笛の音響くこの空に・二




 九月はまだ暑い。

 昼となれば肌を焦がす陽の強さに閉口する。夜に活動することが多かった烈火に、眩いほどの光は毒だった。

 公園に移動式のクレープ屋、ありふれた光景。

「ありがとー、じゃあね」

 代金を払って朗らかに手を振る青年というのも、ありふれているのだろうか。

 少なくとも、店員の娘は営業とは異なる笑顔を浮かべていた。しかし勘に過ぎないが、何かちぐはぐなものを感じてならない。

「はい、烈火の分」

「悪いな」

 二人して芝生に腰を下ろし、クレープにかぶりつく。

 甘いものは烈火も嫌いではなかった。人間だった頃も<魔人>となってからもあまり口にしなかったのだが、俊介が自然体と言うべきか無邪気と言うべきか、飾らないのでこちらも気を張るのが馬鹿らしくなってくる。

「あの子、可愛いね」

 笑顔のまま、そんなことを言う。指しているのはクレープ屋の店員だろう。

「そうだな」

 そこまで魅力的でもない、精々が十人並みだと思うがひとまず同意してはおいた。気を張るのが馬鹿らしくなろうとも、心を許してはいない。

 二人の前を人が行き交う。<魔人>が血で血を洗う抗争を繰り広げているなどとは知ることもなく。

 とはいえ、まったく影響のないわけでもないだろう。どうしても街に、山に傷跡が残る。原因不明の災害として心のどこかに不安を抱えつつも、この日常が失われることはないと信じ込んでいるのだ。

 愚かと言ってしまうのは、むしろそれが浅はかだ。思考を構築するための要素が欠けていては気づくことなどできはしない。人間であれ<魔人>であれ、見えるものしか見えない。

 うまくやっていたつもりが瞬く間に追い詰められ、仲間を失ってしまった身としてはとみにそう思う。

 そして大事なのはこれからだ。俊介がどう動くかで自分の動き方も変わってくる。

 <竪琴ライラ>の魔の手から人々を守る、と宣言してはいたが、考えなしにただ突っ込まれてはたまったものではない。

「それより、これからどうするんだ? <竪琴ライラ>は簡単にどうにかできるもんじゃないだろ?」

「そうだねえ……昔も仲間と一緒に頑張ったけど、みんな殺されちゃった」

 俯いて憂いの溜息を落とし、俊介はしばし沈黙してから顔を上げた。

「正直ね、僕は頭が良くないんだ。正義はこの胸にあるけど、どうすればいいのかはよく分からない。この前も騙されてたしね。僕にできることは……とにかく<竪琴ライラ>と闘うことくらいなんだよ」

「……そうか」

 寂しげに響くその声に、何と返すべきなのかは分からなかった。同情や感傷ではなく、鏡俊介という男を掴みかねているがために。

 嘘はないと直感は告げている。だが、同じ直感が違和感を囁いている。

 烈火の警戒になど気付きもしないのか、一転して俊介はいつものように朗らかに笑った。

「だからもう、難しいことは考えないでさ、目の前で<竪琴ライラ>に襲われてるひとがいたら助けることにしてるんだ」

 一陣の風が駆け抜け、俊介の少し長めに伸ばされた髪を揺らした。

 網膜に焼きついた昨夜の光景が鮮やかに蘇る。

 紅い旋風。烈火の目にも留まらぬ速さで首を刈り取って行った、死神の如き所業。

 頬を撫でるもの、首に吹きかけられるそよぎがあの紅の刃に思えて怖気を震った。

 不自然に凍りついたことに気付かれなかったか、横目で確認すれば俊介は別のものに気を取られていた。

「あ、あそこ、お揃いの服で歩いてるよ! 可愛いね」

 散歩なのだろう、初老の女性と小型犬。言うとおり、犬には前肢から胴まで飼い主と同じ柄の服を着せてある。

「昔の仲間にペット大好きな人が二人いてね、でもいつも喧嘩してたんだ。服は着せた方がいいのか着せない方がいいのかって」

 懐かしそうに目を細め、口元にうっすらと浮かぶ笑みは無邪気なものだ。<魔人>となって間もない時期、全能感に侵されていた頃の自分を烈火は思い出した。それに衝き動かされて剣豪派へ行ってしまったせいで目が覚めたのだが。

「烈火はどっちがいいと思う?」

「そうだな……」

 まるで興味のない、こんな下らない質問にも言葉を選ばざるを得ない。

「似合ってるかどうかが一番重要なんじゃないか? ファッションだしな」

「なるほどねー」

 相も変わらず、気を張っているのが馬鹿らしく思えてくるほど人懐こく、俊介は素直に頷いた。

「他人からどう見えるかが重要、か。なるほどねー」

「独りよがりじゃ多分駄目だ」

 この路線で問題ないと見て、あとはそれらしいことを続けながら、果たしてこの男を制御できるのか、烈火は推し量る。

 読めない読めないと恐れて思考を空回りさせていては機を逃す。此処は相対的には安全というだけの敵地なのだ。人の目がなくなった瞬間に襲われてもおかしくはない。一分一秒が過ぎるほどに危険は増してゆく。

