笛の音響くこの空に・五




 空が白かった。

 正午まであと少し。薄く霞でもかかっているのだろうか、光は強く、青は弱い。

 この一帯で最も背の高い県庁の屋上で、視線を上から下へと戻し、初瀬光次郎は口の端を歪めた。

「なるほど」

 先ほどまで<呑み込むもの>リヴァイアサンを追っていた。あの格好は目立つ。噂話を元に一度捉えたならば逃すはずもない。そう思えたのだが。

 建物の影に入り、視界から消えた瞬間にかき消すように存在まで消えてしまっていた。

 期待された勘はそれでも少しの間ははたらいていた。まだ近くにいると、鼻の奥がひりついていたのだ。しかしそれも数秒のこと、今はもう何も感じない。

 どうなっているのか、もちろん何らかの唐繰があるのだろうが。

「そりゃそうだ。仮にもあの処刑人が力だけのアホなわけないわな」

 最近、一つ覚えのように高いところへ登っている気がする。しかしやはり高所から視線を通すのは基本にして最も有効な手段なのだ。

 そして、有効なはずのこれに引っかかるようでいてその実、捕まえることはできない。目撃情報を集めようと、最終的には全てが無意味になる。

「引っ掛けられているのはむしろこっち、か」

 誘導されている。注意を引きつけておいて、何らかの手段によって裏をかく。それもまた基本ではあるが、手がかりから進めざるを得ないこちらとしては出された餌に食いつかないわけにもいかない。

 どうやって姿を消しているのか、それさえ分かれば打開できるのだろうが。

 屋内、あるいは地下に身を隠した可能性は低い。実際に幾度か探してはみたものの、行き交う人に尋ねてみてもあの印象的な姿を見たという者がないのだ。

 実際、いざとなっても身動きがとりにくいだろう。大立ち回りを演じることはもちろん、壁や天井を破って離脱するだけでも社会の目に大きく留まってしまうおそれがある。

 だから極力人目につかない手段をとっていると考えられるのだが、そこから先が完全な闇なのである。

「<闘争牙城>にでも入ったか……いや、さすがにそのくらいは既に検討されてるか」

 <魔人>同士が何かを賭けて決闘を行う<闘争牙城>、欲望溢れるあの閉鎖領域は日本中に入り口が存在するという。ただし入った場所からしか出られないため、自ら袋小路に入り込むに等しい。こちらは待ち構えていればいいだけだ。<闘争牙城>の特性を知っている相手から逃げるのには使えない。

 財団派にも<闘争牙城>を知らない者は多いだろうが、オーチェが把握していないはずもなく、一度は指示しただろう。

 あるいは、ともう一つの閉鎖領域の存在が頭を過ぎる。

 常夜の<魔人>街。明けない夜に抱かれた、<魔人>のみが住まう廃墟群。一度入れば出ること能わぬ蠱毒の壷。唯一の例外は<魔人>街の王であり、脱出したければ王を倒し王となる他ない。

 実しやかに囁かれはするが、実在するかは怪しい。出られないはずなのに中の事情が分かっているというのは、まさに王が言いふらしでもしない限りあり得ないはずだからだ。

「参ったな」

 気になる。あの少女のこともあるが、何より追い始めてしまったなら追い詰めたい性分だ。

 しかしこれはついでなのだ。元よりそういう話であるし、今回も偶然早々に耳にしたからこうしてここにいる。

 光次郎の仕事はあくまでも財団派への協力、オーチェが静観と方針を定めている<呑み込むもの>リヴァイアサンを深追いすることは望ましくない。

 もしかすると、そういうことなのか。

 膝を抜く。制御された脱力から、振り返りざまの抜刀斬撃。宙空より湧き出した大太刀、クラウンアームズ『ガチリンノカケラ』が蹂躙する空間、間合いは広い。

 僅かな気配があった。敵とも味方とも知れぬ、誘う意図。殺し合いの中で身につけた感覚が、思考を経る前に身体に対応させていた。

 とはいえ、これは牽制だ。間合いの広さは至近での取り回しの悪さでもある。裂いたのが空のみであると覚るや、懐に潜り込まれぬよう、自ら振るう太刀の流れに乗りながら身を低め、右の脇構えへと移行した。

