この手、繋いだならきっと・八






 泣いている。

 だから守ってやらなければならないと思った。

 泣いている。

 だから守ってあげないといけないと誓った。

 もう、何年前になるのだろうか。












 太陽が中天に至っている。

 この三日間、梅雨だというのにからりと晴れたままだ。

 その眩さのせいか、空は青よりも白としてより強く感じられた。

 この陽の光は<闘争牙城>に属するものなのだろうか、それとも外から取り入れたものなのだろうか。

 ガードレールに腰掛けたまま天を仰ぎ、修介は取り留めもない思考の流れの中でそんなことを思った。

 魔神の力は絶大だというが、具体的にどれほどであるのかは知らない。ただ、狭いながらもこのような<世界>を作れるほどであるのは確かなのだろう。

 不思議な気分だ。現在の日本において、人間と魔神の距離は近い。そうそう遇えるものでこそないが、インターネット上のファンサイトでならば彼女たちの人外れた美しさをいくらでも拝める。その距離感からは、これほどのものを創り出す力を有しているような気がしない。

 勿論、その違和感の方が間違っているのだ。人間に当てはめてみれば分かる。

 たとえば、巨大な建物を造ることは自分にはできない。しかし知識と技術を持つ誰かが何十人も集まって、同じく人が作り上げた機械を用いれば可能となる。では自分では到底成し得ないことをやってのける彼らが常人とは異なる言動を行うのかと言えば、そんなわけはないのだ。今日の昼飯は少し奮発して八百円くらいでだとか、最近娘が冷たいだとか、きっとそんなありふれたことを思うただの人間なのである。

 だから魔神が凄まじい力を有していることと意外と親しめることとは矛盾しない。

「……そういや考えてみたらハシュメールがどんな奴なのか知らないんだな、俺」

 ふと思い出し、呟く。

 <竪琴ライラ>の主、<吟遊>のハシュメールは構成員の前に姿を現したことがない。ファンサイトも見当たらなければ写真の一枚も見たことがない。<魔人>となる際に幻の中で会話らしきものをしたはずではあるが、それすら会話らしきものをしたとしか覚えがない。

 ステイシアという存在が偶像役を担っているせいなのだろう。神官派はそれで満足してしまう。他の五派も構造自体は似たようなものである以上、同じことである。

 そこに不満のあるわけではないが、疑問は胸に残った。

 ハシュメールは一体何をやりたいのだろう。何故<竪琴ライラ>を作り、野放図に振る舞う<魔人>を抑えるのだろう。

 この疑問への答えをステイシアは、あるいは処刑人は知っているのだろうか。

 修介は、ただ漫然と日々を過ごすことを望まない。可能な限り早く、得たい。

「……まあ、そのためにも力は要るか」

 立ち上がる。

 休憩は終わりだ。アスファルトを踏みしめ、車の通ることのない車道の中央へと進み出る。

 <鴉>の教えは短いながらも多岐にわたる。

 その中の一つに、自らの強さの形を見つけ出せというものがある。何をもって力と成し、いかな一撃を己の象徴とするのか自問せよというのだ。

 いかにも凌駕解放オーバードライブの鍵となってくれそうなこの教えについて、修介は思索を続けていた。

 構えを取る。教わっていた空手のものではない。いつしか自然と覚えていた、何もかもを撓ませたような姿勢である。踵を浮かせ、膝を曲げ、背を丸めて前傾姿勢となり、卵を握る程度に緩めた両手は胸の前に。