 操ること自体はおそらく容易い。少なくとも<竪琴ライラ>にぶつけるならば戦場を与えてやりさえすればいいだろう。朴訥な物言いを<大典太光世>へと平然と向かってゆく精神性が裏打ちしている。

 ただ、持続に不安がある。昨夜から先ほどに至るまで、クレープだの犬だの、目の前の興味を引くものにすぐ気を取られてしまっているのだ。小さな子供に似ている。

 そう、子供だ。そう考えたなら、気に食わないことをすればすぐに臍を曲げてしまう恐れがある。そして万が一にも暴れようものなら、振るわれるのは昨夜のあの力だ。

 表情の変化を見逃さぬよう、細心の注意をもって観察し続けなければならない。

 そう己を戒めていたら、不思議そうな顔で覗きこまれていることに気付いた。

「どうしたの? 何か難しいこと考えてる? 僕には分からないけど、こんなときはいったん落ち着くのがいいんだよ」

 そして取り出したのは洋式の横笛だった。知識のない烈火にはそうとまでしか判別できなかったし、着の身着のままと見えていた俊介が50cm以上にもなるそれをどこに隠し持っていたのかも分からない。

 だが、何をしようとしているのかは明白で、慌てて止めようとした。

「待て、こんなところで目立つことするんじゃない!」

 ほぼ間違いなく二人とも面が割れているのだ、人の意識に残るような真似をすれば間違いなく<竪琴ライラ>を呼び寄せる。今こうして公衆の面前に姿を見せているだけでも危険だというのに。

 制止は間に合わない。既に音色は奏で流れ広がり、そして烈火は続けようとした言葉を忘れて背を震わせた。

 知らない曲、美しい旋律。

 これはただの笛の音だと自らに言い聞かせる。それでなお、震えが止まらない。

 優しい音が風を誘っていると思った。遊ぶように、踊るように、気の遠くなる青の果て、空の向こうまで駆けて行く。

 ただの笛の音だ。歯を食いしばる。それでなお、総身を痺れが走り抜ける。

 これはまさか異能なのだろうか。

 違う。

 ただの笛の音なのだ。青年が神憑かみがかった奏者であるだけで。

 知らず、涙が溢れていた。<魔人>となり、人間を捕まえて売り飛ばしていたような自分が、わけもなく泣いていた。

 一人、また一人と足を止め、聞き惚れてゆく。耐え切れずにしゃがみ込んでしまった者もある。

 渇した心身に沁み渡る涼やかな水、火照った肌を撫でてゆく風。凍える指を溶かす炎、疲れ果てた肉体を受け止める大地。そのいずれでもあり、入り混じり、重なり合う波紋として満たしてゆく。

 しかし時を刻みながら、終わりはやはり来る。

 すべてが収まったとき、静寂だけがあった。

 横笛を下ろし、俊介がにこりと笑った。

 誰も彼もが見栄など忘れた。己を衝き動かす情動のままに万雷の拍手が降り注いだ。

「もしかして、目立ったら襲われるとか心配してる?」

 囁きではない、しかし響きもしない声。

 俊介はこちらを向くでもなく、にこやかな笑顔を振りまいている。

「大丈夫だよ。こうやって囲まれてたら、<竪琴ライラ>が仕掛けてくることなんてほぼない。<竪琴ライラ>は大嫌いだけど、それだけは評価してる。僕らの戦いに巻き込んじゃったら可哀想だからね。それに」

 続く言葉には何の気負いもなく。

「来たら片っ端から駆除するだけさ」

 拍手はいつまでも途切れず、響き続けた。
















 剣豪派からの出向となる初瀬光次郎は、基本的には自由に動いている。

 財団派から何らかの要望がある場合にだけ、連絡を受けて現場へ、あるいは財団派中枢である<薄暮離宮>へと向かうのだ。当初は<薄暮離宮>内に部屋をという話だったのだが、身動きがとりづらくなるため光次郎の方から断り、ねぐらは毎日適当に変えている。

 出向には自ら志願した。面白そうだったからである。仲間と修練しているより、より多くの実戦に身を置くことを光次郎は好む。

 剣豪派序列三位<大典太光世>、その呼称にもあまり興味はない。強さこそが誇りであり、恃むものだ。

「あの野郎……」

 空手道場の看板がかかったビルの前、自動販売機で買った麦茶を飲み干し、ゴミ箱に放り捨ててから唸る。

 交錯の瞬間、互いに一太刀ずつを浴びせた。脚は速いようだったが剣速はこちらが上、それ以前に剣の腕そのものが力任せに振るう域は脱している程度でしかなかった。こちらが既に袈裟懸けに切り捨てようとしている段階で、相手はわざわざ振りかぶった状態にまだいた。