 そして、溜息にも似た低い呟きが漏れた。

「……何やってんだ、お前」

 光次郎の間合いを少しだけ外し、佇んでいたのは一人の女だ。

 年の頃は二十歳ほど、薄紫の着物着て、これもまた淡い紫の髪を結い上げて、薄く笑みを湛え、こちらを見つめている。

 どの人種ともつかぬ相貌は震えが来るほどに美しい。人間には存在しないはずの色だというのに、白い陽光に融ける髪は黒よりも自然に思えた。

 見慣れた姿だ。剣豪派拠点である<無尽城郭>で、朝はごろごろし、昼は猫と戯れ、夜は早々に布団に入る高等遊民。その髪と瞳の色からなのか、紫丁香花ライラックと名乗っている。

「もちろん、お仕事っすよ、光次郎君」

 手にした扇子を開いて口許を隠し、替わりとばかりに悪戯っぽく目許に艶を湛えて彼女は答える。

 それそのものが笑い話ではあった。ライラックは神官派におけるステイシア、財団派にとってのオーチェと同様の、統括役であるはずの存在だ。しかし実際に指示を出しているのは序列二位、<童子切安綱>伯耆吾郎ほうきごろうであり、遊んでいるライラックの姿しか目の当たりにしたことはない。

「いいですね。驚きはしませんか」

「他の五人が強さなり運営手腕なり持ってるってのに、お前だけ本当にポンコツなんてアホなオチはないだろうからな。どうせ役立たずを演じてるんだろうとは思ってた」

 刃を消し、戦闘態勢を解く。それが主目的であるか否かはさておき、わざわざやって来たのだから自分に用はあるのだろう。

 ライラックはなおも目を細める。歯切れ良く言葉は続く。

「組織運営とか、あたしの専門外ですからね。正直吾郎君がやってくれて助かってますよ。まあ、そもそも唯一統率の本職なのが猪エリスってところが皮肉なんですけどね」

「まとまってはいるんだろ?」

「なにせ危なっかしくて放置しておけませんからね、あの子」

 ここで扇子が閉じられた。絹めいて繊細な黒の布手袋、細く長い指が蜘蛛のように己の白い頬を這う。

 <無尽城郭>でだらけているときとはまるで異なる妖しいまなざしに、じっとりと汗が湧いてならなかった。

「それで? まさか仕事をサボりに来たか?」

「単刀直入に言いましょう。光次郎君、<呑み込むもの>リヴァイアサンを追わないでください」

 予想できた言葉ではあった。先ほど思ったとおりだ。

 伝言ではなく、今まで見せることのなかった姿を見せてまで告げたい内容など、流れに反した行動に対する警告くらいしかない。

 しかし同時に、今はまだ<呑み込むもの>リヴァイアサンをたまたま追った風にしか映らないはずなのだが、なぜこうも断定的な物言いをするのかは不思議である。可能性を先読みして釘を刺しに来たのか、思考を読めないのはある意味いつも通りだ。

「理由は?」

「追った場合、どういう風に事態が進んでいくかは色々あるんでしょうけどね、どうなっても碌なことにならないんですよ。たとえば――――」

 くるくると、閉じた扇子が時計の針めいて円を描く。

「見つけられなかった場合、時間の無駄です。その間に君ができたはずの仕事はどのくらいになるでしょうね」

「俺には見つけられねえって?」

「君が急成長でもしない限り、そうっすよ。現に見失いましたよね、さっき」

 微かな笑みが腹立たしいが、もっともな指摘だ。どう逃れられたのかも分からないでは、次に同じ状況になっても対処は難しいだろう。

 だからといって退く気はない。やるなと言われれば、むしろやりたくなってくるものだ。

「で、お前なら追えるって?」

「そういうのもあたしのお仕事なんですよ、光次郎君。まさに、ライラックさんはポンコツではなく出来る女なんです。戦闘なんかは苦手ですけどね」

 軽い煽りはそれ以上軽く返される。

 組織運営は専門外、戦闘は苦手。ライラックは諜報活動を専門としているということなのだろう。それにしてはいつ見ても遊んでいて、まともに活動している時間などありそうには思えない。

 顔に出ていたのか、ライラックは悪戯っぽく笑った。

「いけませんよ、光次郎君。いい女には秘密がつきものっす」

「アホ抜かせ」

 半ば口癖と化している言葉を吐き、どうしたものかと考える。ライラックは口先で誤魔化される女ではない。真意に気づきながら誤魔化されたことにしてくれることはあっても、欺瞞に目を眩まされることは元からない。見た目通りの遊び人ではないだろうと光次郎が考えていた理由の一つでもある。