 傍から見てあまり格好の良いものではないのだが、迅いのだ、これは。即座の反応と加速を行うのに、少なくとも修介にとって最良の構えだった。

 十秒以上の時間をかけて息を吸い、二十秒近くにわたって吐く。苦しさは皆無だ。そもそも意図してそうしているわけですらない。

 深く己の内に潜り込む。

 力とは何か。それは既にあり得意とするものだろうか。それとも未だ持たぬ新たな何かなのだろうか。

 前者であるならば<猟犬ハウンド>と呼ばれるに至った捕捉・追尾能力だ。自負もある。ただ、これが己の最強なのだと断言するには迷いが残る。

 まさに後者への未練、自分を決め切れない。

 この惑いに朝から悩ませられていた。

 アスファルトを後ろへと蹴る。もし人に同じ蹴り出しを行えたならばその力だけで踏み砕きかねないほどのものだが、<魔人>は理不尽を行う。

 足音すら僅かに、旋風となって駆ける。

 速く、速く、どこまでも速く。背後へと流れてゆく景色に迷いを乗せて押し流せはしないかと。

 人の姿もある。正確には<魔人>か。こんなところへただの人間が来るわけがない。

 さほど気にも留めず、修介は駆け続ける。駆け続けようと、した。

 悪寒。

 理由もなく全身を襲ったそれに対し、修介は反射的に大きく右へと跳んだ。そのまま身を捻り、平屋のレストランの屋上に道路側を向いて四肢を突くようにして降り立つ。

 つい今の今まで駆けていた場所、車道を小さな光弾が駆け抜け、街路樹の一本に当たって弾けた。

「誰だ!」

 あの程度なら当たっても問題はなかったか。そう思いつつも誰何に淀みはない。まなざしも厳しく、全体を俯瞰する。 

 <魔人>の五感というものは、普段は人並みでありながら必要に応じて大きく鋭敏化するものである。それらしき人影はすぐに見出すことができた。右手三百メートル、車道の中央。<闘争牙城>に相応しからぬ怯えた表情の少年が一人。

 逃げ出そうとするが、遅い。駆け出そうとするのも遅ければ、足も<魔人>として最低限でしかない。<猟犬ハウンド>にとっては遊びにもならぬ獲物だった。

 何も考えずに追ったわけではない。先ほどの悪寒が攻撃を仕掛けられようとしたことによるものならば、この<闘争牙城>における条件から、少なくとも格上ではないと推測した上でのことである。そして、仕掛けられたときに格上が反撃できないなどということもおそらくない。格下のやりたい放題になってしまうからだ。