 倒せるか否かはともかく、その一合は自分が一方的に勝ち取れる、そのはずだったのに。

 気付けば斬られていた。

 幻を見せられていたのかとも疑う。こちらの剣が何の違和感もなく勝手に外れて肩を掠めるに留まったのに、敵手の剣は振り下ろしていたはずが横薙ぎになって腹を裂いていた。

 技の冴え、などではない。序列二位<童子切安綱>には思いもよらぬ技で翻弄されることもあるが、あれは卓越した手品を見せられたような驚きと爽快が残る。対して、悪夢めいてどろりとした気持ちの悪さが拭えないのだ。

「あれに暴れ回られるとまずいが……」

 間接的にだが、報告は既にオーチェへと上げてある。やられた四名は騎士派から派遣されてきた中でも二番目か三番目には位置する手練れのチームだ。それを瞬時に屠ってしまうなど、自分の裁量で対応してよい相手ではありえない。

「そもそもありゃ何なんだ、どこから湧いた?」

 碌に何も分からない不気味な相手ではあるが、何よりの疑問はそこにあった。

 あれほど強力な<魔人>が反<竪琴ライラ>の立ち位置にいるとは聞いたことがない。旧<横笛フルート>の幹部連中でもあそこまでではないはずだ。

 もちろん、どこに属しているわけでもない<魔人>もいるが、単独で状況を動かしうるほどならば<竪琴ライラ>は動向を押さえてある。

 妥当な線としては、新たに海外から入り込んできたか。<魔人>を傭兵として斡旋する<ギルド>が数ヶ月前から日本でも活動を始めていることは知っている。まさに<竪琴ライラ>が睨みを利かせているため、あまり浸透してはいないものの僅かずつながらも増加していると聞く。

 彼らの力量には大きな幅がある。あれだけの男がいてもおかしくはない。

 あるいは何か、いっそ当たり前すぎることを見落としているのかもしれないが。

 大きく息をつき、背後に現れた気配へと振り返る。

「どうした?」

「不機嫌じゃん、コーちゃん」

 短めに刈った髪に、細いブルーレンズの伊達眼鏡。

 もう見飽きて久しい顔だ。それを乗せる体躯はひょろりと高く、それでいて肩幅は恐ろしく広い。

 序列七位<数珠丸恒次>、計森泰斗かずもりたいと。光次郎とともに財団派に出向している男である。

「聞いたぜェ? 見事にやられたんだって?」

「次はやらせん、斬り捨てる」

 軽い口調の揶揄に苛立つでもなく、光次郎は据わった目つきで断言した。

 泰斗は芝居がかった動きで肩をすくめ、口笛を鳴らす。

「もう勝つ算段がついた……てなわけでもなさそうだがねェ。無茶したら、帰ったとき真朱まそほちゃんにお説教食らうぜ、怖い怖い」

「知るかよ、なんであのへっぽこに口出しされなきゃならんのだ」

「ひでェな、そんなんだから真朱ちゃん争奪戦最下位なんだよ」

「アホ、そんなアホなことやってるつもりなのはお前だけだアホ」

「うわ三回もアホって言った! <無尽城郭いえ>帰ったらボコってやる」

「やってみろアホ、返り討ちだアホ」

「五回目!」

 二位から七位の実力にさほどの差はない。二位が頭一つ、三位が半分抜けてはいるが、充分に覆えりうる程度でしかないのだ。

 だからこそのじゃれあいである。すべての構成員は対等と建前を掲げてはみても、強さを求める剣豪派ではそれが上下関係を作ってしまいがちで、そこを全く気にしないのは最下位の柊真朱と一位の水守師直だけだ。

「それで、もう一回訊いてやるが、どうした? 用事は何だ? 偶然出くわすには財団派領域は広すぎる」

「偶然の結果なのは間違いないぜェ。もっともその相手はコーちゃんじゃあなくって美少女だ」

 にやりと笑うその背後にもう一人の姿があることに、光次郎はここで初めて気付いた。

「なるほど、偶然会ったからそのまま護衛か」

「そりゃあ、コーちゃんがしてやられたこの状況でVIPを放置するわけにゃあ、いかないもんねェ?」

「嘘つけ、ただの下心だろうが」

 計森泰斗は女癖が悪い。決まった相手がいようがお構いなしなのが本当に始末におえない。

 心配になってきた。

 泰斗が不始末を起こせば剣豪派の責任になる。できれば剣だけ振っていたい光次郎としては勘弁願いたいところだ。

「大丈夫か、おかしなことはされてないだろうな?」

「あ、いえ……」

 何とも微妙な顔ではあるが、返って来た否定に嘘はなさそうだった。

 当のその美少女は光次郎も知っている。小早川玲奈といったか、<三剣使いトライアド>と契約した剣化<魔人>ブレイドメイデンの一人である。

 背丈もあり、大人びた顔立ちをしているがまだ十五になってさほど経っていないのだとか。もっとも、<魔人>の容姿に実年齢との整合性を求めても詮無いことではある。

 ともあれ、戦力が大幅に減少している今の財団派において中核を担う彼女が、他愛のない用件で連絡役に使われるはずもない。

「それで、昨日の奴でも見つかったのか?」

「いえ、そちらではなく」

 硬い声で彼女はかぶりを振る。

 尋常ならざる緊張が見て取れた。

「また<呑み込むものリヴァイアサン>が動きました」











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