 そもそも、ふてぶてしい嘘で押し通すならまだしも、せせこましい舌先で切り抜けるのは気が乗らないのだ。

「で、続きは?」

 どう事態が進んでも碌なことにならないとライラックは言った。ならば見つけたときも想定しているはずだ。

 扇子がまた開いた。

「追いついてしまったら、正直<呑み込むもの>リヴァイアサンがどう反応するのかはあたしにも分かりません。ただ、敵対的だったら君は死にます」

 ライラックは光次郎の顔色を窺うこともなく、いともあっさり負けると告げた。

「ほお」

 必ず敗北すると断言されたに等しくとも、光次郎も眉をぴくりと動かしただけだ。

「そこまでか」

「何より容赦がありませんからね。処刑人は伊達じゃあないですよ」

 開いた扇子で己の首を掻き切る仕種。消えない口許の薄い笑み。それでいて印象は煽るでもなく、どうにも捉えきれない。

「とはいえ、死ぬと聞かされて怖じる君、君たちではないのが困ったものっすね」

 剣豪派は強さを得ることを重視している。その強さは、決して一様なものではない。闇討ち上等から正々堂々とした一騎討ちまで千差万別だ。

 しかし、共通する芯は、やはりある。

 強くなるとは生きていてこそだ。勝てもしない相手に突撃して無意味に死ぬなど、鼻で笑う他ない。死に陶酔する愚昧はいない。

 同時に、捨てねばならぬとき、賭けるときに怯えて手元を狂わせることもない。

 元より刃の上を歩いているのだ、当たり前のように死ぬのだ。必要とあらば何を惜しむことがあろうか。

「しかし命を捨てる意味はありますか、光次郎君」

「捨てる意味はないな。成功させて初めて意味ができる。さっきお前が言ってたことを裏返せば、敵にならない可能性も充分あるはずだが?」

 どう反応するかは分からないとライラックは言った。痛いところを突いてやったとは思わない。それより更に前、どうなっても碌なことにならないと口にしていたことも覚えているからだ。最後に回したのは、むしろそれこそが最も口にしにくいからだろう。

 果たしてライラックは莞爾と笑った。

「最悪です。やばい奴として敵対宣言したのに仲良しこよしされたんじゃあね。火のないところに無理矢理立てられた煙ならあたしが処理しますけど、実際に燃えてたら限度があるんですよ。そりゃもちろん、見つからなきゃいいんですが、嘘でもそういうことにしたいであろう向こうさんは血眼ですよ。百に一つの可能性も排除したいですね」

「なるほど、めんどくせえ話だ」

 理解はできた。袂を分かったはずの処刑人とまだ繋がっていたなど、内外問わず<竪琴ライラ>に対する不信を増幅、爆発させる燃料以外の何ものでもない。

 そして背景を推察することも難しくはなかった。

 実際には処刑人まで辿り着けないのであれば放っておいてもよかったはずだ。それをわざわざ探すなと忠告しに来たのは、周囲にいられるだけで邪魔になるからだろう。たとえば、人知れず処刑人に連絡をとりたいのに、身を隠す能力のない輩にうろつかれたせいで敵の目を引いてしまうのだったりして。

 恐れているのは、ライラックが口にした通り友好的接触を敵に利用されること。火が存在しているがために、煙には必要以上に神経質にならざるをえない。

 光次郎は口にしなかった。ライラックは今この時も壁の耳を警戒しているはずだ。自己の反発心を快楽で満たすために要らぬことを口走りはしない。

 それでも言っておきたいことはあった。

「<三剣使いトライアド>はどうする? 早晩潰れかねんのは事実だろう、ありゃ」

「察してもらえて何より。清濁併せ呑める子は好きですよ。<三剣使い<トライアド>に関しては、君が関わらなくとも止めるべき案件ではあるんですよ。処刑人に会えるかもしれない、話が通じるかもしれない、上手く負かしてくれるかもしれない、周囲からの重圧が弱まるかもしれない。『かもしれない』はせめて一つだけに収めておくべきでしょう。無茶苦茶言ってるとは思いませんでしたか、光次郎君」