 捕らえたときにも、まだ大通りすら抜けてはいなかった。ちょうど、修介たちが入って来た出入り口のすぐ近くだ。

「何のつもりか教えてもらおうか」

 ガードレールに押し付け、見下ろす。

 少年は震えながら、喚き立てた。

「違うんだ! 恨みとかあるわけじゃなくて……あんたを倒せばオレだけは解放してくれるって言うから……!」

「誰に頼まれた? どうして俺だ? それからお前らは何人いる?」

 訊くべきことは幾つもある。<竪琴ライラ>として尋問に慣れているわけでもないが、この怯えようなら素直に喋ってくれるだろうと思えた。

 しかし、それは見通しが甘かったのだ。

 少年は目を血走らせ、逆に詰めよって来た。

「あんた<竪琴ライラ>なんだろ!? なら助けてくれよ! オレだけでいいからさ、あの糞野郎から自由にしてくれよ!」

「糞野郎? そいつは誰だ?」

 おそらくはそれこそが自分を襲うように命じた人物なのだろう。そう思って修介が更に詳しく聞き出そうとしたときだった。

「あの<…………あ?」

 言葉の途中で、少年の胸にぽっかりと穴が開いた。

 穴は底など見せずに急速に広がり、少年の肉体を食らい尽してゆく。

「なんだよこれ!? いやだ、いやだ、いやだいやだいやだたすけてたすけてたすけっ……!」

 悲鳴すら途中までしか許されない。少年は穴に食われ、穴も自らを食らうようにして消失した。

 修介は何らかの行動を起こすことも忘れて、一連の異常を呆然と見送った。

 最初は、少年の裏側にいる誰かがやったのかと思った。しかしすぐに気付く。これはこの<闘争牙城>の掟なのだ。

 向上心を失くした者には死あるのみ。自分自身で足掻くのではなく、ただ救いを他者に預けてそれを乞うだけとなった彼には死が与えられたのだ。

 どっと脂汗が浮いた。嘔気も催す。理屈では分かっていたはずのことが今、実感として修介を襲っていた。

 それでも、恐怖を下せるだけの肝の太さが修介には備わっていた。

「……なるほど」

 一度大きく深呼吸して、誰に向けるともなく笑って見せる。

「なるほどな」

 もう一度呟く。

 心が折れたならば、きっと同じ末路を辿ることになるのだろう。

 だが、いい。安穏とした空間など元より望んでいなかったはずだ。現実的な死が見えているくらいで丁度いい。修練も進むというものだ。

 そう自分に言い聞かせたときだった。

「修ちゃん!!」

 よく知った声がした。






 ほんの三日やそこらだったはずだ。

 昔から聞き慣れていた声でもない。

 それでも、妙に懐かしく思えた。

「……藍佳」

 振り返り、姿を確認する。

 長身の、ショートカットの少女。人だった頃より身長を大きく伸ばしてしまったせいで<魔人>となってから一週間くらいは違和感に目を回していたことも覚えている。ベルトにひとつだけ吊るした御守りが揺れていた。

 どうして<闘争牙城>にいるのが分かったのかは疑問に思わない。むしろ、ステイシアに調べてもらったにしてはいやに遅かった気がするくらいだ。

 ほんの十メートルほどの距離を開けて対峙する。

「やっぱり来たのか……」

 最初に思わず漏れたのが心底面倒そうな溜め息で、自分でも滑稽だった。

 実際、来るだろうとは思っていたがいざ目の前に現れたならどう凌ぐかは考えていなかった。逃避していたと言ってもいい。

 本当に、やり難くて仕方がないのだ。

「さあ修ちゃん、帰りましょ。ヤバい奴が来る前に」

 藍佳は、それが当然といった口調でこちらに手を伸ばす。

 今度は苦笑が浮かんだ。彼女の傲慢を打ち砕かなくてはならない。もう思い通りにはならないのだと示さなければならない。

「俺はまだ帰らない。心配するな、別にどこかに行くわけじゃない。一週間か二週間すりゃ帰るさ。早けりゃ明後日あたりかもしれないくらいだ」

 きっぱりと拒絶するつもりであるのに極力穏やかな言い回しになってしまうのは、染みついた癖である。

 しかし、それでさえも藍佳には不満な模様だった。

「だめ、今すぐ帰るの。修ちゃんの傍に凄く危ない奴が来てるのよ。帰るの! すぐに!」

 つかつかと歩み寄って来て、こちらの手を掴もうとする。束縛の、証だ。

 その手を修介は無言で払った。

 肉を打つ軽い音。痛みなどないはずである。

 なのに、火傷でもしたかのように藍佳はその手を抱え込んだ。きっと無意識になのだ。表情は何が起こったのか理解できていないのであろう、呆けたものだ。

「……修、ちゃん……?」

「そこまで驚かなくてもいいだろ」

 小さく笑う。そういえば、手を払ったのは初めてだったか。中学生の頃でさえ、気恥ずかしくとも拒絶はしなかった。

「危険な奴ってのは……まあ、直接には知らないけど、ついさっきそれっぽい心当たりには出くわしたな」

「だから! 危ないの、すぐ帰らないと!」

「大丈夫だ、師匠もいるし、そもそもこの<闘争牙城>は格下に戦いを仕掛けられないようになってる。寝込みを襲うとかも無理じゃないかな」

 安心させようと修介は言葉を重ねる。

 瞳に映る藍佳の様子は、十数年の付き合いから判断するならば明らかに平衡を欠いている。極力刺激はしたくない。

「心配しなくていい。さっきも言った通り、少ししたら帰る。あとちょっとで掴めるかもしれないものがあるんだ。だから……」

「……修ちゃんは」

「いや、だから」

「あたしがいないと何もできないんだから、無茶しちゃだめなの!」

「っ!?」

 その瞬間、今まで宥めすかして来た鬱屈が粘つきながら鎌首をもたげた。

「……そんなことはないだろ」

 声が震えていることに腹が立つ。もう抑えられないことが頭に来る。

 だが、構わないのではないだろうか。藍佳がいなければ何もできないだなどという戯言も、排除しておくべき事柄の一つではある。だから抑える必要そのものがもうないのではなかろうか。

