜ」
そもそも確かな潜伏先を見つけられるのか否かは別として、教えてしまえばそのことによって玲奈が為す何かに対して光次郎にも責任は生じる。知らん顔というわけにはいかない。玲奈が何をしようとしているのかくらいは知っておきたかった。
それは道理と観念したか、不機嫌そうに眉根を寄せながらも玲奈は声を潜めた。
「これは内密に。先ほども言った通り、勝てないはずだった戦いを二つ、我々は勝ってしまいました。結果、周囲からの期待は大きくなり過ぎ、素也さんたちにも過信が見られます」
理解できる。一度だけなら偶然かもしれない。しかし二度できたならば、三度目以降もできるのではないかと錯覚してしまうのだ。特に今の財団派は英雄を欲している。過剰に期待をかけ、そして彼らは応えるべく自分たちを信じる。
「冷静だな」
「私の役目だと思っています。
「処刑人になら負けても仕方ない、か。お前の目論見通りいくか?」
光次郎が疑問に思うのは幻想を砕けるか否かではない。そもそも<
「お前、何をする気だ?」
「だから、私にだけ知らせて欲しいのです」
瞳に潜む怯えは晴れず、しかし決意が滲むのを光次郎は見た。
その理由は続く言葉で示される。
「あらかじめ
「……ああ、そうか。そういうことか」
得心した。
この少女は、重圧によって奈落へ導かれつつある想い人を、命を懸けて救うつもりなのだ。
独りで会うとなれば、彼女の力量では処刑人がその気になるだけで死ぬことになるだろう。
会いたくないし、会わせたくない。会わなければならない、会わせなければならない。
「損な役回りだ」
「そうでもありませんよ。上手く立ち回れば大手柄、仮に死ぬことになっても素也さんの心に私は深く刻み込まれるでしょう」
「死を美化するなよ、アホ。おまけに気付かれなきゃ手柄にもなりゃしねえ」
怖くないはずはない。死んでもいいなどとは欠片も思ってはいまい。他の二人に譲るなど真っ平ご免だろう。
それでもそう決めたのだ。できるからこその、使い手と
光次郎は長く息を吐いた。
「だが、いいだろう。あくまで見つけられたらだが、最初に教えるのはお前にしよう」
「ありがとうございます。このお礼は、命が残っていればいずれ」
「要らねえよ」
言い残し、天井の穴から屋上へと一跳び、音もなく着地して周囲の様子を探る。街の音はここまで届いているが不穏なものはない。報道ヘリも来てはいないようだ。
中天から西に寄った太陽は眩暈がするほどに眩く、熱い。
『教えるのは、な』
聞こえぬよう、声はなく口だけが動く。
年下の少女に死を覚悟させるのは、趣味ではない。
ふと、口うるさい序列最下位のことを思い出した。
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