 調べたのか、あの場にいて聞いてでもいたのか、案の定ライラックは玲奈との会話を踏まえた反応をした。

 双眸が針のように細められ、見たこともないような酷薄な色に染まった。

「ええ、追い詰められている。正常なつもりでいて正常じゃあない。病識がないというやつですね。しかし彼らには申し訳ないですが、今はそれどころじゃあありません。もうちょっと頑張ってもらうしかないっす」

 正直なところ、あまり見たい顔ではなかった。あの役立たずでのほほんとしたライラックが意外と嫌いではなかったことを今になって知る。

「お前、間違ってもそんな顔をあいつに見せるんじゃねえぞ」

「真朱ちゃんはそうやわでもないと思いますけどねえ。お説教くらいそうなんでやりませんけどね」

 ライラックはまたも薄い笑みを浮かべる。夏場に放置された氷菓子のように溶けたいつもの様からは想像もできない、妖艶で、寒気のする。

 それとともに、『あいつ』としか言っていないにも拘らず、玲奈ではなく真朱のことであると的確に当ててくる洞察力に戦慄する。

「でも何だかんだ言って光次郎君は本当に女の子に甘いですね。玲奈ちゃんにしても、相談してきたのが素也君本人だったら、てめえで何とかしろで切って捨ててましたよね、多分」

「女がどうこうは知らねえよ。男はてめえのメンタルくらいてめえで何とかするもんだろ」

「むーん、ま、今は揚げ足を取るのはやめておきましょう。色々と忙しいですからね」

「おい」

 困ったように笑われるのは不本意だった。おかしなことを口にしたつもりはない。

 しかしライラックは扇子で口許を隠してころころと笑うばかり。やがて再び露わにしたときにも、まだ笑みの色が含まれていた。

「ああ、そうそう。あたしは思うところを告げましたけどね、実際にどうするかは君の自由です。自由というか、力ずくで君を止めようなんてしてたら、それにかかりっきりになって肝心のお仕事ができなくなってしまいますからね。本末転倒というやつです」

 いつしか靄が濃くなっていた。天頂近くに光は見えるが、正確な位置が曖昧になっている。

 音もない。眼下の、これもまた白い薄膜の向こうに押しやられた人の営みからは<魔人>の聴力をもってしても何も聞こえない。

「お前の仕業か」

「用心っす。またお仕事に戻る前にあたしの痕跡は消しておかないと、<赤旋風リッキー>に感づかれたら面倒極まりないですからね。あれはそのくらいの嗅覚を持ってやがります」

「リッキー?」

 安直なあだ名めいた響きに光次郎は眉根を寄せた。

 最初に思い浮かんだのは、あの人売りを掻っ攫って行った赤い剣の男だ。そして次に新たな脅威を想定する。

 が、正解は前者だったようだ。

「光次郎君もばっさりやられたって聞きましたよ。あれが相手じゃあ、仕方ないですけどね」

「待て、あいつのことを知ってるのか!?」

 思わず詰め寄っていた。正体不明として宙に浮いていたはずなのに、まるで当たり前のように断定されたことに動揺を禁じえなかった。

 そしてライラックもまた、訝しげな顔を見せた。

「知ってるも何も…………いや、そういうことですか。オーチェはもう、そんなことすら捉え切れていないと。可能性として想定はできている、けれど確信はできないと。だから<呑み込むもの>リヴァイアサンをどうこうなんて暢気なことを考えてる人がいるわけだ」

「おい!」

「光次郎君、伝言をお願いします。オーチェに、君の口から直接です。君の知りたいこともそこで教えてもらえるでしょう」

 有無を言わせぬ口調。呑まれたわけではない。けれど今は容れてやろうとは思えた。

 麗しい相貌に、先ほどまでのどことなく人を食った、あやふやな様子がない。

「該当人物は紛うことなく鏡俊介。それを前提に加えて大至急対策を練られたし」

「カガミシュンスケ……鏡俊介。聞き覚えがあるな」

 その記憶は片隅ではなく、むしろ中央にあった。しかし薄っぺらく、響き以外には碌に思い出せることがない。その名を聞く機会は比較的あったように思うが、確か敵だったはずだ。

 ライラックが苦笑した。

「どういうわけか前線にほとんど出てこなかった上に、いつも冠付きで呼ばれてますからね。ええ、いつもはこう呼んでます」




<奏者>プレイヤー鏡俊介。<横笛フルート>の首魁ってやつっす」





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