「そんなことあるわよ! 修ちゃんはあたしの言うことを聞いてればいいの」

 いつもと変わらず、藍佳はそう言う。

 やはり何も分かっていないのだ。ならばこの際、一度すべて断ち切ってしまうべきなのかもしれない。

 いや、断ち切るべきなのだ。

 長年溜めに溜め込まれたものが今、溢れ出す。

 握り締めた拳が震えている。口許は内心に反するかのように笑みに似た歪みを示して。

「……ふざけるな」

 最初はかすれた声で。

「ふざけるな!」

 繰り返しは怒りの滲む声で。

「ふざけるなよ、藍佳!」

 三度目は絶叫になった。

「なにが『何もできない』だ!? 俺はお前の人形じゃない!」

「どうして言うこと聞いてくれないの!? 早く帰らないとここは危ないって言ってるでしょ!」

 藍佳も負けてはいなかった。先ほどの拒絶には呆然としたものの、もう調子といつもの強引さを取り戻している。

「力尽くでも連れて帰るからね、修ちゃん!」

「……上等だ」

 構えを取る藍佳に、修介も牙を剥く。

 互いに弾かれるようにして、二人の距離は開いた。






 神野修介と諸角藍佳は互いのことをよく知っている。

 ただの人であった頃も、<魔人>となった今も、全てではありえないとしても誰よりもよく理解している。

 もちろん、力の程もだ。

「修ちゃん、まぐれくらいでしかあたしに勝てたことないよね」

 藍佳はやや右を引いた姿勢で、軽く開いた両手を豊かな胸の前に浮かせている。

 その両手はいつも、修介の打撃を見事に捌くのだ。

 修介と同じく、藍佳が用いるものはかつて教わっていた空手ではなく、そこから大きく変化させた我流である。それは純粋な技術としては理想の空手に及ばないが、人には不可能な芸当を易々と成し遂げる<魔人>の使うものとして、またそのような<魔人>に対するためのものとして磨き上げられた代物だ。

「別に、あれはまぐれじゃない」

 修介は全身を獣のように撓ませ、じり、と掌一枚の厚みの分だけ右足を前に出す。

 両者とも各身体能力における彼我の差は承知している。膂力と俊敏さ、いずれにおいても修介が二段階ほど勝る。

 しかし藍佳にはそれを補って余りある業があった。

 才によって開いた差ではない。道場での修練、藍佳に見つかってしまったことで早々に惰性へと堕ちてしまった修介と、修介に勝ろうと幼いながらに必死に積み上げた藍佳の差である。

 無論、藍佳も中学へ上がる際に修介とともに止め、それ以降は<魔人>となるまで鈍らせるままだった。

 だが<魔人>と成った際に増幅されるものは身体能力ばかりではないのだ。費やした時、流した血と汗は無駄とならない。鈍った業を磨き上げ、故障によって武への道を諦めざるを得なかった者へも再び武を与えてくれる。

 成って以来、修介も追いつこうとして来たものの、まるで届く気がしない。強過ぎる、速過ぎる肉体が、そして鋭敏過ぎる感覚が、脆弱な人としての業を新たに修得することを阻害するのだ。

 ただの動きの組み合わせとしての技や<魔人>として得た能力の応用ならば問題はない。しかしすべての根幹となる抽象的にしか語り得ぬ何か、非力がゆえに到達できるものはもう見つけられない。不可能ではないのかもしれないが、この手を擦り抜けてゆく度合いは人であった頃の比ではない。

 何かが見えていた上で<魔人>と成った者と見えていなかった者との間には、業において断絶にも近い差がある。大半の<魔人>は気付いていないが、あるいは<魔人>を構成する能力の中で最も残酷なのではなかろうか。

「来ないの、修ちゃん?」

 挑発。狙ってではない。有利不利を考えてではなく、少なくとも修介に対しては姉としての自負から先手を譲ろうとしているだけだ。

 しかし修介は迂闊に仕掛けられない。<鴉>に言われるまでもなく、落ち着いて待ち構えている相手が自分にとって危険であることは、昔からまさに藍佳で知っていたのだ。

 <鴉>が相手ならば、その上で突進してよかった。教えを請う側であり、小賢しく立ち回るよりは敗北を糧とするためにあえて不利に足を踏み込むことも有意義だった。

 けれど今は違う。意地を通し、勝たなければならない。

 怒りはまだ燃え盛っているが、先ほどの叫びで一部を吐き出したおかげか己を見失ってはいない。熱いものは鼓動とともに闘志へと変換されてゆく。

「俺を連れて帰りたいんだろ? ならお前から来るべきだ」

「言ったね」

 藍佳の眉がきつく寄せられる。

「いいよ、乗ってあげる」

 それもまた、姉としての矜持から来るものなのだろう。誘われていると理解した上で首肯した。

 その姿が一度ゆらりと揺れたかと思うと、ぐん、と大きくなる。三十メートルに開いていた距離が一歩、十八分の一秒で存在しなくなった。次いで不意に視界から消え去る。

 速い。修介よりも二段落ちるとは言っても、並みの<魔人>とは比べものにならない。

 だが当然ながら、修介の方が速い。俊敏に大きく後ろへ跳び下がっていた。それでようやく間に合った。

 地面を蹴った足のすぐ下を藍佳の鉞の如き蹴撃が薙ぐ。急速接近から力を抜いて身を落とすことにより、高さと印象の落差を用いて相手の意識から己を外して足元の死角に潜り込む、藍佳の得意技である。

 一連の動きを知っていたからこそ、迷いなく修介は下がれたのだ。

 もっとも、藍佳もそれで止まるわけではない。蹴りの勢いに流されることなく自らを制御、小さな一回転によって逆に加速の材料とする。

 いかに修介の方が速さで勝るとはいえ、後退が前進を突き放せるわけもない。二人の距離は再び急速に縮まる。

 舐めるな。俺を舐めるな。

 藍佳の瞳に浮かぶ色を見て、修介は内心で吼えた。

 懐まで入り込み、繰り出される掌底。それを避ける動きと次への移動を同じものとする。

 跳ぶ方向は、後方上。そのまま身を捻り、信号機へ下向きに着地する。

 外す不安はなかった。藍佳を上回ると自負するもののひとつ、標的と周囲を常に感覚に捉え続ける能力はこの場所を足場として確実に確保してくれた。

 再び視線が合う。

 ここから行うものは、<鴉>にも放った肘打ちだ。<鴉>は上からの襲撃を半ば予測していたから容易く捌いた。では今、驚愕に双眸を見開いた藍佳はどうか。

 答えを推測する余裕など双方ともに存在しない。

 流星のような右肘が幼馴染を襲う。

 しかし藍佳も即座に反応した。頭上に置いた自らの右手首に左の掌底を当て、修介の肘を真正面から迎え撃つような動きを見せた。

 迎撃する意味は薄いはずだった。速度に乗って打ち下ろされる肘とぶつかれば、なすすべもなく潰される。

 だから藍佳は迎え撃たない。破壊を為すはずの肘が触れたのは、藍佳の右手首の尺側わずかに下。それもほぼ擦れ違うように。

 けれど擦れ違いはしない。左手に支えられながら、藍佳の前腕は修介の肘を自然と外側へ誘導する。

 今度は修介が目を剥く番だった。

 直撃は言うに及ばず、迎え撃とうとすれば潰せる、遮ろうとしても腕をへし折れる。そのはずだったのに、藍佳は不意を打たれたにもかかわらず見事逸らしてしまったのである。

「く……」

 着地の後、即座にその場を離脱する。

 充分な距離を確保しながら振り向けば、藍佳もこちらに向き直ってはいたものの、追撃を仕掛けてはこなかった。

 その右腕はざくりと裂け、抉れ、鮮血が滴り落ちていた。さすがにあの一撃を無傷で凌ぐことは叶わなかったようだ。

 傷は巻き戻すようにしてすぐに消される。

 しかし藍佳の顔は蒼白だった。くちびるが小さく震えている。

「…………なんで…………?」

 やっとのことで絞り出した声もまた、震えていた。

「……ねえ修ちゃん、どうして……?」

 その表情、声の理由は流れた血でも痛みでもない。

「あんなのまともに入ったらただじゃ済まない……あたしなら死にはしないかもしれないけど、でも……本気で打ったよね……!?」

 <魔人>となってからも手合わせは幾度も行っていた。だがそれは修練だ。本気であっても、全力であっても、意味が違う。先ほどのように自分では止めようもないほど攻撃のみにのめり込むことはしない。殺しかねない一撃など使わない。

「そりゃ、本気だからな。耐えてくれる確信もあった。まさか捌かれるとまでは思わなかったけど」

 修介は獰猛に笑ってみせた。覚悟ならば先ほど済ませた。

 全身を撓める。まなざしを尖鋭に研ぎ上げる。

「無理矢理にでも理解させる。もうお前の指図は受けない」

 その宣言を、血の気を失ったまま藍佳は聞いた。ぎこちなく、ゆるゆると頭が横に振られる。

「……違う、あたし指図なんてしてない……」

「したさ。多過ぎていちいち挙げる気にもなれないけど」

「だってあたしはお姉ちゃんで!」

「幼馴染だ」

 鋭く遮り、それから修介は静かに繰り返す。

「俺たちはただの幼馴染なんだ。藍佳に命令権なんかないし、俺に従う義務はない。まあ別に、本当の姉弟でも権利や義務なんかないだろうけど」

「違うの……あたしそんなつもりじゃ……!」

 藍佳の整った顔が泣き出しそうに歪んだ。

 まだ理解したわけではないのだろう。時折発作のように小さな憤りも垣間見える。

「だって! 修ちゃんよく泣かされてたじゃない! だからあたし守らなきゃって……!」

「それが余計なんだよ!」

 幼い頃の随分と恥ずかしい記憶を思い出させられ、修介は不覚にも声を荒げていた。消してしまいたい事実の一つである。

「保護者気取りされるのはもう御免だ。俺を守る必要なんかない」

「だめ!」

 藍佳は拒否する。自分の理想の世界を否定するのは許さぬとばかりに、強く頭を振る。

 短く切り揃えた黒髪が乱暴に浮き、陽光に煌めいた。

「そんなのだめなんだから! 修ちゃんはあたしが守ってあげる、あたしはそのために強くなったの!」

 そんな藍佳を、修介はどこか透明な思いで見つめた。

 通すべきは意地だ。駄々をこねてはいけない。

「ああ、さすがにもう気付いてるさ、そんなこと。けどそれでも俺は今」

 自分に言い聞かせながら肯定し、そして万感の思いを込めて否定した。

「藍佳、お前を倒す」






 仕掛けたのは、今度も藍佳だった。

「そんなの許さない!」

 その声を残し、弾丸と化す。

 そして今度は、修介も踏み出していた。足を止めての近接戦闘では勝ち目は薄いが、速度と重さを活かし易いこういったぶつかり合いならば話は違う。

 加えて、自らに課した制約として、後ろへは退けない。前に進むか止まるかでなければならないと決めた。

 相対速度は音の三倍を超え、修介は拳、藍佳は掌。背丈の差、素直に打てる拳と体を入れなければ真っ直ぐに突き入れられない掌。射程が違う。交錯は修介の有利、に思われた。

 伸び切る寸前の拳に予定外の感触。藍佳の掌は修介自身を打つのではなく、拳に触れていた。

 失策を悟るも引ける勢いではなかった。藍佳は半身になりつつ拳を流したその腕で、修介の胸の中央へ肘打ちを叩き込んだ。

 両者にかかる力を一点に収束させたに近いその一撃は、先ほどの修介の奇襲の威力を凌駕する。声もなく吹き飛ばされた修介は向かいの喫茶店の窓硝子へと打ちつけられた。

 それが現実の建物だったなら、窓どころか家屋自体が崩壊していただろう。だが此処は<闘争牙城>、魔神イシュが創り上げた閉鎖世界である。<魔人>の力程度では壊れない。

 だから、修介は背の窓からも衝撃を叩き込まれることになった。

 苦痛のあまり視界が歪む。それでも声は意地にかけて上げなかった。

「うまくいくとでも思ってたの? 昔から修ちゃんはパワーとスピードばっかで防御がスカスカだもん、簡単だよ」

 藍佳は追撃をかけない。いつもの調子を取り戻して、澄まし顔で言ってみせる。

 しかし修介はそれが虚勢であることを見抜いていた。

「それは、どうかな。お前もただじゃ済まなかったんじゃないか、藍佳? あの瞬間、肘砕けてただろ」

 人間が人間に対して行うのであれば問題はなかったのだろう。人に出せる速度など客観的に数値を見れば大した差はないし、肉体の強度も高が知れている。余程の体格差がない限りは、あのような真似ができるだけの業を修めているのならば反動は巧く散らせる。

 しかし<魔人>は速さも強さも桁が違う。強靭な敵を正面から突き破るような一撃は、そこまでの玄妙に達しているか、あるいは自らも同等に強靭な肉体を有していない限り支えきれないのだ。

 藍佳の業が修介を大きく上回るとはいえ、あの反動を散らせるほどではない。

「パワーとスピードも馬鹿にしたもんじゃない。俺とお前、壊れ切るのはどっちが早いか……勝負だ」

 立ち上がった修介が即座に地を蹴る。

「何回やったって!」

 藍佳が反応した瞬間に、今度は横へ。次いで通りの向かいへ。一瞬たりとも留まることなく、宙空を翔け回る。

 自分の中に内燃機関があって、それが際限なく回転数を上げてゆく感覚。

 <鴉>には無駄に跳ね回るなと言われたが、裏返せば無駄でなければいいのだ。そしてもうひとつ。自分の都合だけを考えず、餌を置いて相手の行動を誘導すること。

 一度は修介に追随しようとした藍佳だったが、すぐに道路の中央に陣取って待ち構えた。全速で移動する修介に追いつくことは叶わないと知っているからだ。建物の壁を背にしないのは動きが阻害されるのを警戒してだろうか。

 ともあれ、藍佳は襲撃の瞬間を狙いながら意識は修介の動きを追っている。

 周囲で最も高いビル、その中ほどの壁を蹴り、修介は急降下した。藍佳の正面、斜め上方。

 信号機を足場としたときと似てはいる。ただ、距離は五倍近くあった。

 ミスではない。しかし藍佳はミスだと思い、その思いは油断となる。その場で無理に捌こうなどとするはずもなく、パンツルックの長身は軽く後ろに跳んで襲撃をかわした。

 着地は同時。前に出るのが早かったのは切り返さなければならない藍佳ではなく、今まで下へ向けられていた力を爆発的な前方への突進力と転化させた修介。

 否、転化したというだけでは済まされない。修介自身にも分からぬ力が身体の奥底から湧き上がり、その速度は今まで見せて来た速さを軽々と凌駕した。

 判断を誤ったのは自分なのだと気付く暇もあらばこそ、低い位置からの体当たりに藍佳の反応は間に合わなかった。しかも弾き飛ばされるのではなく、そのまま肩に引っかけられ、修介の突進も止まらない。

 そして来たのは鳩尾と背部への衝撃だ。不壊の壁にそのまま直接叩きつけられたのである。

「く、ぁあっ……!?」

 掠れた悲鳴が漏れる。全身が軋んだ。力の逃げ場がまったく存在しないだけに、受けた打撃は先ほどの修介にも劣らない。

 視線が交錯した。修介は一歩だけ退いて藍佳を解放したが、終わりとはしなかった。

 大気を切り裂いて拳撃が走る。

 苦痛の中、それでも藍佳は捌こうとするが、逆に弾かれた。触れるか否かの時点で修介が腕を引いたのだ。藍佳の手は惑い、震えた。

 藍佳の防御に穴はない。少なくとも修介の力量からすればないように思える。が、それを作り出す手段があることにも気付いていた。

 基本的に藍佳は、捌きから流れるようにカウンターへと入る。崩しを加えて相手の身体を泳がせ、そこへ一撃を入れるのだ。

 しかし、どんな攻撃に対してもその流れへと持ってゆけるほど卓越しているわけではない。浅く軽く速い、引くことを優先した手数重視の打撃には本来の力を発揮し切れないのである。

「おおおおおおおおおおおおっ!!」

 連打。己の肉体の限界に挑むように、ただ打つことと引くことだけを思いながらひたすらに両の拳を繰り出す。

 すべて受けられてはいる。時折絡みつこうとして来る手を跳ねのけ、引き剥がし、咆哮する。

 泥臭いにも程がある。技術も何もなく腕を振り回すのに近いものがある。

 しかし藍佳は確かに、混乱を隠し切れなくなりつつあった。

 まともな状態で受けていたならば、それでも苦もなく捌けただろう。速いだけ、多いだけでまともな拳撃とは呼べない。

 しかし苦痛のせいで身体を正確に動かせない状態から始まったこの連撃は、動きそのものが回復して来た今となって藍佳の拍子を完全に狂わせてしまっている。

「やだ……やだ、やだ!」

 むずがるように藍佳は小さく頭を振る。修介の一撃一撃が自分を否定するようで、膨れ上がってゆく恐怖がすべての精彩を奪ってゆく。

 やがて、受けるべき手の動きを大きく外した。その隙を修介は見逃さない。

 ぴたりと拳が眼前で止まる。合わせて何もかもが停止してしまったようだった。

「……俺の、勝ちだ」

 荒い息の中での勝利宣言。

 目を見開いた藍佳は背を壁に預けたままずるずると崩れ落ち、力なく膝から先を外側に放り出してへたり込んだ。

 ぼろぼろと涙をこぼしながら、幼い子供のように泣きじゃくる。

「やだ……やだよぅ……」

 それは、修介にとっては稀に見ることのあった姿だ。藍佳自身は気付かれないよう陰でこっそりと泣いていたつもりだったのだろうが。

 自分が泣かせているのだと思うと胸が痛い。だが、それでも勝たなければならなかった。そうしなければ前へ進めなかった。

 しかしこれが最後だ。最後にしなければならない。

「置いてかないで……あたし、頑張ったよ……? 精一杯美人になったよ? 胸だっておっきくしたよ……?」

 悲痛な声。縋るように伸ばされた手が震えている。

 その手を取り、修介は名を呼んだ。

「……藍佳……」

 それから、どこから話そうか少しだけ迷った。

「あのとき……<火炎牛>に襲われたとき、俺は何もできなかった」

 戦車をも正面から容易く粉砕し、生半な<魔人>では何十人集まろうと突き破られ蹴り殺される、今の修介でさえおそらく勝てない、そんな存在にただの人間が敵うはずもない。

 やったことと言えば半狂乱で喚いて腕を振り回しただけ。<火炎牛>にとっては痒みにすらならず、纏う炎によってこちらが燃えただけ。

「お前が泣いてるのに何もできなかった」

「……できるわけない……仕方ないよ……だって、もう身体が千切れて、燃えて……」

 あの恐怖を思い出したのか、藍佳の震えがいっそう強まる。

 しかし修介は奥歯をぎりと鳴らした。

「それだけじゃない!」

 確かに身体も動かなかった。火炎に侵され、意思から切り離されてしまっていた。死まで秒読みだった。だが、そんなことは何の言い訳にもならないのだ。

 修介は己を呪い、顔を歪ませる。

「俺はあのとき……最後の最後で諦めた! お前を守ることを諦めたんだ!」

 そしてそれなのに助かったのだ。<火炎牛>は名和雅年が葬り去り、自分たちは<魔人>と成る素質に恵まれたことで生き延びた。

 感謝はしている。だがそれ以上に妬ましかった。

「……俺が守りたかった。どうして俺じゃなかった? どうして俺は諦めた……?」

 逆恨みもいいところなのは理解している。それでもこの気持ちは止められなかった。

 たとえ諦めなかったとしても、藍佳を救えたわけではない。力が伴わなければ自己満足にしかならない。

 だから強くなりたかった。藍佳を害するものをすべて跳ねのけ、自分の弱い心を叩き殺してくれるほどの強さが欲しかった。

 できることならもっと大きく構えることのできる男ではありたかった。過去に囚われず未来を見ることのできる人間でありたかった。それでも、卑屈な気持ちから出ているのだとは思っても、力が欲しかった。

 溢れ出た激情、弱い自分への憎悪を押し込め、やがて修介は穏やかに笑った。

「俺はお前を守りたい。守られるなんてもってのほかだ。そのために強くなりたいんだ。だから……絶対に置いてなんか行くわけない」

 その言葉の意味を理解できたのだろう。徐々に藍佳の顔に笑顔が灯ってゆく。

「……ほんとにどこにも行かない……?」

 訥々とした、幼げな口調。今の凛々しい容貌とは不釣り合いで、だからよりあどけなく思える。

 けれど、本当に明るいものとなる前に、横合いから声がかかった。

 心底、詰まらなそうな声だった。

「やれやれ、がっかりだ」





  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る